再会──それは「夜」との再会だったのかもしれない。
偶然というには、あまりに出来すぎた。
浅川マキの「音」を聴きたくなって、探していた。
「音」というよりは、「匂い」を探していた。
あの時、あの夜、あの暗闇。
すると、
浅川マキの1983年5月3日、吉祥寺・曼荼羅でのライブ音源に、YouTubeの片隅で再会した。
あの夜、私は確かに曼荼羅にいた。
住みはじめて間もない吉祥寺という街の。
池袋・文芸坐、文芸坐ル・ピリエ、新宿ピットイン……
マキさんのライブには何度も足を運んだが、
吉祥寺でのそれは、最も彼女に近づいた夜だった。
密室を感じさせる地下空間の距離、ではなく、呼吸の深さで。
あの夜のマキさんの語りは、やけに沈んでいた。
低く、まるで井戸の底から響くような声で、
「あの男(ひと)のことが、……」とつぶやいた。
「……あの男(ひと)の開いた目を、もう一度見てみたい」
その言葉の意味は、その時わからなかった。
だが、何か心に刺さったまま抜けなかった。
ライブが終わっても、マキさんはどこか、
放心したように見えた。
終演後の拍手も空気に吸い込まれ、
彼女だけが、舞台の上に取り残されたようだった。
店を出る時、出入り口の近くに坐り、
呆然と客を見送るマキさんを見た。
そして翌日、ニュースで知った。
マキさんと親交の深かった寺山修司氏が亡くなったという。
ああ、そうか──あの夜は、その前夜だったのだ。
板橋に住んでいた頃、
初めて浅川マキに出会ったのは、
池袋文芸坐のオールナイト公演だった。
映画館の椅子に沈みながら、
耳ではなく身体で浴びるように、
彼女の声に触れた。
泥のような夏の真夜中だった。
その頃住んでいた池袋の隣り板橋は挫折の街だった。
街並みは古く、
青森県の郷里よりも冴えない、地方の街に見えた。
ここではない、何処かへ。
いつもそう考えていた。
上京して入った大学が気に入らず、
アルバイトで金を貯め、
親には内緒で別の大学を再受験し、入り直した。
ここではない、何処かへ。
当時、こんなレトリックをよく聞いた。
時が動きたくて、うずうずしていた。
東京の暮らしの挫折を越えて、
そして私は浅川マキに、
池袋の文芸坐の真夜中の闇で出会った。
それから、
新宿に辿り着いて働いていた私が、
仕事の合間に
吉祥寺の地下の店に向かったあの夜──
マキの唄は、青森の詩人・寺山修司を見送っていた。
マキの声は、唄ではなく祈りだったのか。
吉祥寺曼荼羅で聴いた、その「土に還る声」は、
表現者を送り出すための、
最後の灯火だったのかもしれない。
青森の土のに匂いがする夜。
東京のはずれ、曼荼羅の地下で、
私はひとつの時代の終わりと、
自分の旅の続きを、
同時に見送っていた気がする。
そして今、60代半ばを迎え、
またふと、あの夜のマキの声に出会った。
音の奥で、寺山の気配が、彷徨っていた。
あの夜を越えてもなお、
マキの声は、
私の心のどこかで、風のように鳴っている。
マキの生まれは、確か北陸だった。