長女を抱きしめたい。
きっと今ならば、たったそれだけで、嫌な事の全てを忘れられる気がする。
私が、お風呂と、寝かしつけの担当なのだ。
一緒にお風呂に入って、歯磨きをしてあげて、パジャマを着せてあげる。
一緒にお布団に入って、絵本を読んであげて、娘が先に寝るか、あるいは私が先に寝るか、どちらかなんだ。
育児は、大変だった。
自分の自由を失い、背負うものばかりで、責任が多く積み重なる。
娘とだけ向き合っていたかった。
どうして私には、クリアしなければならない課題がこんなに多いんだろう。
みんなが5教科のテストを受けている中で、私だけ9教科のテストを受けさせられているような気分だ。
不公平だ。
妻は、私に良く言った。
『あなたみたいな運の悪い人は見た事がない。』
『あなたって本当、不幸の星の元に産まれて来たって感じだよね。』
『あなたを自由にしてあげたい。』
私達に子供がいなかった頃は、いつも妻と一緒に過ごした。
東京のすごく美味しいイタリアンに行った。
一緒にディズニーシーにも行った。
3回くらいは行ったかも。
新婚旅行はバリ島に行った。
バリ島のサマヤというホテルで食べた朝食が、私の人生で最も美味しいと感じた料理だった。
タイにも旅行に行った。
タイは物価が安くて、料理が美味しくて、ナシゴレンとか、ミーゴレンみたいな定番料理は勿論、朝食にはソトアヤムとかいうお粥みたいなものを食べた。
サメット島に行った時は、プラチョーンペッサとかいう、字面だけではなんなのか全く訳の分からない、鉄板に乗った、ハーブが沢山使われた、揚げ物なんだか煮物なんだか良く理解できない、謎の大きな魚料理があって、それが、ものすごく美味しかった。
思い出が蘇る。
妻は、妊娠を3回経験している。
しかし、私たちの娘は、2人だけだ。
この先の話は、今現在、妊婦であるならば、あまり見ない方が良いかもしれない。
少し昔の事を話そうと思う。
最初の一人は、確か14週の頃だったかな?
お腹の中で膨張を起こし、健康に産まれてくる事は叶わないと医者に告げられた。
出産時期に至るまで生きている可能性は、極めて低い。
また、仮に産まれて来ても、ほぼ障害を持って産まれてくる可能性が高い。
また、この状態で、生きて大きくなっていく中で、母胎にどのような危険が及ぶか分からない。
そんな事を言うのだ。
たった2週間前まで、順調で、エコー写真を見て、私達は、この子と出会えるのを、楽しみにしていたのに。
まだ、生きているのに。
医者は、決定権をこちらに委ねる。
責任の追求を避ける為なのだろうか。
または、近い将来、ほぼ死が確定しているとはいえ、現在は生きている人間を、医者の判断によって殺す事を促すという事が、医療の現場では認められていないのか。
そのあたりの事情は分かりかねるが、いずれにせよ我々は、決断を迫られた。
そして我々は、母体の安全の為に、その子供を未熟児として産み落とし、死なせる決断をした。
妻はあの時、
『もっとこの子と一緒にいたい』
と言ってた。
医者から、
産まれて来た子供を、見たいか?
