(伊藤博文と山形有朋)



山口県出身の総理経験者の中で吉田松蔭から直接の指導を受けているのは、伊藤博文と山県有朋です。


この山県有朋は下級武士の子供として生まれ、短い期間でありますが松下村塾で学びました。

彼は自分自身のことを「一介の武弁」、つまり一人の軍人、「軍人のはしくれ」だと称した人物です。

尊王攘夷派の奇兵隊軍監として活躍し、明治維新後は主に軍隊制度や官僚制度の整備に尽力した人物として知られています。

伊藤博文とは年齢も近く(伊藤より3歳年上)、共に幕末の時代を生き、明治の新生日本を作りました。


伊藤博文とは若い頃より知り合いだったこの山県に関して、こんな逸話が残されています。


若き日の山形有朋は家族に恵まれず、母親が5歳の時に亡くなったため、祖母の手で育てられました。その祖母は、山県が初めて京都に行った記念に京都名物のちりめんの着物を贈ったことをきっかけに、それを着て川に飛び込んでしまいました。

これは山県が28歳の時の出来事でしたが、この祖母が自死した理由というのが、『この歳になって、まだ祖母である私のことを気にしているようでは、とうてい大人物になれない。ここにおいては自分が自殺して激励するしかない』というものだったと伝わっています。


現代では考えられないような理由ですが、当時の時代の人たちにはこうした自己犠牲の精神が残っていました。自死という行為を通してでも行動で示すことで、そこから本人が何かを感じ取って生かして欲しい、と考えた結果であったとされています。


彼は後に第三代と第九代の2次にわたって総理大臣として、混乱した最初の帝国議会を運営後、元老となり、軍や官僚に対して絶大な影響力を持ち、日本の権力構造の基礎をつくりました。





山県は、その生涯において晩年にいたるまで何かにつけて「私と松陰先生は―」と前置きして、自分がどれほど松蔭からの影響を強く受け、彼に感化されたかを語っていたといいます。


山県有朋は伊藤博文とライバル関係にありながらも、日本が近代国家へと進んでゆく上において伊藤と一対の存在でした。

明治時代は、伊藤博文と山県有朋はよく比較される人物で、二人を比較して、龍と虎、麒麟と鳳凰と喩えている記録もあります。


山県有朋は志士から軍政家へ変化していった人物でしたが、大政奉還後の戊辰戦争でも軍人として活躍しました。やがて、伊藤博文同様にヨーロッパに留学し、アメリカを横断後、日本に帰国し、帰国後は廃藩置県や徴兵制に着手し、近代国家としての日本の姿を作り上げます。

そして、こうした日本の行政の土台となるシステムを作り上げたのが山県だとしたら、法整備の面で尽力したのが伊藤博文でした。その彼の仕事の代表例が明治憲法の制定です。


この「一対」と称された二人の行動の背景には二人を直接指導した松蔭の思想が根付いていたようです。