「才能」は生まれる前から決まっている?~占星術と前世信仰~ | 占星術小説家@酒井日香の占い死ね死ねブログ

才能とは

 

「持って生まれたもの」

「天が与えるもの」

 

と思い込む人ほど占星術にどハマり

する、というお話。。。( ´艸`)

↑ なんとなくのキラキラ。。。☆

 

 

 

 

 

 

さて、チベット密教にすっかり魅了されてしまった
私は、連日チベット仏教関連の本を読んでいるん
 ですけれども。

 


世界一有名なチベット人は?

 


と聞かれたら、大抵の人は

 

「ダライ・ラマ」

 

 

と答えるのではないでしょうか。

 

 

 

そんな日本人にもおなじみ、1989年に
 ノーベル平和賞を受賞しているダライ・ラマ
14世さんですが。

 

 

このダライ・ラマの

 

「ラマ」

 

というのは、日本語で


「師」

 

というような意味で、彼はなんと初代
ダライ・ラマのたましいが、現代まで
連綿と生まれ変わり続けてきた存在
なんだそうな。

 


チベットには大変に根強いリンポチェ(活仏)
 信仰というのがありまして、お釈迦様を始め、
 過去のさまざまなブッダたちは今も、敢えて
衆生を導くために生まれ変わってくるのだと
考えられています。

 


15世紀にモンゴルの宗主、アルタン・ハーンが、
チベット仏教ゲルク派、デプン寺の僧侶
スーナム・ギャツォに

 

「ダライ・ラマ・ヴァジュラダーラ
(大海のような師、金剛杵のようなお方、
という意味)」

 


という尊号を送った。

 

その当時はあからさまに転生ダライ・ラマを
持ち出していなかったのが、五代目のダライ・ラマ

 


「ガワン・ロサン・ギャツォ」

 

 

の代になると、モンゴルの大豪族グーシ・ハーンに
自ら取り入り、ダライ・ラマは観世音菩薩の化身
だから、何度も生まれ変わっているのだと認めさせた。

 


それ以来、現在の14世テンジン・ギャツォさんに
至るまで、観世音菩薩の化身であるダライ・ラマは
生まれ変わりを繰り返しているんだそうな。。。

 

 

さて、このダライ・ラマの見つけ方が実は、

 


「占星術と前世信仰」

 


というテーマを語る際に、避けて

通れないのであります。( ´艸`)

 


ダライ・ラマを見つける方法は以下の3つ。

↓     ↓      ↓


① 予兆、夢告
② 占星術
③ 生前の本人の予告

 


なんざんす。

 

 

 現在の14世、テンジン・ギャツォさんも、
 夢告と占星術をたよりに探し出されたのだ
 そうな。。。

 

 

んで、転生ラマと認定するためには、アタリを
 つけた子どもを寺に連れていって、前のダライ・
 ラマが使ってたお茶碗とかペンとかを3つくらい
並べて、

 

 

「キミが前生で使ってたのはど~れだ?」

 

 

ってやって、5歳児が

 

「これ」

 

って指さしたのが当たってたら、その子が
死んだ先代ダライ・ラマの生まれ変わりって
 ことで決定★

 


という、ちょっと間違えるとやや人権蹂躙な
感じもする選抜方法なんですけどね。。。

 


いや、チベット人の問題だから、チベット人が
 それでいいんならいいんだけど、国際的な
風潮としてはアレでナニな気もする。。。

 

 

うん。。。

 

 

しかし、こういう摩訶不思議な伝統が残っている
 からこそ、チベットは

 

「神秘の国」

 

 

として、世界中の人から注目されるんでしょうね。

 


そんなわけで、なんで転生ラマ探しが

 

「占星術なのか」

 


というのが、本題なのでありますが。

 


それはやはり、ホロスコープというのは
唯一無二のものだから、それはその人の
 たましいを表しうるという、そういう
考えが根底にあるからですね。

 


