近時、大河ドラマで登場している西鄕隆盛と坂本龍馬には、同時代の女性たちが語り残したエピソードが多々あります。

 

 

西郷隆盛は、「貧極まれど良妻いまだ醜を言わず」という詩を残しています。

これは西鄕の妻の糸子の姿を思い浮かべての詩であったと伝えられています。

 

この糸子の妹が伝えた次のようなエピソードがあります。

 

―糸子と隆盛が新婚当時、かの土佐藩の志士・坂本龍馬が、当時鹿児島で西郷家で厄介になっていましたが、ある日、龍馬は糸子に向って、「一番古いふんどしを下さらんか」と頼みました。よほど身の回りの品に不自由していたらしいことを感じた糸子は、夫の隆盛の使い捨ての褌を請われるままに与え、隆盛が帰宅した時にこれを報告すると、目から火がでるようにしかられました。「お国のために命を捨てようという人だと知らないか。さっそく一番新しいのを代えて差し上げろ」。

「西郷はめったに怒色を見せない人だったが、あんなに怒ったのは一度だけだった。しかもあの時の浪人が後日、国士として知られた坂本龍馬だったことを知った」のだと、晩年になって糸子自身はしみじみ述懐したといいます。

 

一方の坂本龍馬は糸子について慶応二年の姉の乙女にあてた手紙の中で、「西郷吉之助の家内(糸子)も吉之助も、大ニ心のよい人なれバ」と伝えています。

 

また龍馬が西鄕宅に宿泊した夜半に、西鄕と糸子夫人が寝物語をはじめた逸話もあります。

糸子が、隆盛に「宅は屋根が腐って雨漏りがして困ります。お客様がおいでの時など面目がございません。どうか早く修理してくださいませ」と訴えると、西鄕は、「今は日本全国に雨漏りがしている、我が家の修繕なんかしておられんよ」と答えたといいます。

  

 

もともと坂本龍馬は勝海舟の使者として京都にいた頃、西郷吉之助(隆盛)を訪問したと伝えられています。

もとより西郷は鹿児島城下の最下層に属する下級藩士の家に生まれ、18歳の時、農政担当役人の見習い(郡方書役助という)の役職に就き、約9年間農政を学んでいました。

坂本龍馬は初めて西郷と対面したおり、訪問を終えて京都から神戸に戻り、師の勝海舟に京都の政治状況を伝えはしましたが、西郷に関しては一言も触れず、一日経ても、二日経ても西郷に関して何も言わない龍馬に対し、勝は業を煮やし、龍馬に尋ねたといいます。

このとき龍馬は足を伸ばし、天を仰いで「西郷は馬鹿なり。大馬鹿なり。まるで、つかみどころのない馬鹿のようにみえる。しかも底の知れぬ大馬鹿で、鐘にたとえると、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り響く。その馬鹿の幅がわかり申さず」と伝えました。

龍馬は西郷隆盛をこのように評価した上で、「惜しむらくはこれを撞く撞木(自分)が小さかった」と付け加えたといいます。勝海舟は感嘆してこれを聞き、「評される人も評される人、評する人も評する人」と自分の日記に記し、後年人に語る際には。人を観る際の標準は自家の識量にある。龍馬が西郷を評した言葉は即ち、それをもって龍馬の人物を評したものであろう、と言い伝えたといいます。

両者はお互いの独特な人物像に双方とも魅了されたらしく、西郷はその後、龍馬に対し、なにかと援助を続けるようになりました。

 

しかし、後に龍馬は京都で暗殺されてしまいます。

この時期、龍馬は土佐屋敷(藩邸)に入れてもらえず、同じ京都の近江屋という醤油屋に滞在していました。

龍馬の死去を知った薩摩の西郷の憤怒は凄まじかったようです。

龍馬が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を突くかの凄まじい形相で土佐藩・の後藤象二郎を捕まえて、次のようなやり取りをしたことが伝えられています。

 

「おい、後藤、貴様が苦情を云わずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こんな事にはならなかったのだ、・・・・・・全体、土佐の奴等は薄情でいかん」

怒鳴りつけられた後藤は苦い顔をして「いや、苦情を云ったわけではない。実はそこにその色々・・・・・・」

「何が色々だ、面白くもない。如何だ貴様も片腕(龍馬のこと)を無くして落胆したろう。土佐・薩摩を尋ねても他にあの位の人物は無いわ、・・・・・・ええ惜しいことをした」とさすがの西郷も口惜しさに泣いたそうです。「反魂香 安岡秀峰聞書(一部書き下し)」