と問われた。
私は、見たいと言った。
しかし妻は、その子を見る事はしたくないと言った。
あまりにも辛すぎたのだろう。
私は、これではここまで育ったこの子が、あまりに不憫だと思った。
父からも、母からも、その姿を見てもらえずに、この世から消えていくなんて、あまりにも不憫だと思った。
せめて、私だけでも。
その子を見てあげたい。
だから私は、見せてもらう事にした。
その姿は、およそ一般的な人が抱くような、赤ちゃんの形ではなかった。
ブヨブヨと全身がむくんだ、風船のような姿で、20センチにも満たない姿であった。
付き添いの看護婦?助産師さん?彼女らが何者なのか良く分からないが、複数の女性達がその場にはおり、
そんな、信じられない、とでも言いたげな顔をして、その子の姿を覗き込んでいた事を、良く覚えている。
わかる。
衝撃的な姿だったもんな。
あなたたち専門家でさえ、そんな顔をするのだ。
余程運悪く、このような姿になってしまったのだろう。
しかし私は、あの時、なんか小さな木箱に収められていたはずの、ブヨブヨに膨れていたはずの我が子の姿が、どうしても鮮明には思い出せないのだ。
子供を見た後、処置室から退出する私は、どんな顔をしていたのだろうか。
私の顔をみた看護婦さんか、誰かしらが、
『大丈夫ですか?』
と声をかけてくれた。
私は、
『ええ、大丈夫です。』
と答えた。
いや、
『はい。』
だったかな。
ちゃんと覚えてない。
いずれにせよ、私は、その時に抱いた感情を、はっきりと思い出せない。
子供の姿もよく覚えてない。
周囲の反応とか、私に向けられた声とか、視線とか、そういうのばかりが、妙に記憶に残っている。
あの時、もっと良く見てあげたら良かった。
あの木箱を、持たせてもらったら良かった。
まだ生きているそのうちに、あの子を抱っこしてあげたら良かった。
私は、時々思い出して、あの時の事を後悔している。
死なせた事は後悔していない。
悲しくはあるが。
あの姿を、ちゃんと覚えてあげられず、おぼろげにしか思い出せない事を、悔やんでいる。
あの後、妻は精神的な失調を起こし、1年近く仕事を休む事となった。
私達は、何度も何度も、離婚ぎりぎりの喧嘩をした。
妻はずっと不安定であった。
愛した妻が、私に酷い事を言う。
私を拒絶する。
泣いて、怒り、苦しんで、私に全てをぶつけてくる。
その全てを受け止めてやりたかった。
でも、私が側に寄る事も許さない。
抱きしめる事も叶わない。
私も苦しかった。
耐えかねて、酷い言葉を浴びせた事も、何度もあった。
私はなんと小さな人間なのだろう。
一人の人間をみごもって、その子が命あるままに、死なせる為に産み落とした私の妻の、その苦しみたるや、私は生涯理解し得ぬのであろうと思う。
あれから、2年なのか、3年なのか、よく分からないが、私達は辛うじて一緒にいた。
そして、長女を授かった。
レインボーベイビーという言葉がある。
この言葉を考えた人間を、私は心底嫌悪する。
健康に産まれて来たこの子は、あの子の変わりだとでも思うのか?
あの子はあの子であり、この子はこの子なのだ。
本当に気持ち悪い言葉だ。
私達にとって、授かったこの子達は、かけがえのない存在だ。
どんな親にとっても、自分の子供とはかけがえのないものなのだろうが。
変わりになんかなれない。
どんな命も、常に一つで、それを与えられた人間だけのものなんだ。
話を、現在に戻す。
私達は、一緒に、何度も困難を乗り越えてきた。
何度も苦しい思いをして、何度も別れを考えた。
でも、ずっと一緒にいた。
『あなたに幸せになって欲しいし、私も幸せになりたいけど、今の壊れていくあなたと一緒にいると、私も壊れてしまう。
私等には、もう子供達がいるから、あなたの事まで私は支えられないんだよ。』
私よりも遥かに不幸な人間など、この世界に山ほどいるだろうという事、私は知識として知っている。
妻は言う。
『人の事ばかり考えないで、自分の事を大切にして。
私達の事は今はいいから、自分の事だけ考えて。
あなたが自分の事をしっかり出来れば、私も自分の事をしっかりやるから。
お互いがしっかりして、自立してないと、子供を守れない。
自分の機嫌は自分で取るんだよ。
他の何かに依存しないで。』
『あなたがいつもそうやって、人の事ばっかり気にして、何でも我慢したりしてしまうの、そういう性分だって分かってるけど、でもその積み重ねであなたが心を病んだって思うと、今優しくしてもらっても、何にも嬉しくない。
自分の事だけ考えて。』
あれほど一緒に支え合った妻が、子供を優先して、私の事を突き放す。
私を、心では思ってくれている事は、感じられる。
余裕さえあれば、私を守りたいと思ってくれている事も、すごく理解出来る。
でも、今はもう、二人の子供が優先なんだ。
私の事は、二の次なんだ。
分かる。
そうするべきだ。
そうでなくては、子供達を守れない。
とても孤独だ。
娘に会いたい。