


先週、車の車検を終えまして。今回は、特に修理する箇所も無く、点検と車検の検査を通して頂いて、無事に完了です👍
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所有している車は、社会人の子供らと年齢大差ありません。28年、良く乗っていますよね。独身だった平成始めの頃まで、車検毎に買い替えてた自分では無いみたい😁
まぁ、住宅ローンと学費、手一杯だったのもあります。自主的な転職をして、中小企業で勤める私にとっては、高収入ではありませんし、当時は手一杯でも、手に入れた車にも愛着がたっぷりと。
子供が小さかった頃から、保養所を夏・冬と往復、スキー場や遊園地、ディズニーにも出掛けた車。子供が遊び疲れたら、途中休憩する場所にも。
選んだ車が便利であり、雪道も難なく走れる(もちろん、下り坂と凍結路は、非常に気を付けて)ので、振り返ってみると、乗り換える理由も無かったのでしょう。
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一昨年、一部部品の劣化があり、既に交換部品が在庫無い事。自動車会社の直系営業所では対応が出来なく、別の車専門のショップへ修理と言う形でお願いしました。
この為、少し特殊な修理をした事から、直系営業所での車検も受けて頂く事が出来なくなり、長年お世話になった営業所とはお別れしてきました。それまでは、リビルド品(廃車等から取り外して再整備した部品)などで、丁寧に対応して頂いたので、十分に感謝はしています。
直系の正規店には、看板を掲げてる責任がありますし、正規品で無いと難しい事も理解していますしね。私も、自信の仕事で、この例外的な対応を、と言われたら難しい事は確かですから。
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自信で点検して、都道府県の運輸局車検場へ持って行く事も出来なくは有りません。若い頃は、自身で実際に対応していましたしね。手続きも段取りも、平成始めの頃と変わって無ければ、何と無く出来てしまう、かも、とは思いますが。
ただ、あの頃は20代〜30代前半。根気と情熱が違います🤣。所有する価値観よりも、生活の一部ですから。
それに、子供がブツケて修理をお願いした工場にも、まだまだ頑張って頂きたいと思いますし。自分は自分の仕事に時間をかけ、専門仕事は専門技術職の方にお願いした方が良いだろう、との結論に至ったしだいです。
この先も、色々な機械を組み合わせて完成している車ですから、何らかの故障が無いとは言い切れません。その時に、もう交換する部品は無い可能性があるかも知れませんね。
車検代、修理費代、自動車に関する税金、と年々持っていても家計の負担が大きいのでは無いかと考え直しています。使わないで、置いておいても費用は発生してるのと同じですね。
今や、生活はバス・電車、あるいは自転車、時には家族の電動アシスト自転車を借用と、車主体の生活から変わって来ています。
免許証は継続するとして、車が修理できない事象に至ったら、いったん手放してレンタカーでも良いのかな?っとも考えます。ただ、前回のブログでも記載した通り、バスの減便と言う事もあるので、少し微妙ではありますけどね。
来年から、雇用延長で60代を働く事になりますが、基本給は大幅に下がって年収も下がる事は、先輩皆様からの話しを聞いてますしね。生活のどこにコストを掛け、どこを削って生計を立てて行くのか、一つの課題でもあります。
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とりあえず、車の免許証を取得した時の原点、自分で運行前点検はするもの、に返り、時々はエンジンフード(ボンネット)を開け、予備タンクや液漏れが無いかの点検は続け、大事に乗り続けてみようと思います。
久しぶりに、都内のオフィスを出る事が遅くなり。。。

