昨年秋から、書道の古法帖を変えた。というか師匠に自分に何が足りないか考えて、法帖を選んでこい。と言われたのだ。
一つは黄山谷 李太白憶旧詩巻
一つを王羲之 集字聖教序
どちらもかつてやったことのある法帖だ。
黄山谷は、作品の変化を学び直線的に引き過ぎる私の運筆に心の綾を入れる方法を学ぶ為に
王羲之は何故と聞かれたら、私の中では迷ったら立ち返る法帖というのもある。
最近は、筆画同士の繋がり、空書部分の運筆の軌跡と字形の関係、そうしたものを学びたい。気持ちと空書部分の動きの関係を知りたい。と思ったからだ。
私には王羲之は難し過ぎて、割と学ぶときには顔真卿の争坐位稿が多い。
今回、あえて難関王羲之を学び直す。顔真卿との筆法を比較しながら勉強している。
これは右側、王羲之聖教序
左側、顔真卿争坐位稿
筆画と筆画の繋がり方運腕の仕方で起筆も変わるし、字形も変わる、線質も変わる。見えない空書部分が文字を決定していると言ってもいいくらいだ。
私は生徒さんの手本をその場で書く、そこでもしかして?と気がついた。
私の生徒さんには全員バラバラの法帖を練習してもらっている。これはお互い比べっ子しない為。
そうなると私は王羲之書いて、顔真卿書いてってなる訳だ、瞬時に手本を書き分けねばならぬ、その訓練をしてきて、ハッと気がついたのだ。
一つだけ見ていたら気がつがなかったかもしれない、
生徒さんの前で、わかりやすく書き分けなければと考えなければ見えなかったかもしれない。
師匠が、自分の勉強になるから指導しなさい。指導してると思うなよ、指導させて頂くと思ってやりなさい。
そう言って指導する事を勧めた意味が今はとてもよくわかる。
つい運腕は、自分のやりやすい方になる、意識を向けない部分だからね。
自分の作品だけ書いていたら、同じ運腕しかしなかった、意識する事もなかった。
あえてそこに意識を向けて筆を動かすと、おのづから、字形が変わる。
王羲之の運腕に目を向けて、臨書する。しばらくこれを徹底的にやってみようと思う。何か変わるかもしれないな。
物事の本質は見えない部分にある。
これは人を見る知る時も同じ。
その人の価値は、外見や地位や肩書、学歴なんかじゃない。ホンの些細な仕草や表情、言葉の端っこに見えるんだよね。
見えない部分
たぶん他の人は気にもしない部分、私には気になるんだな。だからちょっと評価基準違ってくる。
皆んなはイイ人って言っても、あっ、違うな!って事沢山ある。
今は、この見えない部分大切にしたいな。って思う