色々な事を考えているようでいて、その実、同じ事しか考えてない。


自分の事。

家族の事。

身の回りの人の事。

あと、登山の事とか、キャンプの事。

大体はそんな事ばかりだ。


若い頃は、もっと色々な事を考えていたような気もするけど、よくよく思い返してみると、そうでもない気がする。


そもそも、色々な事を考えるという事は、どういう事なんだろう?


ちょっと、考える、という行いについて、掘り下げてみる。




若い頃だって結局は、友達がどうだの、勉強がどうだの、ゲームがどうだの、バイクがどうだの、そんな程度の事しか考えてなかった。


あの頃は、結婚の事とか、子供の将来の事なんて、これっぽっちも考えてなかった。



知識や経験が増えていく事を、良く、

『引き出しが増える』

という言い方をする。


確かにそうかもしれない。


引き出しが増えれば様々な事に対応が出来るし、色々な情報を結びつけて、新しいものを発見出来るようになる。



パソコンで言えば、HDD、メモリ、CPU、みたいなものかもしれない。


与えられた情報は、CPUで処理する。

平行して処理できる情報量は、メモリだ。

様々な事を処理し、知識、経験として蓄えるのがHDD。


そしておそらく、人はそれなりに多くの情報を蓄えた時、アプリケーションをプログラミングするようになる。



お料理として例えるならば、小麦粉、キャベツ、卵、豚肉、包丁、鉄板、植物油。

そのような、それぞれ単一のデータを個別に管理していても、意味はない。


これを出力する為に『キッチン』というアプリケーションが必要だ。

このアプリを起動すると、料理が可能となる。



キッチンを発明した人は、色々な情報を蓄積し、これを開発したのだろう。



あるいは、既に『キッチン』というアプリを親からインストールされていたとする。


しかし、子供の頃のHDDは、空っぽだ。

CPUもあまり性能が高くない。

だから活かせない。

起動出来ない。



やがて、子供も大人になる。


知識を得る。

野菜の事や、肉の事、調理器具の使い方を覚える。

そしてキッチンというアプリを使う。

すると、料理が出来るようになるのだ。


キッチンのアプリを用いて、上記の個別の情報を適切に処理すれば、お好み焼きが完成するはずだ。



人は、物事をそのようには認識していないだけで、恐らくこの世界には、そのような『アプリケーション』が、山のように存在するんだろう。



目に見えない世界。

様々な発明。

人類の叡智とはそういうものなんだろうか?



そのような意味で言えば、私は、昔から同じような事ばっかり考えているけど、蓄積されている情報は、当時と比較するとケタ違いのはずだ。


あの頃と現在とでは、HDDの使用量が全く事なる。

有用なアプリだって、たくさんインストールした。

自分で設計したものだってある。


複数の情報を同時に処理し、蓄積してきた。

メモリとCPUの性能が高まるにつれて、その業務量はますます増大していく。


で、使いすぎてクラッシュして、病気になった。

そういう事なんだろ。


冷却ファンの事も考えてあげるべきだったのだ。




それこそ、若い頃は、今みたいな思考は出来なかっただろうな。


何も知らない無知のバカだったから、課題に対してクリティカルな打ち手を実施出来ず、大いに時間を浪費した。



山火事に対して、必死にバケツで水をかける事しか出来ない消防士がいるか?


人間の若い頃っていうのは、そういうバケツで水をかける事しか思いつかない、そんな程度のものだったのだ。



こうやって考えると、まぁ、同じような事ばっかり繰り返してきた私だけど、随分と成長したかな。

そう思い直す事が出来そうだ。



いつまで終わらない思春期みたいな事を考えてるんだろ?

そうやって、自嘲気味に思える事もあるけど、よくよく考えてみると、案外そうでもないかもしれない。


私はちゃんと、大人になっているのかも。



私はちょっと、頭を使いすぎた。

だから今、こうなった訳だけど、元気になったら、またこの経験をHDDに保存していけばいい。

新しいアプリケーションを開発すれば良い。


これを繰り返していけばいいはずだ。

きっと前に進んでる。



ただし問題があるとすれば、ゴールの設定がちゃんと出来ていない、という点だろうな…。


まぁ、今は休んでおこう。

変に思考の幅を広げすぎると、またクラッシュする。



HDDの容量を増やしても、メモリやCPUの性能を高めても、やはり物理的な問題として、熱、すなわち、ストレスというものを適切に管理しなければならない。


どんなに優秀なスペックのPCも、熱処理を怠れば破損に至る。


デリケートなのだ。


取り扱う情報量が増えても、処理できる能力が高まっても、常にそれは、現状の自分をアップデートし続けてきたが故に可能になっただけ。


人間っていうのは、元来、デリケートなもんなんだろう。

若者が特にデリケートであるように論じられるのは、処理方法が分からないからなんだ。




考えてみれば至極当然の事だ。


しかしこうやって、何かの形に定義しなければ、人間ってのは、それに気付けないもんだ。



仕事の休憩時間がそろそろ終わる。


働くか。