周りのみんなは忙しそう。
私が適応障害とされてから、もう半年以上になる。
復職してからは残業なしのシフトにしてもらっており、難易度の高い業務からも外してもらっている状態だ。
私が前線を張っていた頃は、皆よりも忙しくもありながら、皆のサポートにもまわって、チームで一緒に同じ目的に向けて試行錯誤していた。
しかし現在では、私の病気は皆の知る所となり、復職してからも、緩やかに仕事をしている。
前述の通り、残業のないシフト。
周囲は私を気遣って、仕事を頼んだりはしてこない。
私が自ら、ではこちらに関しては私が担当します。と申し出ると、大丈夫ですか?無理しないで下さい、などと気を使われる。
そんな有様だ。
なんか、元気が無かった時はそれもありがたかったし、楽で良かったけど、少し元気になってくると、これはこれで焦りを覚える。
先頭に立って歩いてきた私の、その後ろをついてきた皆さん。
私が歩みを止めても、世の中は進み続ける。
皆さんは前に進み行くのだ。
そして、歩き続ける人間は強い。
歩みを止めた者は、そこに留まるばかりか、世界が前に進んでいくのであれば、相対的には後ろへと追いやられていくのだ。
自分よりも一回り、二回り若い方々が、様々な困難に相対しながらも前へと進んでゆく。
かつて私も似たような道を通った事があるからこそ、その歩みが、たどたどしくも思えてしまう。
しかし私は、
『彼ら、彼女らと、同じ道を歩いてはいない。』
かつて私は、私の道を歩いて、学び、今に至った。
彼らは今、彼らの道を歩いている。
すなわち、
『私も過去に同じ経験をした』
というのは、正確に言えば当てはまらない。
歳を取ると、これを履き違える。
自分の経験値を盾に取り、若い方々を未熟と評して、自分の下に置くのだ。
確かに、培った経験からくるノウハウは馬鹿には出来ない。
様々な応用に繋がるし、次のステージの礎となるものだ。
しかしその自惚れは、発見から遠ざかる。
世界にバイアスをかけてしまう。
歩みを止めた者は、自分というフィルターを介してしか、世の中を見つめる事が出来なくなるのだ。
並びたって歩く彼らは、同じ道を、試行錯誤し、ゴールを探して歩いて行く。
その中で発見したものは、彼らだけの経験だ。
その意思を尊重するべきであって、私は彼等の仕事に対して、何ら不満を抱く事はしない。
追いつく、というのは大変な事だ。
確かに私は、39年、という人生を歩んだ。
彼らはせいぜい、24〜29年、という人生を歩んだだけだろう。
一時は、彼らと同じ道を歩いた事もあった。
迷う彼等を支えてきた、という自負がある。
そして私は、私の経験に基づいて、皆とゴールを定めた。
私は、歩みを止めた。
振り返れば、まだ、後ろに皆はいる。
しかし、このまま歩みを止めたままで、彼らはいつ私に追いつくだろうか?
…と考えるのは、大きな誤りである。
彼らは、彼らなりの道を歩き出すのだ。
進む進路が変わるのだ。
私と歩いていた時は、私たちは12時の方向に歩いていた。
その先頭に私がいる。
しかし、人が立ち止まり、その道が途絶えると、人は迷いながらも、新たなゴールを目指す。
そのゴールの延長上に、必ずしも私が求めたゴールがあるとは限らない。
彼らのゴールは、12時の方角ではなく、1時の方角にあるのかもしれない。
あるいは、10時の方角かもしれない。
この半年間。
彼らは、歩いたのだ。
私はこの先、彼らに追いつかねばならない。
10年歩んだ先に歩みを止めた者よりも、1年歩み、そして今も歩み続けている人間の方が、遥かに強い。
私はそう思っている。
歩いた距離は私の方が圧倒的に長い。
しかし私は、また私が歩き始める時は、彼らが進んでいく道へと向かっていきたい。
そして、彼らに追いつく。
私のノウハウを用いて、最終的には彼らを追い越してみせる。
なにせ、私は本来、仕事が出来る男なのだ。
先頭に立つ人間が正しいのではない。
チームが選んだ道が正しいのだ。
かつては私がまとめあげたチームも、もはや既に新たなゴールへと向かっている。
他人の行いを尊重した先に、人々が求めるものがある。
私はそれを支え、見届けたいのだ。
そして同時に、私は人に頼りにされたいし、仕事が出来る人だと認められたい。
それが私の承認欲求、エゴだ。
なお、ブログのタイトルは、知ってる人なら知っている、有名なキャラクターのセリフ。
良いセリフがあったものですね。