音楽を聴きながら書こうとしたら、イヤホンどっかいった😂さっきまであったのに。

真剣に向き合って、言葉を紡げということですね\(^o^)/イエッサー

…と、宇宙人として茶化すのは程程にして。ヒトとして書きます。

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sakana🐟️は、修行僧でした。

気づいたら、『何かを得るには、苦しい想いをせねばならん』。そんな人生を歩んでました。

親の転勤で、北海道で産まれ、周りの人達に愛されて、4歳までムクムクと育ちました。(はしゃぎすぎて、砂利道に前のめりに転び、顔にデッカイ傷が残るほどでした)

やんちゃでお転婆で、好きに活きてました。

それが変化したのは、両親の地元に戻ってきてからです。両親の実家があって、母は義理母から、嫁としての圧をずーっとかけられておりました。

そして、父は父で仕事が忙しく、我が家は、母が父と母の役割をしてくれていたのです。(何なら北海道の頃から)

彼女は彼女自身が、親に放任主義で育てられ、自分に厳しい人でした。褒められることを知らず、何なら、母の母(祖母)はストレートに、母に無自覚にダメ出ししてました。そういう性格なのです。

だから、私達を育てる時、とても大変だったはずです。(聞いてるだけのこちらでさえ、大変に感じられるのです。私の想像以上に、母は辛かったと、分かりやすい味方がおらず、苦しかったと思います)

そんな母は、私達が自由奔放に生きると、どうしてもやんわり言えませんし、見守れません。

『それはダメ!』『なんで出来ないの!』『ここに置いてくよ!(なんなら本当に置いてく)』『お母さんを困らせないで!』『自分達でやってよ!』『好き勝手しないで!』

…今想いつくだけでも、こんな感じだったかなぁ。げんこつ食らったり、『お尻!』といわれて、背中向けさせられて叩かれたり。物を投げられたり。多分忘れてることもある。思い出したくなくて。うーん、涙出るわぁ。

それでも、小学生になるまでは、涙をこらえてたんです。怒られながらも、キッと涙をためながら母の顔を見返してました。

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ちょっと戻りますが、幼稚園の時点で、ワタシは、ちょっと人と距離感がありました。

皆と一緒にいても、何をしたら良いか分からないのです。どう話しかけたら良いか、仲良くってどうやって?男子とは新聞紙丸めた剣で戦ったりはしゃぎましたが、女子とは話せず。

気づけば、1人で下駄箱の所で、三角座りをしながら、外の雨をみてました。「早くこの時間が過ぎないかなぁ…」と。

そして、何か違和感を感じながらも、幼稚園を卒園。

小学生になります。ここからは、幼稚園よりも人の数が多くなり、先生方の負担も増えました。生徒一人一人と向き合う時間が少ないのです。

小学1年までは、あっけらかんと元気だった気がします。好きに生きて。

それが変わったのは、小学2年くらいからです。先生も育てる方針があります。いつまでも子供を奔放にはさせません。

『大人のいうことをきく、都合の良い子』

あえてトゲを出して伝えると、こんな感じでしょうか。子供に求められるのは、社会になじめる、優等生でした。

長くなるな…次にいきます。