午後からジム。

骨折者のために考えてくれたメニューも、それはそれでキツい。Tシャツは汗でびっしょり。

 

 

ところで。

今日は小林の命日だ。

 

小林が旅立って丸6年。

今日は追悼の意味で、かつて「まいにち・みちこ」で連載していたエッセイを転載する。リンクを貼ろうと思ったがページが見当たらなくなっていたので本文を再度推敲の上、ここに。

年数については掲載当時(2018年)のもの。

長文ですが僕の人生に最も大きな影響を与えた男との話です。供養だと思って最後まで読んでもらえたら嬉しいです。

 

 

エッセイ「僕の人生を変えた男について」

 

1992年6月1日、JIGGER’S SON(ジガーズサン)のボーカル&ギターとしてコロムビアレコードからデビュー。

バンドが解散したりソロになったりあれこれやってるうちに気がつけば丸26年。

26年か。決してあっと言う間ではなかったな。

 

今回はその26年間に出会った多くの人の中で、僕の人生に最も大きな影響を与えた男の話を書こうと思う。

 

 

その男、小林英樹と初めて出会ったのは仙台でのアマチュア時代。ステージの上だった。

地元のアマチュアバンド10組ほどが出ていたイベントで、最後に全てのバンドのボーカリストが一斉にステージに上がって確かU2の楽曲を歌った。僕の前のマイクは僕も含め3人のボーカリストで使うことになっていて、その3人のうちの1人が小林だった。

 

時系列の記憶があやふやだが、その数年後、僕らのバンドはコロムビアレコードからデビューすることになり、そして小林はコロムビアレコード仙台営業所のプロモーター(営業担当)になっていた。「レコード会社のスタッフと所属アーティスト」としての再会である。

 

 

小林はその人なつこさと行動力、そして何よりも音楽とそれを作り出すミュージシャンへの愛情の深さにより、プロモーターとして他の追随を許さないオンリーワン&ナンバーワン営業マンとして業界にその名を轟かせていった。

「担当してる全アーティストを同じ気持ちでプロモーションするのは無理」と断言し、「仕事」と「仕事抜きで」をはっきりと使い分けた。

 

一度同じコロムビアの所属アーティストが同席する飲み会で「小林と回るキャンペーンってえげつないよね。東北だけで100本以上取材を入れるし食事をする時間もない。」と話したところ何だか変な空気になった。

小林と2人で2軒目に行った時に「サトル、誰にでもおんなじ本数の取材入れてるわけじゃないんだから、ああいう事は他のアーティストの前で言うなよ-」と笑いながら言われたのだった。

 

 

デビューして1年で3枚のアルバムと4枚のシングルをリリースし、その度に全国をキャンペーン(作品を告知するための番組出演や雑誌、新聞取材のこと)で回っていた僕は、自分のことを皮肉交じりに「キャンペーンマン」と呼ぶほど取材漬けの日々を送っていた。

特に地元、東北地区の取材数、番組出演数は小林が本気中の本気を出していたため凄まじい数で、それだけの濃密な時間を小林と過ごしていたとも言える。自然に僕らの信頼感は深まっていき、やがて本社スタッフが僕に何か言いにくいことを言う時にはまず小林に相談する、という流れが出来てしまったほどだった。

 

 

小林との関係を決定的にしたのは僕がソロになった時のことだった。

ソロデビューシングル「天使達の歌」のレコーディングが終わった1998年の12月のある日、ソロ活動のプロモーションを一任された小林が僕に向かってこう言ったのだ。

 

「路上ライブをやろう。レコード店でも飲み屋でも、どんなところでも歌おう。」

 

それまで音響と照明設備の整ったステージで歌うのがプロフェッショナルだと思っていたし、路上、ましてや弾き語りなど貧乏臭くて一生自分とは縁のないものだと思っていた。

ところが小林にそう言われた時に不思議と「やっぱりそうか。それしかないか」とすぐに納得してしまったのだった。

 

 

その頃の僕はバンドを休ませてソロ活動をするということは、プロでやっていく最後のチャンスだと考えていた。

「ライブを見てくれればわかる」「CDを聴いてくれればわかる」とブツブツ言いながら待つのではなく、こちらから無理矢理にでも歌を聴かせに行く。これが最後のチャンスなのだ。やった方がいいと思われる事は全部やる。もしもこれで終わるのならば後悔なき終焉を迎えたい。弾き語りなどやったことはないが、一番手軽に歌を聴いてもらうためにはそれしかない。やる。俺はやるぞ。

 

長い付き合いの中で、小林は僕のことを僕以上に知っていた。プライドの高さも弾き語りを嫌っていたことも。それを知った上で「路上で歌おう」と言ってきたのだ。それがどれほどの決意かは痛いほど伝わったし、僕が「わかった。どこでも歌う」と決めた事の意味を小林は他の誰よりも分かっていた。

 

 

ソロ活動がスタートした最初の2ヶ月間は僕はほとんどの日々を小林と共に仙台で過ごした。アマチュア時代から活動していた街ということで業界内にシンパが多かったし、何よりも小林が全力を発揮できる街が仙台だったのだ。

 

おっかなびっくりで始めた「どこでも歌いますライブ」。

今でも忘れないのは初めての「飲み屋ライブ」となったある居酒屋の宴会場でのライブだ。和風の居酒屋に、靴を脱いで上がる掘りごたつ式のテーブルがずらーっと並んでいる一角があった。70名ほどの宴会も可能というほどの広さだったがこの日の客はみんなフリーで来ているようだった。

テーブルは週末ということもあってほぼ満席。そんな盛り上がりのまっただ中に突然ギターを持って登場し、酔っ払い客相手に20分ほどのライブをやろうというのだ。さすがにこれは無茶ではないか。

 

小林が「すいません!ちょっとお時間良いでしょうか!」と大声で前説的な挨拶をする。ざわつく店内。しかし「面白いことが始まりそう」というような好意的な空気感。一気にアドレナリンが放出されたところで小林が僕を紹介する。初の飲み屋ライブ。腹は括った。やるしかない。

 

「坂本サトルです。ちょっとだけ歌わせて下さい!」と始まったそのライブは控えめに言っても死ぬほどウケた。マイクも使わず照明もなしでもライブはやれるし会場はこれほどに盛り上がるのだ。なんだこれは。ひょっとして俺に弾き語りってすごく合っているのでは!?

