20年後。


私の子供が社会に出る時、世の中はどのように変わっているのだろうか。


不景気は続いているかな?

相変わらず、課題の多い世の中なのだろうな、と思う。


ただ、どのように患い、考えても、社会は変わらない。

これはネガティブな意見ではなく、客観的な事実だ。



私は、社会の営み、人間の営みも、全て包括した上で、自然の摂理、という感覚で認識している。


例えば、政治家叩きだったり、環境活動家だったり、動物愛護団体だったり、世の中には様々な価値観を持つ集団がいる。



そして各々が、自分の主観、価値観に基づいて行動を起こす。


これらの行いは、社会という名の、大きく複雑な流れと、様々な要素との結びつきから発生していて、根絶する事は出来ない。


なので、そのようなものが存在する事実、というものを、受け止めるしかないと、私は考えている。



ならば、不正が起こる事も、戦争が起こる事も、自然の摂理であって、受け止めるしかない事なのか?


と問われると、それは少し違う。



不正が起こる時、社会はこれに反発する。

暴政を敷く権力者の元には、暴動が起こる。


これは一人一人が、自分の価値観に基づいて、受け入れ難いものに対して反撃を試みる事から始まり、そのような人間が一定数集まり、集合体として行動を起こす。

これが不正へのカウンターとなる。


このような事を繰り返しながら、現代に至るまで、人類は学習をしてきたはずだ。



その働きもまた、摂理の中にある人間の営みだと思う。



一人の人間単位ですら、それぞれの体内には無数の細胞を有しており、その細胞は、それぞれに適した役割を担っている。


細胞の集合体が、人間だ。

時に、細菌やウイルスの攻撃を受ける事もある。

時に、細胞の一部が反乱を起こす事もある。

時に、外的要因によって、細胞の一部、ないしは大部分が損なわれる事もある。


それでもなお、細胞は各々の役割に従って活動を行い、人間という定義を維持して、生物としての活動を続けている。



では人間の集合体は、何か?

私は、それが社会だと思う。

人間という細胞で形成され、形取ったものが、社会というものなのだという考え方をしている。



社会の中の細胞の一部が、社会に対して何かを訴えようと、それはほとんどの場合、大きな影響とはならない。



だから私は、目の前で起こっている事だけを大切にする。


単一の存在として社会を攻撃する気にはならない。

集団を形成する程の行動力もない。

世の中に起こる様々な出来事に対して、私はいつも傍観者だ。



ただ、隣にいる人を大切にする、


妻を大切にする。

子供を大切にする。


そうすればきっと、私の側にいる妻は、別の誰かを大切にしてくれる。

子供を大切にすれば、子供は、友達や恋人、いつか家族を待てばその家族、そういう存在を大切にするようになる。



私は、何も大きな事を成さないし、何の理念も持たないし、どんな活動にも与しない。

世の中の理不尽を眺めるだけだし、社会の不正を受け止めていくだけ。


ただひたすら、自分達が火の粉を被らぬよう、安全な屋根の下で生きる。



そして、身近な人を大切にする。


いつか子供達は社会に出ていく。

身の回りの人さえ大切にしていけばいい。

やがて、その子供達は、また次の世代を授かる。


ラベンダーも、それ単体では、雑草とそう変わらない。

しかし、同じ色を持ち、群生を成せば、それはラベンダー畑になる。


それはいつしか、迂闊に踏み荒らす事が出来ないものとなる。



それだけでいい。


真っ当に生きる事。

そして、目の前にいる人たちだけを大切にしていく事。


私が考える、最小単位の社会貢献だ。




まぁ、自身の正義を振りかざし、武器とするやり方もあるだろう。

世の中には、そのような活動に勤しむ人も一定数存在する。

それはそれで、自由になさって下さって結構、と思う。


私にはそういうのは向いてない。

ただそれだけの事だ。




何も否定しないし、故に、何も受け入れない。

自分が思った事だけをする。

私の考え方は他人に侵害されない。


摂理の中で、自分に出来る事だけをする。



未来に向かう者達に、何を残すのか?


そう考えた時、私は、真っ当な精神を持ち、隣人を愛する事を、自分の子供には伝えたいと思う。


それが正しいかどうかは知らないけど。