アンガーマネジメントという概念がある。



すごく簡単に言えば、自分の怒りをコントロールして、適切に対処する為のテクニックみたいなものだ。


私は怒りの感情が激しく、人から嫌な事をされると絶対に忘れない。


人から攻撃をされると、これに対して徹底抗戦を開始する。

核抑止的な考え方を持って、反撃をする。


すなわち、

『我が国を攻撃対象とするならば、核による報復が待っているぞ。』

という事を、相手の心に刻み込むのだ。


こいつは、屈服させるには、高くつく。

相手にそのように思わせる事で、私に対する攻撃を諦めさせるのだ。



私が若い頃は、臆病で、温厚だった。

だから、基本的には反撃出来ないマインドの持ち主で、何か攻撃をされても受け流したり、聞こえないふりをして過ごしたものだ。


ようは、他人に舐められてきた訳だ。



しかし時が経ち、様々な要因から、自分の能力が高まり、他人に勝る要素を身につけていく中で、少しずつ変わってきた。


やがて、理解する。

『私が弱腰だから、私に攻撃をしてくるんだな。』

という事を。



私は、他人に舐められないような振る舞いをするようになった。


別に自分からは何もしないのだけど、相手からの悪意を感じた時は、悪意を持って反論をする。


勿論、悪意を持って反論をすると、更なる悪意が返ってくる。


この応酬において、引かない事、屈さない事、そして、相手が引いても徹底的に追い詰める事を、一度実践した。


それは、特定の一人の相手に対してであったけど、周囲の人は、それを見て思うのだろう。

この人は侮らない方が良い、と。



私は、そのようにして、身を守ってきた。

このような振る舞いをするようになってから、私を軽んじる人間は、随分と少なくなったように思う。


私はこれを可能とする為に、

『不正をしない、隙を作らない、道徳的に正しい判断をする』

という事を心がけた。


常にこうしておけば、何かトラブルが起きた時、

『◯◯さんは間違った事はしていない。』

と周囲が解釈する。

周囲をも味方に出来る。

私と戦った相手は、一方的に悪者に仕立て上げられる。


このように、私は

『戦略としての真っ当な生き方』

を選択してきた。




私は、だんだん歳をとってきた。

妻を持ち、子供が産まれた。

自分のメンタルを病むような出来事も経験した。


その中で、最近は少しずつ思うようになった。

『他人を攻撃すると、私も疲れる。』



以前は、若かった。

無知だった。

敵は、敵だった。

失うものもない。


『お前を抱き込んで一緒に落ちてやる。

お前は周囲の信頼も失いたくないし、評価も失いたくないだろうけど、俺は違う、お前を潰す為なら、自分さえも犠牲に出来るんだぞ。』


かつての私は、そういう、無敵の人だったのだ。




しかし最近、思う。


『人が、他人に対して攻撃的なのは、臆病だからなんだな。

本当は弱いから、自分の弱い所を隠す為に、常に相手に対して強く出て、必死に自分を高い所に置いておく事で、なんとかして安心を得たいんだろう。』


そのように、考えるようになった。



なぜなら、私がそうだったからだ。


家族が出来て、自分が守らなければならない存在を持つに至った時に、思った。


私の、こんな攻撃性を持った対人関係では、敵を作るだけではないか?


私一人ならば、全ての反撃が私に来るが、私ならば、その反撃にさえも打ち勝つ自信がある。


しかし、妻はどうか?

子はどうか?


私の、この攻撃性は、巡り巡って、私の家族に返ってくるのではないか?




