実家に立ち寄った。

昨日散策した弘前と僕の実家は距離的には150~160キロ。
しかしアクセスがあまり良くないため、車では3時間ちょっとを要する。

3時間。
都内からなら高速をとばせば名古屋の近くまで行けるし、名古屋からなら大阪を過ぎて神戸ぐらいまでいけるんじゃないか。広島から福岡までもそのぐらいだったよな。

青森は広い。
そう感じさせるのは実際の面積と言うよりは各都市間のアクセスの悪さだ。
新幹線が青森まで伸びれば(今年12月4日開通)、変わっていくのだろうか?


江戸と青森を行ったり来たりしながら、さらにその青森の中でもあちこち行き来している僕が、本日お送りするのは、ちょっとした論文並みのエッセイ。

以前、webに掲載していたものを加筆、修正し、青森への愛をこめてお送りします。
長文です。ご覚悟を。



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「津軽と南部」


青森県の事を良く知らない人にとってはピンとこない話しかも知れないが、青森県の中には「津軽」と「南部」という2つの文化が存在している。
この2つの異なった文化の誕生と対立の歴史は思いのほか古く、そしてかなり複雑である。
僕も少しばかり調べてみたのだが、とにかく資料が膨大な上に、津軽、南部、双方で異なった史実が述べられていたりして、短い時間でまとめることは困難であった。


ということで、その2つの文化の歴史が、現在の青森県民生活にいまだに与えている影響や実情を述べる事で、みなさんには何となくでも「青森県」を感じてもらえればと思う。

歴史家をして「1つの都道府県に複数の文化が混在しているのは珍しいことではないが、青森県ほど極端な例はないだろう」と言わしめる青森。
さて、あなたの目にはどう映るだろう。


【歴史】
1…「津軽と南部の文化」とは、言い換えれば「旧津軽藩と旧南部藩の文化」である。

2…津軽の人が話す言葉が「津軽弁」。南部の人が話すのは「南部弁」。

3…おおまかに言って「津軽」は青森市、弘前市を含む青森県の西半分、「南部」は八戸市、南部町を含む東半分である。

4…私の故郷「南部町」は、その名の通り、南部藩発祥の地である。

5…最終的にその殿様が今の岩手県盛岡市に城を構えたため、南部藩の中心は盛岡となった。

6…長く対立姿勢を続けてきた南部藩と津軽藩は戊辰戦争においても、南部藩は幕府軍を津軽藩は新政府軍をそれぞれ支持し、敵対関係となる。
1868年、現在の青森県野辺地町で勃発した野辺地戦争では、津軽軍と南部軍が交戦し津軽軍の兵士27名、南部軍の兵士6名が戦死。
戊辰戦争においては、周知の通り新政府軍が勝利。よって津軽藩は官軍、南部藩は賊軍となった。

7…1871年、廃藩置県。紆余曲折を経て、津軽藩と「南部藩の一部」が青森県となる。これがこの後のドラマの始まり。

8…県庁所在地選定時、旧津軽藩サイドは青森市を、旧南部藩サイドは八戸市をプッシュ。
結局青森市に決定するのだが、それに納得しなかった南部の人間は、青森県庁に対抗して市役所を「八戸市庁」とした。
この「市庁」という言い方をするのは全国で八戸市のみ、と教わっていたのだが、調べてみると奈良県奈良市も「奈良市庁」という言い方をしていた。
他にもあるのかも知れないが、どちらにしろその数は少ない。


【事実】
1…僕は1992年にデビューするまで青森市に行った事がほとんどなかった。

2…さらに、弘前に至っては2003年の弾き語りツアーが初体験。

3…青森の「ねぶた」は2009年が初体験。弘前の「ねぷた」は一度も見た事がない。

4…うちの実家もそうなのだが、南部で岩手県に近い場所に住む人々の中には、アンテナを盛岡(岩手県の県庁所在地)に向けて立て、岩手のテレビ番組も見れるようにしている人が意外に多い。
ちなみに青森県の「方言丸出しCM」で使用される方言はほとんどが「津軽弁」、岩手県の方は「南部弁」である。

5…青森県の2大都市である青森市と八戸市の道路を使った場合のアクセスの悪さは、ある意味異常である。


【言語】
津軽と南部の最大の違いはこの言語である。
イントネーションどころか単語自体が違っている事も多く、それにより様々なドラマが生まれる。
ここで紹介するのは、僕や家族の実体験である。

1…それぞれの土地にその土地の方言を使ったローカルCMが存在すると思われるが、青森県の場合、そんなCMで使用されるのは90%以上が津軽弁である。
南部弁を話す人々にとって、自分達が普段使っている言葉とは異なった方言があたかも「青森県のオフィシャル方言CM」として流れていることが、どれほどしっくりこないかを想像して欲しい。

2…僕が大学生の時。体育でバスケットを選択したのだが、教官が各都道府県別に別れてチームを作ろう!と提案。
そうして集まった我が青森県チームはメンバー5人中、南部出身者は僕だけであった。
まずは「チーム名を」ということでみんなが知恵を絞る。
1人が「ドンズがいいんじゃねえか?」と言うと、残りのみんなが「あっはっは。そりゃあいい!」と盛り上がり、我がチームは「ドンズ」に決定。
1人その意味も、なぜみんなが笑ったのかもわからず、あやふやにヘラヘラと笑うだけの私。
「ドンズ」が「お尻」あるいは「ビリ」を意味すると知ったのは翌日の事であった。