 

西郷隆盛はかねてより龍馬を高く評価していました。

「天下には(数多くの)有志がいた。私はこれらの人物達と多く交わってきた。しかしながら、その度量の大きさにおいて、龍馬程の人物にはいまだかつて出会ったことがない。龍馬の度量の大きさは、到底、推し測ることはできない程だった」―と西鄕は語っています。

 

 

 

龍馬の妻・お龍は、龍馬の死後、土佐の龍馬の実家に滞在したり、京都から江戸東京を放浪し、落剥した状態に陥った後半生を送りました。

このお龍の後半生の様子や江戸での西鄕との再会を伝える聞き書きが残されています。

 

京都から江戸に向かう彼女のここでの道中は共もなく、唯一人であり、女のか弱い足で海道百五十里を、野に伏し、山に寐て、ようやく東京に辿り着き、霞ヶ関の吉井友実の家を訪ねたといいます。

折り良く、薩摩の西郷隆盛が来合わせており、共に二階で、お龍は(信頼している西郷に)今までの経緯を語り、「妾(わたし)一人の身であれば、どうにでもなりますが、大阪にいる老いた母親や、まだ成人していない妹の光枝や弟の太一郎の3人を養わなければなりませんから、どうか身の振りかたをお頼みします」と相談を持ち掛けました。

西郷もこれに同情を表し、金子二十円をお龍にやり、「私もこの度、征韓論のことで大久保(利通)と論が合わず、依ってひとまず先に薩摩へ帰って百姓をするから、再び上京した時にはきっと腕にかけても、御世話はしますから、それまで待ちなさい。これ(二十円)は当分の小使いです。ああ、お前さんも、いかい苦労をしましたのう」涙を流して帰ったと伝わっています。

しかし、やがてこの西郷が、やがて西南戦争において城山で討死したと聞き、お龍は泣き倒れました。

 

晩年のお龍は「ああ、龍馬の朋友や、同輩も沢山いたが、腹の底から親切であったのは、西郷(隆盛)さんと、勝(海舟)さんと、それから寺田屋のお登勢の3人でした」と老の目に涙を浮べて語ったといいます。

 

龍馬亡き後の龍馬の思い出や自身の境遇について晩年、お龍は、

「私も蔭になり陽(ひなた)になり色々龍馬の心配をしたのですからせめて自分の働いただけの事は皆さんに覚えておいて貰いたいのです。(中略)私は土佐を出てからは一生墓守をして暮らす積りで京都で暫らくおったのですけれど、母や妹の世話もせねばならず、といったところで京都には力になる様な親戚もなし、東京にはまだ西郷さんや勝さんや海援隊の人もボツボツいるのでそれを便りに東京へ来たのですが、西郷さんはあの通り(西南の役にて死亡)……、中島や白峰(海援隊士達)は洋行しておらず……随分心細い思いも致しました。私は三日でもよい、竹の柱でも構はぬから今一度京都へ行って墓守りがしたいのです、が思う様にはなりませぬ……。龍馬が生きておったら又何とか面白い事もあったのでしょうが……、是が運命というものでしょう。死んだのは昨日の様に思いますが、はや三十三年になりました。」

と、情には脆ろい女性の身の双の瞼に雨を醸して語ったといいます。

 

そして西鄕の死は、龍馬の姉にあたる乙女(坂本家の三女)という女性も悲しませました。お龍にとっては乙女は義姉にあたります。

お龍は、龍馬殺害後に一時期、土佐に身を寄せていましたが、彼女の証言によれば、

「お乙女姉(あね)さんはお仁王と綽名(あだな)された丈け中々元気で、雷(らい)が鳴る時などは向鉢巻をして大鼓を叩いてワイワイと騒ぐ様な人でした。(中略) 西郷(隆盛)さんが城山で死んだと聞ひた時、姉さん(乙女)は大声を揚げてオイオイと泣き倒れたさうです―」と語り残しています。

 

生前の西鄕は一時期、龍馬の故郷・土佐に滞在していた時期があり、その頃、乙女と西鄕は懇意となった過去がありました。西鄕の死は龍馬の遺族をも悲しませていたのです。

 

 

 

 

 

西鄕隆盛の妻・糸(いと)子

 

坂本龍馬の妻・お龍