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父の一周忌の法要が無事に終わった。
父の日に一周忌を迎えさせるなんて、父もなかなか粋な事をするものだ。

あの日から1年が過ぎた。
正直に言えば、元々離れて暮らしていた僕にとっては時々実感がなくなってしまうこともあった1年だったが、一緒に暮らしていた弟夫婦、そして誰よりも妻であり最大の理解者であり戦友でもあった母にとっての1年はどんな日々だったのか。

今日はあらためて父の死を追悼し、四十九日の法要を終えた後にここに掲載したエッセイを再掲載します。
再掲載エッセイを再掲載、ということで時間軸的にちょっとややこしくなると思われますが、どうかご自分のご家族に姿を重ねて読み進めて下さい。

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再掲載「Hey Jude」
(2012年7月31日のブログより)

先日、父の四十九日の法要が無事終わった。
実際には8月3日がその日なのだが、出席者の都合で少し早めの日程となった。
お坊さんに寄れば人は死後、49日かけて天に昇っていくのだという。
それまでは「お家の周りをウロウロしてます」という事だから、いよいよ父もこの家を離れていくのだろうか。

父は余命宣告を受けてから9ヶ月間生きたため、その間、遺言めいた大切な話しをいくつもしてくれた。
宣告されてからの3ヶ月間はいくつかの病院を転々とし、その度に手の施しようがないことを告げられてどんどん元気がなくなっていった。「年を越せないのではないか」と本人が語っていたほどだったが、地元の八戸市立市民病院の緩和医療科で佐藤先生と出会ってからは見違えるほど穏やかで、「お父さんは今が一番幸せだ」と毎日のように口にするようになった。
その様子はまさに「悟りの境地に辿り着いた」という感じで、人は死を前にしてここまで周囲に優しくなれるのだと心の底から父を尊敬したものだった。

今日は12年前に書いたエッセイを再掲載した後で、闘病生活中に父からその答え合わせのような話しを聞いたから、それも書き留めておこうと思う。思い出す事が何よりの供養という言葉を信じて。
長文となりますがお時間のある方はどうかお付き合いを。

まずはその12年前にバウハウスから出版された「終わらない歌」(現在は絶版)という拙著に収録したエッセイをここに。
主に時間軸の認識に記憶違いがあったたり、文章が拙かった部分が多数見つかったため、修正、加筆してお送りします。父の年齢はこれを書いた2000年当時のものとなっています。


「Hey Jude」

若気の至りで連帯保証人の欄に実印を押してしまった僕の父は、20代にして身に覚えのない莫大な額の借金を背負った。
自己破産を免れるために、家、畑はもちろんありとあらゆる不動産が抵当に入れられた。
父はその数年前に列車の事故で父親(僕の祖父)を亡くし、バラバラになった遺体を線路上からひとつひとつ拾い集めるという惨状を経験したばかりだった。

これ以上はないと思えるそんな最悪の時期に母はこの家に嫁いできた。
苦労をする時には相棒が必要だろうという親戚達の配慮でお見合いをした日から、わずか2ヶ月後に自宅で式を挙げたのだ。
結婚後も父の知らないところで続々と借金が増えていっている事を知り、父は母が家を出ていく事を覚悟した。
その頃に母の母親(僕の祖母)が書いた日記を読ませてもらった事がある。
そこには「濁流に呑み込まれた我が子を助けに行きたいのだが、その流れがあまりに早過ぎて助けにいけないのだ」というような事が書いてあった。

結局、母がこの家を出ていく事はなく、結婚から2年後に僕が生まれ、さらにその2年後に弟(昌人)が生まれた。
その頃の我が家は、秋の終わりに収穫しておいたリンゴを車に積んで父と母が行商に出かけ、その日得たお金を次の日の食費に充てて、何とか生活を成り立たせていた。
学校や保育園が休みで僕と弟がついて行く時には、荷台はリンゴでいっぱいだったから、3人がけのベンチシートに母と僕らが強引に乗りこむ。
こうやって青いボロボロのハイエースは親子4人全員を前の席にぎゅうぎゅうに乗せリンゴ売りに出発するのだった。