電車は順調に動き、座って地元駅まで順調に帰って来たものの、、、
ウッカリしてました😂
バスの減便。21時台以降は、20分おきにあるかどうか。以前は0時ごろにあったバスも、23時過ぎで終了。
バスに描かれた運転士募集、良く見かけるようになりましたが、実際に4月からは、私の地域でも時刻表を見て、、、
早く出勤して仕事を終えて、適度なところで帰宅する。と言う仕事のパターンも考慮して行かないと、行きは良くても。。。
のパターンに陥ってしまいそうです。結局、次のバスまで23分。あきらめて、徒歩でテクテク歩いて帰り。
私の急ぎ足で、22分くらい。バス路線の道路では無くて、裏道で小さな山を越えるので、けっこう脚は疲れますが、良い運動と思えば。
まぁ、ちょうど杉花粉症の薬を飲むと、若干過食気味に陥るので、再来月の人間ドックまで減量しないと、また栄養指導になっちゃいますからね。。。
ただ、これが連日となってしまうと、身体に過負荷は良くないので、本当に仕事の時間を考えて勤務しないとマズイですね。
石油の問題もあるし、備蓄があるとしても、補給路が正常に戻らなければ、備蓄量が減るばかりですしね。
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3月くらいから、ナフサと言う言葉を目にするようになり。
よくよく考えてみると、日常生活には、石油化学製品で沢山お世話になっている訳ですね。食料品も、パッケージする事が出来なければ、出荷できない訳ですから。。。
農家さんも、ビニールハウスやら、苗を守るのかな?穴が適度に空いてる畑とか見かける時がありますよね。あれもこれも、石油から作られる化学製品。
国産品もあるでしょうけど、やはり輸入品が多いのですから、海外も同様に石油が無ければ製造出来なくなる訳で。けっこう心配になって来ました。大丈夫かなぁ、今年の日本での日常生活は。。。
前回のブログ。。。
ブログが高校生から社会人1年生まで、を書いていた。
その後は結婚もして家を借り、順調に定年まで、とは想定通りに行かないのが人生である。もちろん、順調に勤め上げる方もいらっしゃると思うのだが。。
会社が傾いてた。バブルが過ぎて業績が悪くなり、社内の雰囲気も徐々に悪化して行く一方であった。もう、このままでは将来の観測でも厳しい。。。と言うのが当時の本音。

同じ神奈川内であったが、1996年早々に出向・転勤の辞令も出てしまった。
そして、心を動かした合わせて付けられた内容、そう片道切符の辞令。もう、だから再び会社に戻る事は無いのだ。「君の勤めるべき、仕事はここにはもう無い」は、逆に私を奮起させた。この貰った言葉は、追って上司へ返す言葉にもなる。
これがキッカケで、何と無く気持ちが吹っ切れた。このまま雰囲気が悪くなった会社に留まるより、自らの行動で将来を選ぶ、が30代早々になるとは。。。

出向扱いでも給料は貰えて、やり甲斐は無いけど仕事は適度にある。ここは我慢をしながら、準備に入った。
まず、次世代の自分へ向けた学習。ちょうどインターネットの流行り始め。この手の職種を検討し、資格を取れるまでの学習を1年続けた。
資格を取るには、それ相応のコストが掛かる事と維持費も必要。だから、試験問題集まで可能な出来る所まで。。。
学生時代の友人を通して、仕事話しが無いか、探りを入れてもらった。
未経験でも、ちょうど人材確保をしている時期であったようだ。有休を取り、都内まで面接で訪問した。
面談の結果、現在の基本給は引き継ぎ、交通費は支給。転職により会社へ所属して、委託先あるいは派遣先で仕事を進める内容である。道筋は決めた。
さて、次は時期の調整。1996年末で退職する報告を上長に申し入れた。もちろん、簡単に承諾はしない、よねぇ。
労働法では申し入れで辞めさせない事は出来ないが、まだ会社の古い風土時代。
先輩やら、様々な方々が面談を申し入れしてくる。何とか引き留めたい、お前が決めたなら譲らないだろう、反応は様々であった。
同時期に、2つ上の先輩も辞める事を決意し、上長からはお前の影響だの云々かんぬん言われた事を覚えている。ただのタイミングが同じだったからでしょう〜って返答はしてたけど。その先輩も未来の見通し、だったんだよね。。。
結局、ギリギリまで引き延ばされたが、上長も諦めが付いたのだろう。総務での手続きが始まった。
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当日、最終日の前日に出向先オフィス内での関係者に挨拶で回った。そして翌日、自分の元居たオフィス・関係者への挨拶回りで出勤した。懐かしい建物、懐かしい関係者の皆様。
会話をしていて、新人から若手層になるまで、鍛えられ、育てられ、現在の自分が居る事にあらためて気付かされる。人間、1人では何も出来ないのだから。誰かに協力して、誰かから支えてもらっている、見えないところでもね。そして、身分証を返却して、会社を後にした。
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次の勤め先で、1年くらい経った頃だろうか。前職時代の上司から、プライベートメールに、問い合わせのメールが届いていた。一部の先輩しか教えて無い連絡先。たぶん、聞き出したのだろう。
内容は「元担当職のシステム内容について」であった。プライベートメールに?と若い頃の気持ちは苛立った。返答は「サポートは出来るので、今の会社と契約をお願いします」と。冷たい言葉かも知れないが、「仕事はここにはもう無い」と言われた事は忘れられる訳が無く。
後で先輩から聞いた話だが、かなりの憤慨だったらしい。育てて貰った恩義は感じるが、仕事内容に関しては、企業人であるがゆえ、馴れ馴れしく対応すべき事では無いし、そもそも退職した人材が前職の事を他でベラベラ喋る事でも無い。その働き場所の機密事項でもある。