キリスト教でも

 

「ベツレヘムの星」

 

といって、占星術師が星を見て救世主が
生まれたのを知り、子どもを産んだ
 ばかりの聖母マリアを訪ねるという
 シーンがありやんす。

 


しかし、実はこの、転生ラマを探す際の
占星術というのは、アンアンや恋運歴で
 お馴染みの、個人ホロスコープを
見るようなもんとはちゃうのです。

 


 西洋占星術の

 

「ホラリー」

 

に近いものなんですね。

 


「ホラリー」

 


というのは

 

「瑞兆占星術」

 

とも呼ばれてまして、たとえば天に、よい
兆しが現れたら、それをもとに何かを決める
 という素朴な占星術です。

 


もともと、占星術といえばそういうモノだった
 わけですよ。

 


「テトラビブロス」

 

という、プトレマイオス(英名ではトレミー)が
1世紀から2世紀頃に書き表したとされる占星術
テキストでは、ほぼ

 


「こういう印が見えたら
 こういう事件が起こりやすい」

 

 


というようなことが延々と書いてありまして。

 


たとえば麦の生育が早い年にはイナゴが
大発生しやすいとか、太陽光のまわりに
虹彩が現れたときは凶兆で、王の氏族に
 よくないことが起こるとか、木星と月の食が

起こると穀物が不作になるとか、金星が

うす雲よりも輝いてみえると戦争になるとかなどなど。。。

 


 気象学では

 

「観天望気(かんてんぼうげ)」

 


という言葉、学問がありまして、昔は天気予報と
 いえばまさに、雲の形とか、空の色、風の方向
などの自然観察だったわけです。

 


 占星術も400~500年くらい前までは、
ほとんど全部そんなもんだったんです。

 


 今みたいに、アセンダントが~、とか、分秒単位で
微細な星の位置を取り入れるようになったのは、
 下手をすると17世紀以降でごんすな。。。

 

 

だから、ホロスコープの歴史を何千年も前に
求める人がいますが、それは誤りなんですね。

 


 昔は今みたいなホロスコープ占星術じゃなくて

 

「観天望気」

 


の一つに過ぎなかった。

 


西洋占星術でも、個人の出生データで個人を
占うなんてぇのは、超最近の話で、ひょっとすると
100年ほどの歴史でさえ無いものかも知れない
 のです。

 

 

鏡リュウジさんの著書


「アニマの香り」

↓ ↓ ↓

 

 

 

 

でも、そういうことをかがみん本人が話していた。

 


だから、ラマ僧が用いる占星術というのは、
 空に虹がかかったからおめでたいとか、
 雲の輪郭が輝いているからおめでたいとか、
その程度の占星術なんですね。

 


それが個人ホロスコープになったとたん、
 占星術はどんどんおかしくなっていくんです。

 


どんどん

 

「自我信仰」

 

になっていってしまった。

 

 

昔はもっと素朴だったと思います。

 

 

 赤ちゃんが生まれたとき、お庭に花が
咲いていたら、自然に

 

「ああ、お花も喜んでいるね」

 

 


と感じるような、そういう感性だったのでは。

 


だから、イエス・キリスト本人のホロスコープ
 なんて要らないし、テンジン・ギャツォさん
本人のホロスコープも要らないんです。

 


本当に占星術信仰バリバリだったら、テンジンさんの
出生ホロスコープを作って先代ダライ・ラマかどうか
決めればいいのに、それはやらないんです。

 


ああ、木星と土星の合だ。おめでたいなと、
それぐらいのノリで、空を仰げば誰にでも
確認できる瑞兆を探すのが占星術だった。

 


 宗教的感性の源が、自然への畏怖であるならば、
そういう、自然界の瑞兆を探す占星術というのは、
 宗教と同源のものであるということが
言えるのではないでしょうか。

 


これが、個人を特定したホロスコープになると、
 明らかに宗教と対立するのです。

 