 

あの夜、小林はどんな思いでそのライブを見ていたのか?

その夜、2人でどんな話をしたのかは残念ながら忘れてしまったけれど、とにかく「凄いことが始まったぞ」とワクワクした事ははっきりと覚えている。小林にはこれがわかっていたというのか?すごいやつだなあ。もうどこまでもついていくぞ!と決めた夜だった。

 

 

その後、来る日も来る日も休む事なく路上&飲み屋ライブは続いていった。経費を節約するために小林は家族を奥様のご実家に帰し、ホテル代わりに自分のマンションを使わせてくれたのだった。

 

ライブの本数と内容は日々ヒートアップしていき、1999年2月に「天使達の歌」のシングル(インディーズ盤8cmシングル。のちにメジャー盤マキシシングルが発売された)が発売されてからは多い日は1日8本。朝から晩までひたすら歌いまくってCDを売りまくった。

1曲入り¥500というお手頃価格も手伝って、1日に200枚売れるのはザラ。ある日など、1日が終わりその日のCDの売り上げを数えながら遅い夕食を取っていると、小林が「今日の売り上げは594枚だ」と言う。「なに!?あと6枚で600枚じゃないか。よし今からもう1本やろう」と急いで店を出て真夜中過ぎに若者達がたむろする場所に行ってライブ。

当時はすでに話題になりつつあったので、そこでも20枚近くが売れてその日の売り上げは610枚以上となった。

 

体調が悪い日も声帯から膿が出ても、その勢いは誰にも止められず、僕らは半分ぶっ壊れて煙が吹き出している車に乗ってブレーキもかけずにぶっ飛ばすような日々を送ったのだった。

 

(1999年4月、路上ライブを始めて2ヶ月後の仙台。これには写っていないがいつもすぐ近くに小林がいた)

 

 

そんな路上&飲み屋ライブはあちこちで話題にされ、集客数はどんどん増えていき、あの初めての夜からわずか4ヶ月後にミュージックステーションに出演。タモリさんのとなりで路上ライブを邪魔する占い師の話をすることになるのだから、ほんとに世の中何が起こるかわからないものだ。

 

(1999年7月、長崎にて。ミュージックステーション出演後は全国どこに行ってもこんな感じに)

 

 

その後、本社に転勤となった小林はその数年後に会社を辞め、僕と2人で川崎市に小さなレコード会社兼プロダクションを設立。その3年後に僕はその会社を抜け、小林は仙台に戻った。

 

カウンターバーを経営しながらインディーズレーベルを運営し、いつまでも小林らしい毎日を送っていくのだろうと思っていた2014年8月、奥様の誕生日にガンが発覚。1年ちょっとの闘病の末、小林はあっけなく旅立った。

 

 

葬儀場の方が「政治家でも芸能人でもないのにこんなに弔問客が来る人は初めて」と驚くほどの賑わい(?)の中、小林は送られていった。弔辞の後、小林に特に縁のあった数名のミュージシャンが歌を歌った。僕の番は最後だった。

 

小林との思い出をしばらく話した後、そのマイクから離れ、僕はあの時と同じように生声と生ギターで「天使達の歌」を歌った。

 

意外なことにその時、涙はこぼれなかった。それどころか小林が逝ってもう2年半が過ぎたというのに、僕はまだ小林のために泣いたことがない。どこかで生きているような気がする…という類の気持ちではない。小林はもういない。それはわかっているのに泣けない。なぜだ。わからない。いつか小林のために涙を流す日が来るかも知れないし来ないかも知れない。

 

 

彼の店は周囲の説得の末、奥様が継いでくれた。月に2度は通っていて、小林の代わりにカウンターに立っている奥さまと、時々2人で小林についての愚痴を言い合う。大抵は「何もかもほったらかしにしたまんま死ぬなんてズルい。」と怒って笑って話しは終わる。

 

 

小林に半ば強制的に誘われた路上ライブ。そのお陰で歌やライブへの考え方は一変し、肝は据わり、発声方法も変わり、それらがあったからこそ避難所でも仮設住宅でもライブがやれた。小林は僕に音楽を続ける方法と、誰かの役に立つためのスキルを残したのだ。

 

 

先日、メジャーレーベルに所属する友人の女性シンガーが新作をリリースし、青森キャンペーンを手伝うことになった。

2日間でラジオ番組の生放送を4本、収録番組を4~5本、新聞取材を2誌セッティングした。

マネージャーさんが「こんなキャンペーン、レコード会社のプロモーターでも組めないですよ!」と驚いたが、僕は意外に思ったのだった。小林ならもっとすごかったはずだったから。

こんな能力も僕に残したのかあいつは!!

 

(若き日の小林。2000年頃。)

 

以上、デビュー26周年にあたり小林を紹介してみました。

 

腐れ縁というか戦友というか、1年4ヶ月一緒に暮らしたこともあるから同棲相手とも呼べるし…。

これからも時々想い出して書いてみます。お付き合い頂ければと。

 

というわけで27年目の坂本サトルもよろしくお願いします!

 

(「まいにち・みちこ」にて2018年5月公開)