もう、先輩達も定年して老後を送っているのだが、今でも半年に1回位は、横浜駅周辺で呑む事もある。時々、前職の情報は聞いていたが、引退して情報も入らなくなってきてた。
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さらにまた数年が経過した後、片道切符の会社は吸収併合され、ほぼ解散に近い形となっていた。インターネットで記事は見かけていたけど、当時のまだ現役世代だった先輩に合った時は、けっこう皆さんは大変な状況だったのだろうと感じた。
私の元居た職場(オフィス)も大半が人材を別の事業所へ移転し、既に勤めて居た場所からは建物が残っているだけのようだが。その製造業としての工場も、別の地域に統合され、閉鎖に近い状態。
未来の予測を誤った製造業、末路は厳しいものだ。再び立て直すにしても、高度成長期とかの時代では無く、バブル崩壊後の失われたxx年の日本である、とても厳しい事。

ただ、他人事では無い、私の請け負っている仕事も、人材減少が発生している。若手が希望せず、長続きしないのである。幸い、私の現在の所属先の300人程度の中小企業は、会社の売上・粗利計算で若手育成の手当て・研修参加費用負担・風土にも力を入れている。中抜けは起きてない状態ではあると思う。ただ、安心は出来ないだろう。
続きは、次回のブログへ。一つ目の転職先(1997年〜2002年)での事。