3…僕の1番下の弟が小学1年生だった頃の実話。
この話をする前にまずは予備知識を。
津軽弁の代表的な言い回しに「はんで」というのがある。
これは日常よく使われる接続詞で「だから」というような意味をもつ。
例えば「これ使うはんで、なげんなよ」は「これは使うから、捨てるなよ」(「なげる」は「捨てる」の意)だし、「したはんで、わ、いげね」は「そういうわけだから、俺、行けない」となる。
で、弟の話。
授業中、津軽出身のその先生はクラスのみんなに「ねんどやるはんで、準備して」と告げた。
それを聞くやいなや突然立ち上がり、机をくっつけだす子供達。
そう、津軽弁をほとんど聞いた事のなかった子供達には先生の言葉がこう聞こえたのだ。
「ねんどやる班で、準備して」
先生の指示に従って班ごとに机をくっつけようと動き出す子供達。
勝手な行動を取る子供達に驚き「何やってんだ!」と叱る先生。
子供達にしてみれば言われた通り動いているのになぜ先生が怒っているのかわからずあっけにとられる。
先生も生徒も全員が頭の上にクエスチョンマークである。
生徒の1人が「だって先生が『班で』」って言ったでしょ?」と説明をして先生ようやく状況を飲み込む。
後日、生徒からその話を聞いた父兄が「授業ではなるべく津軽弁を使わないで欲しい」と学校に申し出て、職員会議の議題に…。

4…そんな環境で育っていった僕らが他の土地に行って「青森出身です」と言うと、かなりの確率で言われるセリフ。
「津軽弁話して!」
「津軽弁出ないですね」
(「青森弁話して!」ともよく言われるが、この場合、その人がイメージしているのはほとんどの場合津軽弁である)
「いや、僕が住んでたとこって津軽弁じゃないんですよ」と言うと「またまた、恥ずかしがっちゃって」…。
もうね、心の中でそいつにゲンコツ食らわしてます。

とにかく、県内で、県外で、「青森県=津軽」という図式に出くわすたびに違和感や浮遊感や、やるせなさを感じてしまう南部の人々。
さらに全国的に「南部鉄器」で知られる南部というのは岩手県のことだし。
ああ、なんというモラトリアムな存在。「青森南部」よ。


以上。
他にも細かい事はたくさんあるのだが、青森県の現状、なんとなくわかってもらえたのではないか。


もちろん「津軽の者と南部の者は結婚させない」というようなことがまかり通っていた頃と比べれば、今は隔世の感がある。
「津軽と南部の確執?…昔はあったけどね」という人がほとんどだろう。
僕も「こんなもんは所詮過去の事」と切り捨てようとするのだが、油断してきた頃に、その確執の根深さを目の当たりにするような事に出くわして、僕はその度にカウンターパンチを食らってしまうのである。

数年前、津軽地方にあるショッピングストアでイベントライブをやった時の事。
客入りは上々、ライブ自体も非常に盛り上がって、僕は良い気分で控え室に戻って来た。
と、そこであるスタッフがこんな話をしてくれた。
実は僕を呼ぼうとしたのはこれが2度目のことだったと。
1度目に呼ぼうとした時に、当時の店長のこのひと言で僕のライブは却下されたのだという。
「南部出身のやつにはうちの店ではやらせない」
当然、この店長は津軽の人であった。
店長が替わり、ようやくそのライブが実現したというわけだ。


「いつまでも昔の事を」とはもちろん僕も思う。
しかし、142年前の戦争はある人々にとっては「たった142年前のこと」なのかも知れない。


青森県内の多くの放送局や新聞社が青森市にあることもあって、デビュー以降はむしろ津軽の人達と接することの方が多くなり、知れば知るほど「なぜ俺はもっと若い頃から津軽の人や文化と接してこなかったのか!」と強く思うようになった。
故郷のこともろくに知らないまま、僕は世界の何を知ろうとしていたのか?



津軽と南部の旗。
そしてそれぞれの中にも小さな旗が無数に立っている。
どの旗もそれぞれ尊重されるべき歴史を持ち、主張を持ち、夢を持っている。
それぞれの旗は、実際には1000メートル間隔で立っているのかも知れないが、ふるさとを遠く離れた僕には1ヶ所に集まっているようにしか見えない。
それならばいっそ、1本の大きな旗になってはどうか。

遠くからもはっきりと見えるように天高くそびえ立つ大きな旗。

それが困難なことであることは重々承知の上。
僕に出来ることがあれば何でもやりますので。



歴史というのは教科書に書いてある「テストのために覚えなければならない項目」ではない。
僕らはその歴史の上に今の生活を営んでいるのだ。

なんてことをあらためて思う私。
高校生の頃にこれに気付いてたら歴史の成績はもっと良かったのになー。


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故郷、青森。
これからもちょこちょこ書いていきます。

みんなが住んでる場所はどう?