 一神教では、唯一の神だけが崇拝対象ですから、
 神よりもランクの低い(神に創造された存在である)
星々を崇拝するなんてのは、許されません。

 


では、瑞兆占星術だけはなんで、一神教的には
OKなのかというと、それは神が、神の御意志で、
 星々の運行を通じて下界にメッセージを送って
 いるのだということだから、OKなんでごんす。

 


 仏教でも、仏陀や化身ラマは、

 


「生きとし生けるものすべてを救済する存在」

 


ですから、それが生まれたとなれば、自然界の
月や太陽や、草花や雲までが喜ぶのは当然な
 わけですね。

 


だから、瑞兆占星術は、現代日本の我欲に

基づいた星占いとは違います。

 


今みたいなグロテスクな、個人ホロスコープ
 になると、宗教が乗り越えよ、と示す

 

「自我」

 


を、強烈に刷り込んでしまう。

 

 

 宗教が

 


「自分のことばかり考えず、他人のために生きなさい」

 


と説いても、ホロスコープで自分の幸せばかり
 を問いかけるようでは、ますます自己中心的な
心だけが育ってしまい、そういう人は死んで
何もかもこの世に置いていかなければならなく
 なったとき、想像を絶する心の苦しみに襲われる
 のです。

 


「とにかく我を捨てろ、自分なんて空で、
 自分なんて単なる錯覚だ」

 


と説き続ける仏教とは、対立する思想にさえ
 なってしまう。

 


それを、占星術を得意になってやる人は、
ちっともわかっていないのではないのか?

と、ちょっと愚痴りたくなったりするのでした☆( ´艸`)

 


だから、チベット人やヨーガ行者の占星術と、
アホなおばさん、おじさんが有名人になりたい
悪い心で施す占星術を、いっしょくたにしては
 いけません。

 


あちらは

 

「我」

 

を乗り越えるための占星術であり、それは
否定しうるものではないのであります。

 


 問題なのは、自分の彼氏運、金運、仕事運…、
と、自分の幸福ばかりを占星術に問いかける
 ことなのですね。

 


それは魔道であり、地獄への道であり、
 心の苦しみを果てしなく広げてしまう
 だけのシロモノなんです。

 


だから最近の占星術師の中では、

 

「昔のように、瑞兆占星術に戻りましょう」

 


という運動も起こっているくらいなのです。

 


 十年ほど前、ウィリアム・リリーという、
イギリス議会の顧問占星術師だった人が
16世紀に書いた

 


「クリスチャン・アストロロジー」

 


という本が、日本の占星術愛好家の間でも
 リバイバルブームになりました。

 


ウィリアム・リリーは実は、瑞兆占星術の
名手だった人で、敬虔なキリスト教徒だったのです。

 


きっと彼は、自然界の中に見える、人間社会への

兆しを探すことの、本当の意味を知っていたのでは

ないでしょうか。

 


今は先祖返りで、瑞兆占星術である

 

「ホラリー」

 

を、見直す動きが来ていますけど、ホラリーを
正しく用いるには宗教的感性、宗教哲学にも
通じ、自我の罠についてよく学ばないかぎり、
 扱えるものではないでしょう。

 

 日本のホラリーはまだまだ、結局は

 

「彼氏運、株式予測、金銭的利得、ギャンブル診断」

 

 


ばっかりで、ああ、そんなこと本質とは

何の関係もないのにな、と、残念な気持ちに

なります。( ´艸`)

 


個人のホロスコープをやりたがる人たちは

 


「才能というのは、持って生まれたもの」

 

 


というある種の

 


「思い込み」

 


があるのだと感じます。

 

 

 才能以外でも、恵まれているとかいないとか、
 生まれながらに決められた

 

「何か」

 

があると、みんな過度に思いこんでいる
 から、ホロスコープで自分のことばかり
問いかけてしまうのではありませんか??