昨日の土曜日は、高齢父を連れて都内へ。2人で、妻知人の整体師の所へ訪問。
今回の私はズレが酷く、めちゃくちゃ痛がって施術、今日の日曜は疲れ切って布団休息🤣
3月11日の当日、ちょうどその時刻は、会議の真っ最中であった。職場の皆さんが所有されている携帯電話が、順次、緊急地震速報を鳴らし始めた。
しばらくして、少しずつ揺れ始め、やがて大きな揺れになる。みんな、揺れが酷くなるにあたり、机の下へ。これも時折行われている避難訓練が役立っているのだろう。
館内放送が入り、屋外避難命令が入る。座席に用意されたヘルメットを被り、階段を降りて屋外へ。後で聞いた所では、天井が落ちた部屋もあったようだ。ビルなので、天井の化粧パネルのような物だが、それでも釣ってある重量はそれなりにある。
しばらくして、ビルへ再入館。再び打ち合わせを再開。だが、それは週末の土曜・日曜で計画されていた作業の延期打ち合わせ。ネットで見る限り、広範囲に揺れを伴い、交通機関も停止している情報から、的確な判断だと思う。
やがて、調整も終わり、就業は打ち切りとなる。都内住まいで帰宅するもの、私のように横浜まで帰れないもの、それぞれ分かれる。
同僚らと、手分けして食料品の調達へ出掛けた。表に出たら、道路は大渋滞、沢山の帰宅する為に歩いてる人達。異様な風景であった。
いくつか店を回ったが、それほど確保は出来なかった。機転の利く同僚が、コージコーナーのシュークリームをあるったけ買って帰って来た。職場では、災害用のペットボトルが配布された。
一息して、自宅へ電話。同僚らは、携帯電話が皆繋がらないと騒いでだ。で、私は電話を掛ける事が可能だった。数少ないPHS電話所有であった。どこへも問題無く掛けれた。必要な方には、連絡用に使ってもらった。
自宅へ電話を掛けたのだが、音は鳴るものの、自宅も家族PHSも誰も出ない。後で分かったのだが、住まいの地域が停電してたそうだ。まぁ、自宅は頑丈な木造建築、妻もしっかりしているし、私の親も近い場所に住んでいるので、大丈夫と判断した。
オフィスに会議用のテレビが置いてあった。アンテナ代わりに、電気ケーブルを探して繋いでみたところ、さすが都内、何とか映った。そして、起きた事象と被害を知る事になる。
今日は帰れない。明日の朝に帰る為に、椅子を並べて仮眠を取る事にした。
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翌朝目覚め、オフィスを後にする。とりあえず東京メトロは動いているので、移動を始めた。東京駅からのJR東日本は、ほとんどまともに運転が出来て無い状態であった。速度を落としての運転。そして駅には大量の帰宅人。
通勤経路とは変える手段を考えた。私のPHS電話機は、ネットブラウザも多少なら見れる機能が付いていた。しばらく周辺をさまよっていた。。。
検索した情報から、次の通りの経路を考えて移動した。東京駅→(徒歩)→日本橋駅→(銀座線)→渋谷駅→(東急東横線)→横浜駅。
後は、横浜市営地下鉄ブルーラインを活用して徒歩で帰宅。横浜駅に着けば、後は歩いて何とかなると考えていたからだ。電車のダイヤは大幅乱れで、9時出発→14時頃に着いたと思う。
妻、当日小学生だった子どもたちの顔を見て安堵する。
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翌週から、仕事は電車が再開するまで、それと通常運行で無ければ乗れないので、朝に駅まで出てからの状況判断が続いた。
一つ、家での課題が出来た。計画停電である。妻は暗いのが苦手。この暗闇の時間をどう対処するか。
仕事柄、パソコン・サーバーの無停電装置がある。バッテリー付いて、コンセントも付いている。小型なタイプで15000円くらい。一つ注文した。
それと、量販店でE26型の電球を付ける台座と、普及が始まってたLED電球を購入した。消費電力が減れば、それだけバッテリーが長持ちするからだ。木材に台座と電源差し込みケーブルを取り付け、電球をセット。これで計画停電時の灯りは問題無くなった。家のコンセントから自動で充電し、コンセント電源が切れれば、バッテリーから無停電装置から電気供給開始され、電球が光る。
仕事柄の機転による工夫だった。
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今は、趣味も兼ねて。まぁ、例の感染症で呑み会が無くなった時に、お小遣いがかなり残った。
再び回避する為、ベランダに太陽光発電パネル2枚と、そこから充電するリン酸鉄ポータブル電源で、充電出来る状態を用意している。
日頃は、在宅ワークでのパソコン充電と、寝る前のスマートフォンの充電に役立てている。多少なりとも、家計費に役立てば。でも、バッテリーは永久では無いから役立ってるのか?は疑問だけど。でも、2021年に設置して、始めてポータブル電源の1台が充電不能になった。4年くらいは持つ訳だ。
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震災において被害にあわれた方に、ご冥福をお祈りする。
日本は自然災害が多い国。これは仕方の無い事。でも、日本が大好きである。だから、自身と家族で被災しない為に、時々日頃の会話は大事である。
現在、私は東京湾の近いオフィスで勤務している。だから、通勤の徒歩で歩く時は、高い場所に上がれる所を見ながら歩いて見たりしている。オフィスは、階上に避難をすれば良いのだから。