吉本せい

 

 

吉本の歴史は日本の笑芸の歴史ともいえます。

笑芸界では昭和初期になって、万歳が漫才と呼ばれて新しい型のものが演じられるようになりました。

漫才と一口にいっても、色物や音曲、つまり諸芸漫才と、しゃべくり漫才といわれる話術漫才に分けられます。

古風な話芸や所作(しょさ)、囃(はやし)の流れを伝える諸芸漫才に較べると、話術漫才のほうは歴史は新しく、昭和五年にエンタツ・アチャコという有名な漫才コンビが誕生して以来のことでした。

そのテンポの早さ、ネタの新鮮さが若いファン層の人気を集めたのです。

 

この二人の新鮮さは、自分と同世代の若者たちが共感する事柄や日常生活の会話を、漫才として舞台で演じてみせたことでした。

この二人は、「ボクの結婚」「ボクの就職」「ボクの家庭」といったような「ボクの・・・」シリーズが、私小説的な興味もあって爆発的な人気を呼び、また野球漫才「早慶戦」でエンタツ・アチャコのコンビの名は日本中で誰一人知らない人がないほどに当時は知れ渡りました。

寄席から出発した吉本が、次第に漫才中心の吉本に変わってきた過程には、弟の林正之助の行動力と吉本せいの先を読む目の確かさがあったようです。当時として、若いファン層を拡げていった吉本せいの時代の流れを知る嗅覚は天才的といえました。

 

吉本は、古い落語の出番を減らし、若い層にうける若手漫才をどんどん舞台に送り出し、「吉本=漫才」のイメージを大衆に植え付けてゆきます。

売れそうだと思うと、徹底的に出番を増やして客に印象づける、という吉本流商法は、その後の昭和、平成の時代においても引き継がれ、スター的存在の若手落語家、若手漫才コンビが次々に誕生することとなってゆきました。

 

この吉本せいの時代の笑いの担い手になったのが、当時人気絶頂の、

横山エンタツ・花菱アチャコ、芦之家雁玉(あしのやがんぎょく)、林田十郎、柳家雪江、林田五郎、都家文雄・静代、ミスワカナ・玉松一郎、といった面々でした。

東京では、浅草花月を足場に、柳家金語楼、大辻司郎、あきれたぼういず、といった面々が育っていきました。

これらは吉本せいが送り出した喜劇人たちです。

 

そして吉本興業文芸部員として、笑芸作家の草分け、秋田実や長沖一を座付き作者として迎えます。

昭和十年、PCLという映画会社がエノケン主演の喜劇映画を撮ったのを機に、吉本興業はPCLと提携して映画作りにも手を伸ばしました。その頃、喜劇役者というのは、数が少なく、お笑いのメッカ吉本興業のタレント達をおいては、喜劇役者は揃わない、といわれるくらいに吉本のタレント達は注目を集めていました。

その第一回提携作品が、エンタツ・アチャコ主演の『あきれた連中』で、二作、三作とシリーズで封切られ大当たりをとりました。

 「商売のカンのよさと先の見通しの適確さ。それに男でも持ち合わさない度胸が、ご寮人(りょん)さん(吉本せい)にはありました。カンといっても、ご寮人さんの場合は、十分なデーターの上に立ったものだけに、たとえ瀬戸際に立ったときでも、信念をもってきり拓いてきたのだと思います」(吉本興業監査役橋本鉄彦氏のせい評)―と伝えられています。

 

 

後年において、吉本せいの生きた時代は戦時でもありました。吉本は大坂のシンボル通天閣を買収し昭和十八年、通天閣の献納式を行いましたが、通天閣そばの大橋座二階客席からの出火により、火事で、焼けただれてしまうという事故がおきました。

通天閣は、足先から30メートルの高さまで焼けただれ、市民は、まさかの姿と変わり果てた浪速のシンボルにただただ唖然とするばかりであったといいます。

第二次大戦下、戦局が激しくなるにつれ、軍部から通天閣献納の話が持ち込まれました。

せいは潔く、この話を受けました。通天閣を買うときも、またそれを手放すときも、実に決断が早かったのです。

せいは、復旧困難とみなし、戦時の時局を考慮し、解体の上、軍需資材として大阪府に献納することを発表。

通天閣を献納したら、二百五十トンもの鉄に生まれ変わって、お国のために、よう働いてくれる、とせいは考えたらしいです。

「お国のために命を的に戦っている兵隊さんの苦労を思え」、というのがせいの日頃からの口癖であったといいます。

この通天閣を献納することについては、地元民たちからのかなりの反対があったようですが、その反対を押し切っていさぎよく献納しました。朝に夕に通天閣をみて育った地元民たちからすれば、通天閣が目の前から消えてしまうことは、肉親との別れのように辛い、というのがその理由だったようです。

せい自身にしても、築き上げた吉本王国を象徴するような通天閣を失うことは、身を切られる思いであったに違いありません。しかし戦局からみて、いずれ献納を強要されるときが来るだろうから、それならば自発的に、という判断だったようです。

 

満州事変の勃発後には、ただちに組織し派遣した演劇慰問の「わらわし隊」を組織しました。

「わらわし隊」という名前は、当時の日本軍の航空隊が「荒鷲隊(あらわしたい)」と呼称されていたことに由来します。戦時中の新聞では「海の荒鷲」「陸の荒鷲」といった表現が頻繁に使用されており、当時、庶民の間でもなじみの深い言葉でした。派遣側はこの言葉から「笑わしたい」とダジャレをもじって命名したとされています。当時の朝日新聞との協力で行われました。

ちなみにこの頃、吉本は講談、漫談、浪曲、落語、漫才の各芸界の名だたる芸人を擁し、吉本の運営する劇場は、全国で二十七にのぼる数になっていたとされます。

 

 昭和三年、吉本せいは興行界に貢献した業績を認められ、紺綬褒章を授与されました。

吉本せいの存在は、関西の笑芸界にとって貴重なものとなっていたようです。

この当時、姉せいが勅定紺綬褒章を受賞した時の回想を弟・正之助は「やっぱり姉さんは偉い人なんやと思いました。私らその頃、何ぼ頑張ったかて、まだまだ実力のない可愛いヒヨコみたいなもんですがな」と語っています。

 

そして昭和九年には、大阪府知事から節婦としての褒状を受けました。その褒状にいわく、夫の死後、独身を守って仕事に精を出し、そのうえ慈善事業に理解を示した、というものでした。

白い喪服で、夫泰三の葬式に立ったせいは、二夫にまみえずの意志を生涯貫き通し、昭和二十五年三月、六十歳で、その波乱の人生を閉じたのです。