大杉谷森林鉄道 | 6月なんよ

大杉谷森林鉄道



上記地図を見て頂きたい。

“宮川村”は、文字通り“宮川”上流(大杉谷含む)を中心とする村で、平成の大合併で大台町の一部となった。

“海山町”は、これも文字通り、リアス式の“海”と急峻な“山”に囲まれた町で、合併して紀北町海山区となった。

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さて、
その昔、奥伊勢にある大杉谷 の木材は“宮川村”の境界尾根を越え、尾鷲湾に面する“海山町”に運び出されていた。
その木材は大杉谷森林鉄道によって、今のJR船津駅まで運ばたわけだが、

大杉谷森林鉄道の路線は、尾鷲営林署が運営していた旧海山町の船津貯木場から大杉谷支流不動谷まで至った(上記地図参照のこと)。
これは、尾鷲地方一帯が明治時代初期から杉の民有林であったため、
早くから民間の森林鉄道が存在しており、更に延長しインクライン、軌道、索道をつないで広範囲にわたる搬路網を形成していた。それが旧海山町、旧宮川村の境界尾根を越え、宮川上流域に及んだ木材運搬用の鉄道である。

地下鉄 地下鉄 地下鉄



「大杉谷森林鉄道記録フィルム映写会&座談会」が熊野古道センターであるので行ってみた。
前々から、木材もそうだか、何故、宮川村じゃ無しに海山町側にルートが拓かれるのが興味があったが、謎が解明した。
その当時、革新的な林業技術を用いて尾鷲が紀伊半島の物流拠点化していったことが分かった。
それが索道と言うインフラだった。
索道というのは=現在でいうロープウェイのことなのだ。
勿論、木材を運搬する為のものだが、ゴンドラを付ければ人、物資も運搬出来る。
大杉谷森林鉄道の核心部は険谷である大杉谷を渡るところだが、135メートルもある千尋滝の頭上から対岸の日浦杉山(937.2)の中腹に長さ1200メートルの架空ワイヤーが張られた。これが大杉谷の索道、現在でいうロープウェイである。
この様な大規模な索道は大杉谷方面の他、中には上北山村の風折谷を越えて、白川又川から水晶谷まで至るものもあり、紀伊半島の内部まで食い込んでいるのが分かる。
紀伊半島の沢登りで、遡行していると、よく谷中にワイヤーの残骸があるが、その理由が今解決した。(確かに白川又川にもあった。)

大杉谷森林鉄道は索道を核心に、インクライン(現在でいうケーブルカー)、軌道(トロッコ列車)の技術を駆使したものだった。
同類のトロッコ跡としては京都の芦生原生林のトロッコ( http://ameblo.jp/sakanaya39/entry-11351611630.html )があるが、規模と言うか意志、情熱の強さでは大杉谷森林鉄道の方が上であったと思う。

公益社団法人大杉谷登山センターも協賛なので資料としてついてきたパンフレット

ご貴重な講演有難う御座いました。