昼ご飯は母が握ったおにぎりで、車の中でそれを食べた。
父と母にとっては切羽詰まった状況ゆえの行商であったのだが、僕と弟にとってそれは週に1度の愉快な親子遠足だったのだ。

そのハイエースには今ではもう見なくなってしまった「8トラ(ハチトラ)」が搭載されていた。
あの頃のカーステレオはほとんどがこれで、8トラのカセットはレコード屋で売っているのが普通だった。
うちの車にはいつもカセットが2本だけ乗っていた。それは父が「その頃は流行っていたから誰でも持っていた」というベンチャーズとビートルズのベストアルバム的なものだった。
残念ながら僕がそこで一気に洋楽に目覚めるというような事はなく、その時の僕にとっては「これは外国の歌だ。何と歌っているのかわからない。しかしこれしかカセットがないから聴くしかない」程度の認識だったが、ビートルズの「Hey Jude」だけは最後の「ベーラ、ベーラ、ベーラ、ウワーッ!」というのが印象に残っていて好きだった。

1日が終わる。
ある日はたくさん売れ、ある日は売れなかった。
帰り道、売れ残ったリンゴと、いつ沈むかも知れない4人を乗せたハイエースは夕方の国道を家に向かって進む。
見えない明日。若かった父と母。何も知らずに騒ぎ疲れて眠る僕と弟。そしてそこに流れる外国の歌。
2人の子どもの親となった今、僕にはその頃の父と母の気持ちがわかる。
その時、父と母を支えていたのは間違いなく僕と弟だった。

その後、運命的な出会いと2人の努力により父と母のリンゴは初めは徐々に、やがて爆発的に売れるようになり、坂本家の台所事情は劇的に変化していった。
そして返済不可能と誰もが思っていたその借金を2人は20年かかって全て返済したのである。
物心ついた時から「家には多額の借金があること。それを少しずつだけれども返していっている事」をはっきりと知らされていた僕は、ひたすら2人のすごさに圧倒されて育った。
父はもう60才を越えたが、40年近く農業という肉体労働を続けている彼の体は筋肉質で見事に引き締まっている。
根性も筋金入りだ。小柄でシャイで相当な「おとぼけ君」であるが、僕は今だに何をやっても父に勝てる気が全くしないのだ。

今ではあの頃の事は笑い話になったが、時々ラジオなんかで「Hey Jude」を聴く度に「あの時、帰り道の車の中で父と母はどんな気持ちでこの歌を聴いたのだろう」と考えてしまって、僕は何とも言えない気持ちで胸がいっぱいになるのだ。

~「終わらない歌」(2000年バウハウス刊)より。一部加筆修正。



このエッセイを書き上げてから約12年後に父は膵臓ガンで余命6ヶ月、と診断されることになる。

もう食事はおろか水さえ飲む事が出来なくなった最後の数日。
父が一番下の弟を病院のベッドの枕元に呼んだ。
この弟というのは僕と11才離れた坂本家の三男坊で、先のエッセイの時期にはまだ生まれていない。
父親の苦労を幼い頃から見てきた僕と次男に比べて、ある程度家計が安定してきてから生まれてきたこの末っ子は、父に反発し心配させ、最後も父に「お母さんと三男坊の事だけが気がかりだ」と言わせた。
身内の恥をさらせば、僕もこいつにはずいぶん手を焼いた。初めて会う人には「デキの悪い方の弟です」と紹介する事にしている。腹が立つ事が多いが憎めなくてついつい笑ってしまう。そんな愛すべき三男坊。
その末っ子に向かって父はこう言ったのだ。
「子どもを作りなさい。お父さんみたいに3人とは言わないけど2人は作るんだ。子どもは後で宝物になるから」
小さな声だったが、病室にいたみんなに聞こえるようにゆっくりとはっきりそう言った。
僕が「こんな三男坊でも宝物なの?」と聞くと父はうなずきながら「そう。宝物だ」と。


父は「子どもは宝物だ」ではなく「子どもは後で宝物になる」と話した。
あの行商からの帰り道、初めてそう思ったのかな。
生きてるうちに聞いておくんだった。