 


しかし、たとえば心を広く持って、大きな
視点で眺めてみたときに、カネ持ちに生まれた
 ことがイコールで

 

「幸せ」

 

なのでしょうか。

 

ハンディがあって生まれたことで、努力の
大切さに気づき、努力できる人間になれた
 なら、それは

 

「幸せ」

 


ではないでしょうか。

 


そう考えると、何が幸福でなにが不幸か
 なんてのは、誰にもわからないのです。

 


 生まれつきのホロスコープで、恵まれた才能が
示され、恵まれた環境が約束されていたとしても、

 


「んじゃあ、それで幸福が確定するのか??」

 


というと、決してそうではないのであります。

 


ここに気づいて、本当の信仰や神に目覚めて
欲しいからこそ、占いは存在意義があるのです。

 


 占いしか、自分の心の醜さを直視させて
 くれるものはないのです。

 


それに気づかなきゃダメ。

 


 確かに生まれつき、絵がちょっとだけ上手い
 とか、走るのが少し早いとか、いい声してる
 というのはありますけども。

 


でも、それがそのまま才能か???

って言われると、酒井には激しく疑問です。

 


たとえば漫画ですけどね。

 


どう考えても小学生以下の画力しかない
漫画家なんだけど、ものすごく人気がある
人とかいるわけですよ。

 


酒井さんは

 


「中崎タツヤ」

 


という漫画家さんの漫画が、全巻コンプリート
 するほど大好きで、何かいも読み返しちゃうくらい
愛してますけど、中崎さんの絵が

 


「上手いか???」

 


と聞かれると、うーん、と考え込んじゃうわけですな。。。

 


いや、確かにあの味は、彼にしか出せないのです。

 


でも、

 


「上手いか???」

 

 

と聞かれたら、うーん、なんですな。。。

 

 

 

ちなみに漫聖、中崎タツヤ先生の絵柄は
 こんな感じっス。↓ ↓ ↓

音楽やお芝居でもあります。


どっしょーもなく下手で技術もないんだけど、

なんか見ちゃう、聞いちゃうという人が。( ´艸`)

 

 

なんだかもう、何をやっても

 

「コイツ色」

 

になっちゃう、強烈個性の人っていますよね。

 

 

でもそういう人に限って、

 


「上手いか???」

 


と考えると、実はそうじゃない。

 

 

ゴールデンボンバーなんかエアバンド

ですけど、あれなんかもある意味ズルいわけですよ。。。( ´艸`)

 

 


誰一人、楽器なんかできないわけだからね。。。

 


でも、視聴者にはものすげぇインパクト
 あるわけだよね。。。

 

 

 

そう考えると、

 


「いったい何をもって才能と言ったらいいのか」

 

 

 

というのは、非常に難しいわけです。

 


「天から与えられた天賦の才能」

 

 


だけあったって、それをホロスコープに
見つけてにんまりしているだけでは、
 中崎タツヤになれないしゴールデン

ボンバーにはなれません。( ´艸`)

 

 

むしろあの人たちは

 


「才能が無い」

 

 

のを逆手に取って成功しているわけですよ。

 

 

「才能無い」

 

 

のが、ズバ抜けた才能になっちゃっているから
 スゴイと思うんです。

 

 

そう考えると、ホロスコープで才能アリと出たからって、
いったいなんなんだと思わずにいられません。

 


占いを見て、素晴らしい未来を言われた
 からって、どれで何なんだ???

 


素晴らしい才能があっても、世間に切り込んで
 いく勇気がなかったとしたら、そんなのは
絵空事ではないのか???

 

 

むしろ、世間に切り込む勇気さえあれば、才能
なんてあとからついて来るのでは。。。

 


こういう風に考えると、ホロスコープで前世から
 定められた才能を知りたいと願うその気持ち自体が、
 空疎なもので、実態のないものだとわかるでしょう。

 

 

 

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