死後存続とホロスコープ その④ | 占星術小説家@酒井日香の占い死ね死ねブログ

さて、



「死後存続とホロスコープ」



というテーマでお送り中の連載、第4回目です。







前回のその③で、




「けっきょく、占いとか、霊能とかにどハマりする

人と、そうでない人の違いというのは霊魂観の

違いであり、霊や死後をどうとらえてゆくのかで

決まる」




ということをお話したわけですが。




では、占いと親和性の高い霊魂観とはどの

ようなもので、占いと親和性の低い霊魂観とは

どういったものなのでしょう。




いや、その前に、人間が抱く霊魂観、死後観には

どれだけパターンがあるのでしょうか。



以前、このブログ記事記事で、

http://ameblo.jp/sakainichika/entry-11307896018.html

東京大学で宗教学の教鞭を

取っておられた故・岸本英夫さんが分類した



「人間の4パターンの死後観」



を取り上げましたが、それを再びご紹介

したいと思います。









人が、死の恐怖を克服する思考パターン4つ

↓   ↓   ↓   ↓


①肉体的生命の存続を希求するもの

②死後における生命の永続を信ずるもの

③自己の生命を、それに代る限りなき生命に托するもの

④現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの


出典・岸本英夫 著 「死を見つめる心」 講談社文庫 刊





↑ これをもとに考えていきますと、占いとか

霊能にもっとも染まりにくい、




あるいは、霊能や占いといったやや危険な

ものに出会ったとしても、盲信しにくい生死観

は実は、③と④です。





それはなぜかというと、③と④の生死観という

のは、




「自分の存在をもはやアテにしていない」



ものだからです。




言い方を変えると③と④の生死観というのは、



「自分があり続けることにもはや、望みを

托していない生死観である」




ということが言えるでしょう。




実は、ここがすごく肝心なのです。




反対に①と②の生死観というのはいかが

でしょうか。



どうでしょう。どことなく、



「死んだ後も続く自分」



というものを想定した生死観ではないでしょうか。




実は、最先端の心理学をも凌駕すると言われる

仏教思想では、①と②の生死観を超越する

ことを推奨しているのです。




仏教はどこまで行っても、



「我を捨てろ、我を捨てろ、自分が続くと思いたい

というその欲こそがもう、お前の心の罠なのだ」



ということを、初期仏典では繰り返し繰り返し

述べているわけですね。



小乗経典はどちらかというと③です。



岸本教授が言うところの



③自己の生命を、それに代る限りなき生命に托するもの



↑ が、小乗仏教思想を表していると思います。



だから、小乗では輪廻転生という概念はあるが、

それは存続し続ける“わたし”ではないという

もので、意識そのものが泡のように、一つが消滅

してはまたどこかに現れるという、エネルギーと

してのあり方を説いているのです。



そして、それと一体化して、そこに無常を見出す

わけですね。




大乗経典でも同じように述べてはいますが、

そこにもっと慈悲というものを当てています。




大乗経典は




④現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの



↑ に近いでしょう。だから、大乗仏教の代表である

禅では、瞬間、瞬間に集中して生きる大切さを

教えるのです。


とにかく仏教では、①と②の生死観は




「まだまだ未熟者」




な生死観で、③と④の生死観にこそ救いが

あるのだと説くのです。



実はキリスト教でも、最終的には



「神に命とか、自己存在すらゆだねなさい。

期待してはいけない。すべては神のお心の

ままなのである」



という思想によって、やはり①と②の死後観

よりも、③と④の死後観を奨励しています。




イスラームではこのあたりが、やはり天国とか、

地獄とかを想定しがちで、死後存続を前提に

した教義が強めですから、どちらかというと

①と②の生死観が強いわけですね。



ジハードという聖なる戦争が肯定されるのも、

神のため、勇敢に異教徒と戦ったものは

死後に祝福されて、永遠の快楽の園に住める

という教義が根深いからです。




イスラームの生死観は実は、



②死後における生命の永続を信ずるもの



↑ であり、だから厄介です。



現世で救われなければ、それは死んでもいい、

殺してもいいということになりかねない。



また、神への罪を犯して死んだ者は、

未来永劫救われないことになる。



非常に怖い面もあるのです。



キリスト教やユダヤ教でも、



「最後の審判」



「至福千年期」



という概念を強く打ち出す流派では、

その生死観は②となります。



ところが、この①と②の生死観こそが、

世界の宗教戦争の根本原因ではないかと

今は考えられているのです。


そう考えると、世界の紛争も、生活レベルの

トラブルも、やっぱり



「自分があり続けたいという欲望」




に、端を発しているのかも知れません。



占いや霊能を宗教が否定するのは、

そういう



「自分にこだわり続ける心」



なんですね。



だから、それさえよく訓練した霊能者とか、

占い師が、まず自分自身の心をしっかりと

豊かにさせたうえで、神を取り次ぐために

行うのならばいいのですが、今の日本の

占いとか霊能というのは、宗教学とは切り離されて

