思いがけず、お盆の里帰りとなった。
ということで、随分前にネット上で連載していたエッセイを再掲載。

みんな、いいお盆を。(ってなんか変な言い方だね)

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「信仰とは」


8月も終わりに近づいたある日、東北での仕事の合間を縫って青森の実家に帰ってきた。澄み渡る空、あちこちに咲き乱れる夏の花、夜空に広がる天の川、その下でワイワイと催されるバーベキュー。
心が洗われる時とはこんな時間の事を言うのだろう。

僕が実家に帰るとまず最初にすることは、仏壇に線香をあげることだ。
我が坂本家は、とある旧家から100年ほど前に分家したのだが、その最初の爺ちゃん夫婦の写真を筆頭に、仏間にはご先祖様の顔写真がずらりと並ぶ。その遺影に見下ろされながらまずろうそくに火をつけ、その火で線香をあげ、チンチーンと鐘(っていうんだっけ?)をならし、手を合わせるわけだ。

みんなはああいった時に何を考えるのだろう?とりあえず手をあわせるだけで全く別の事?家内安全商売繁盛?「帰ってきました」のご挨拶?
僕の場合は、まず帰って来ましたと挨拶した後、最近の自分の周りの事を報告。仕事はどうです、家族はこうです、毎度の事ながらお供え物買ってこなくてすいません、等と近況をひと通り説明した後「よろしくお願いします」としめる。所要時間1分ほど。
そして数日後、実家を後にする時にもう一度仏壇の前で手を合わせる。この実家で暮らしている家族をよろしくお願いします。家を出て、東京で勝手をやっている僕の事は一番後回しにしてくれてもいいです。でも気にかけていて下さい。そんなことを来た時よりも多くの時間をかけて心の中で念じるのだ。
 

僕は戦争やテロの背景となったり、人の心の拠り所となる「存在」としての宗教には強く興味を惹かれるが、信仰する対象としての宗教には全く興味がない。
「神様」とか「仏様」という漠然とした存在に支えられる、ということがどうしても理解できないのだ。だからといって、何かを信仰している人に対してとやかく言うつもりもないし、もちろん信仰する事を悪いだなどとは思わない。しかし1人で数百万人の面倒を見なければならない神様と、自分の子孫の行く末を案じるじいちゃんばあちゃん、どっちに手を合わせるかと聞かれたら僕には迷う理由などない。

共働きの両親の代わりに僕を育ててくれた曾祖母が亡くなったのは僕が8才の時。
震度7の十勝沖地震がまだ1才になったばかりの僕を襲った時に、僕の上に覆い被さって命をかけて僕を守ってくれた祖母が亡くなったのは僕がデビューする1年前の事だ。
彼女達の遺影の前では僕は丸裸になる。ひとつの嘘もつけない。見栄も卑怯も許されない。
無言で笑う写真の奥に見える厳しさと、深い愛情。僕の中に脈々と流れる彼女達の血。
僕が彼女達を思う気持ちを「信仰」と呼ぶのかも知れない。

そんな「懺悔」のおかげなのか、実家から東京に向かう僕の気持ちは静かで、そして何かに満たされているような充足感がある。やさしく、おおらかな気持ちで人と接する事ができるような気がする。
今度帰ってくる時まで、そんな思いが続いていますように。

(2002年8月「weekend caravan」掲載分)