…あの人は、いつも自分に有利な状況を作って、相手を攻撃する。

そんな父親を持つあの子は、攻撃的な子供になるに違いない。


きっと周囲は、そのように人を見る。



人が人を見る視点には2種類ある。

『相手を個人として見る時』

『相手を集団として見る時』

この2種類。


前者であれば、人は対話で分かり合える。

しかし後者は違う。

世の中の全ての人間と、対話なんぞしていられない。

そんな時間も、余裕もない。


私の振る舞いは、私という個人としてではなく、私達という集団に対する評価に結びつく。



これに気づいた時、私は思った。


もう、他人を攻撃して、自分を守る事はやめようと。



ところがだ。


そうなると、相手が私に攻撃してきた時、私は我慢をするしかなくなる。


受け流せない。


賢い人なら、また下らない事を言ってるな、などと受け流したり、まぁまぁ、そんな事言わずにこうしてみても良いんじゃないですか?などと懐柔して、相手を味方にする事も出来るだろう。



本当に強い人というのは、そもそも敵を作らない人だ。


戦わずして負けるくらいなら、戦うべきだと思う。

戦って負けるのは悪手だ。

戦うなら勝つべきだ。

しかし最も重要な事は、戦わずして勝つ事だ。


敵を作らない。

敵になりうる人さえも、味方に引き込む。

これが最善なのだ。



しかし、私にはこれが出来ない。


敵が私に向かってくると、反撃をしたくなる。

反撃をする事をやめてしまいたい私は、それを頑張って飲みこむ。


上手く相手を味方に引き込めない。



その怒りが、時間が経っても消えないのだ。

ずーっと残っている。



妻は、私に言う。

『怒る前に、6秒我慢するんだよ。』

しかしだ。


6秒経とうが、6分経とうが、6時間経とうが、私は、相手を屈服させないと、気が済まない。

ずーっと考えてしまう。

受けた屈辱を晴らす為の手段ばかりが、頭の中を駆け巡る。


そして、その感情がボーダーラインを超えた時、やはり他人を攻撃してしまうのだ。




人間は、簡単には変わらない。

身に付いてしまった習慣は注ぎ難い。


でも、私はもう一人ではなくて、家族がいるから、もっと賢く、味方を作っていけるような振る舞いを身につけるべきなのだと思う。



そういう訳で、アンガーマネジメントやらを少し学び、実践しているのだけど、これがまた、

『とんでもないストレスを感じる。』


だって、言いたい事を言えないし、まず相手を許容する寛容さが求められるし、相手のことを理解する思考が求められるし、異なる価値観を受け入れる理解力が必要となる。


良い人間、適切な人間関係を築く為の合理的手段は、とっても疲れるのだ。



アンガーマネジメントは疲れる。

アンガーマネジメントに対してブチ切れそうだ。

誰だ、こんな概念を考えた奴は。


確かにこれを習得し、実践に成功すれば、良好な人間関係、信頼感が産まれ、生きていく事が容易になるだろう。

理屈は理解できるし、正しい。


しかしだ。

この概念が全人類に適用されると考える事自体、まず愚かなのでは?



他人を理解する必要があるならば、他人も私を理解するべきだ。


なんで私を理解せず、攻撃をしてくる相手を気遣って、私は攻撃に耐えて相手を理解せねばならんのか?


そんな事が可能な人間が、一体この世の中に何人いると思ってんだ。

ふざけやがって。



まずは私を理解しろ。

100歩譲って、私がお前に対して理解を試みた時点で、お前も私を理解しようと試みろ。



アンガーマネジメントは、取り扱う人間に一定の才能が要求される。


また、そのスキルを習得した者同士でのみ成立する部分が少なからず存在する。



まず、耐えて、譲る。

相手を慮る。


何でそれが先なの?

おかしくない?

攻撃されたら、反撃したくなるのが人間なのでは?


私はそんなに美しい心など持ってないぞ。

自分が持ってないものを、どこから持ってこいというのだ。



何がアンガーマネジメントだクソが。

アンガーマネジメントという概念そのものが私に対する侮辱だ。

私に対する人間性の否定だ。

私に対する攻撃だ。



私は私の家族の為に、私を否定してまで、この感情コントロールテクニックを身に付けなければならないのか?


なんか嫌な世の中だ。

コンプライアンスに縛られた、ディストピア的なものを現代社会の中に感じる。



私に社会の規範を順守する事を求めるなら、社会だってもっと私を大切に扱うべきだ。

不公平だろうが。


そういう怒りが収まらず、もはやアンガーマネジメントとはなんなのか、という事が、分からなくなりつつある今日この頃です。