しまっているため、やはりよくないし、あれで

人を助けるなんていうのはちょっと気をつけた

ほうが良いのです。





そんなわけで、①と②の生死観を持っている、

あるいは、抱きがちな人たちは、



「自分がこんな目に遭うのは、きっと前世で

何か起こしたからに違いない」



とか、




「自分の結婚相手とか、生涯の職業もきっと

すでに定められていて、それを運命と呼ぶのだろう」




みたいな、そういう思想を抱きやすいのです。




そういう、何かすでに定まっている何かが、

自分や地球や、宇宙や、国家の未来を

決めていくという考え方のことを、哲学の

専門用語では



「宿命論」




または




「運命論」




という言い方をします。




そして、そういう運命論を抱きがちな人は、

実は占い師とか霊能者の言葉に軽挙妄動

しやすいのは確かです。




そこから脱却するためには、自己の生死観を

よく見直し、できるだけ③や④の生死観でも

自分の存在にケリをつけられるよう、たくさん

哲学を学んでいく必要があります。



生死観を論じないまま、



「占いけしからん!!!」




と言ったところで、伝わりません。




とにかく、



「永続し続ける“わたし”」



という概念が、占いとか、スピリチュアルとか、

魔術とか、あらゆるオカルティズムの

原動力であるのは、私は間違いないことだと

感じています。





しかし、そういうと、



「では、あなたは、霊の存在を否定するのか。

けっきょく③や④の生死観では、霊の存在を

否定するではないか」



と、反論する方もおられるでしょう。




実は、それこそお釈迦様が答えている

ことなのです。



仏教は、③や④の危なくない、我執のない

生死観を抱いたままでも、ちゃんと魂とか、

霊魂の問題の謎は解ける、説明できると

言うことを、パーリ教典の中で詳細に

述べているのです。




そして、その中で明確に述べています。



「占いや、霊視の類には近づいてはならない」



と。




小乗経典スッタニパータの中で、

そうはっきりと述べているのです。



旧約聖書でも同様に、レビ記20節に、



「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に
処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は
死罪に当たる」



という記述があります。




イスラームでも使徒現行録などで、安易な

占いや口寄せにすがるよりも、神に祈れという

記述があります。




つまりは、世界3大宗教のどれもが明確に、



「占い・霊視などをしてはならない」



と、禁じているのです。




それはなぜかというと、そういうものは

①と②の生死観ゆえに出てくる怖れ、

まやかしであり、そこからいかにして

③や④の生死観に心をスライドさせてゆくか

ということが、宗教の役割だからです。



したがって、ホロスコープやタロットに夢中に

なる人は、もともと



「明確な宿命論者である」



ということなんです。



本人に自覚があってもなくても、宗教学的に

考えていけばそういうことになる。




んじゃあ、どうしたらいいんだとなると、

やはり一度でいいから仏教哲学に触れて

みてくださいとしか言いようがありません。



神道は、霊魂と相性がいいので、①や②の

生死観の方々とも相性がいいのですが、

でも、本当の神道でも実は



「惟神の道」



という言葉を用いることで、我執から離れる

ことは推奨しているわけですが、神道だけを

見ていくと実は、神道が逆に理解できないのか

なぁという気はしています。



やはり、神や占いや、パワスポや霊視を

求める人は、できる限り幅広い宗教哲学を

学び、片よりのない学びをして欲しいなぁと

思わずにいられません。



なんというか、霊とか、占星術とか、魔術とかに

夢中になる人というのは、意外と



「そういうものにハマッているわりには

幅広く知識を得ようとしていない」



印象を持ちます。



カルト宗教にハマった信者さんがよく言う

ことですが、結局は占いや霊能から脱却

できないというのは、



「無知」



ゆえに起こることだと、みなさん口をそろえて

おっしゃるのです。



私もかつては、そんな無知の代表者の

ような人間でした。



こないだ、とあるテレビ局のディレクターさんに、

占いや霊能に関するインタビューを求められた

とき、喫茶室で私は、こんな会話をしました。



「酒井さんはどうして、占い師から足を

洗おうと思ったのですか」



と聞かれたので、私は、



「自分の生死観が変化したためです」



と答えました。




そのとき、ディレクターさんと一緒に同席

していた宗教問題専門の新聞記者さんが、



「ああ、それ、俺、ものすごくよくわかる!!」



と、膝を叩いて共感してくれたのです。




その記者さんも、たくさんカルトの現場を

取材してきた中で、



「どうしてカルトの人は、こうも霊魂とか、

あの世にこだわるのだろうか」



と考えてきたとのこと。



やはり、自分の生死観を見直すということは、

とても大切なことだと思います。



タロットだとか、占星術だとか、エネルギーワーク

だとかに癒しを求めて、逃げるよりも前に、

自分はどう生きて、どう死んでいきたいのだろうか

とか、自分は生まれてきたことをどうとらえているのか

とか、見直してみるというのも、大切なことでは

ないでしょうか。



(ひとまずシリーズ終わり。

このテーマは再構成したのち電子書籍に

まとめたいと思います)。




下ユル子 敬具