「やまと教」ひろさちや 著 その① | 占星術小説家@酒井日香の占い死ね死ねブログ

皆さま、残暑お見舞い申し上げます。


お陰さまでユル子は、田舎(中国地方)へ帰省し、巨大スイカを一人で
3玉やっつけました。婆ちゃんが農地管理のため仕方が無く農作物を
作っているのですが、わしがスイカをしこたま食べるので、
いつもスイカを植えて待っててくれるのだす。。。


しかし、植えてくれるのはいいが、おとーしゃんとわし以外は、
みんなスイカ嫌い。。。


おとーしゃんも、男であるせいか、果物全般にはわしほど執着が無い。


よって、嫁ユル子が、ひたすらスイカ処理担当となるのである。


子どもの頃、憧れませんでした??

スイカを一人で1玉食べるのって。。。(^_^;)


嫁に来て長年の夢が叶ったアルヨ。。。婆ちゃんありがとう☆


さて、そんな感じで、行きの新幹線で読んだ本がこれ↓ ↓


やまと教―日本人の民族宗教 (新潮選書)/ひろ さちや
¥1,155
Amazon.co.jp



毎度御馴染み、宗教学者のひろさちやさんの本です。


「やまと教」


とは、聞きなれない言葉ですね。


この言葉は、日本人が縄文のはるか昔から、精神性の中に培ってきた
素朴な信仰を、国家神道、神社神道の権威と分けて考えるために、
ひろさちやさんが生み出した言葉ですが、どことなくほっこりする名称
だと私は思いました。


そもそも、私たちは日本人でありながら、日本の土着宗教である


「神道」


のことを、あんまり正しくは知らないのではないでしょうか。


昨今のパワースポットブーム、江原啓之ブーム、スピリチュアルブームを
見るとどうも、それらを読み解く重大なキーワードの一つは


「神社神道」


である、というのは、オカルト批評家のわしにもわかるんだすが。


しかし、神道の文献というのは、なかなかに系統立てて読書を
するのが難しいジャンルなのでござーす。。。


仏教やキリスト教、イスラームは、きちんとした聖典・共通認識と
しての歴史的記録があるので、どんな本から入っても学習には
だいたいの筋道がきちんとできる。


仏教の歴史、キリスト教の歴史、イスラームの歴史というのがしっかり存在しています。


翻って、日本人の精神の根幹を成しているであろう神道ですが、これにも
一応は、施政者が残した公式文献が、あることはあるのですが・・・・・・。


それが、みなさんおなじみの


「古事記」


「日本書紀」


「延喜式」


といった文献ですね。


確かにわしは中学生の頃、日本史の授業で、古事記や日本書紀が、
朝廷の公式記録であると習ったような気がします。


しかし。


実はこれらの文献が果たして、本当に私たちの遠い父母が拠り所にしていた
やまとの国の宗教なのかというと、実に疑わしいとひろさちやさんは言うのです。


日本の神々の歴史は、考えてみれば、やまと民族が文字を持たなかった大昔、
紀元前のはるか昔の、縄文時代から今に通じてきているわけですね。


古事記、日本書紀といった書物は、大和朝廷成立後に、地方豪族や家ごとに
伝えられていた口伝、神話、民話を、天皇家の支配の正当性への根拠に利用
するために「糊と鋏」で切り貼りされた、作られた文献です。


だから、それらの書物に出てくる神々、物語は


「天皇家の神道」


をあらわすものに過ぎないと、ひろさちやさんはおっしゃるのです。


それゆえ、実は神道には明確な教義、聖典と呼べるものは無く、
だからこそ戦争の際、国家神道として、いいように利用されてしまった。


神社庁からして、神道の教義を決めきれていないのです。  

                                                    

教義が無いからこそ、仏教と混交しなければ成り立たなかったし、
教義が無いからこそ、後の教派神道にも繋がっていって、今日の


「トンでもスピリチュアル」


を生み出す元になってしまっている。果ては陰陽と結びつき、
占いを肯定する理論にも使われてしまっている。


天皇の重大な仕事、というのは、今の日本人にはピンと来ないかも
知れませんが、実は


「祭祀」


なんです。


神様をお奉りする大神官、それが天皇の仕事の、大きな柱の一つ。


それは近・現代においても脈々と受け継がれており、我々があんまり
知らないところで天皇陛下とそのご一族様は、神武天皇以下歴代
天皇のご命日には祭礼を執り行い、天照大神をお奉りしているわけです。


実は、昨今若い女性に大ブームの


「パワースポット神社めぐり」


は、国家神道、天皇家の神道の神々を奉った神社が中心になっていますが、
ひろさちやさん曰く、


「それは本当の、庶民信仰ではなくて、押し付けられた権力者の神道」


であると、本書の中で断じておられます。


そして、日本書紀にも古事記にも登場しない、素朴な素朴な


「かまどの神様(荒神様)」


や、


「道祖神」


「亥の子神」


などが、昔々の大昔から、本当に日本民族が大切にしてきた神様なのであって、
それらは生活に密着した神様、ということなんだそうな。


古事記には、


「高天原(たかまがはら)」


というところが出てきて、そこに一番尊い神様である


「天照大神」


がおられるわけですが、その天照大神の孫にあたるニニギノミコト(文字変換できん・・・)
が、天照大神から統治を命ぜられたのが


「葦原中津国(あしはらのなかつくに)」


ですね。これは日本列島(主に本州と四国、淡路島、九州)を示しているんですけども。


このニニギノミコトの子孫に当たるのが、天皇家の始祖である


「神武天皇」


になるわけです。だから、ここら辺の古事記のエピソードをまとめて、


「天孫降臨伝説」


といったりします。その神武天皇のご先祖様、ニニギノミコト
が降り立った葦原中津国は、もっとも位の高い天照大神の真下、
直系であり、とりもなおさず天皇家を暗示しているんですね。


んで、葦原中津国よりももっと下、有象無象がうごめく冥界のような
描写で古事記に描かれているのが


「根の堅州国(ねのかたすくに)」


で、ここは天照の弟、高天原を追放されたロクデナシの暴れん坊


「スサノオノミコト」


が統治する国なんですが、これが天皇家に支配される地方豪族を
暗示しているわけです。


地方豪族は、中央の朝廷より野蛮人だということで、乱暴者の
スサノオが治めている国であるとされているんですね。


だから本来、我々天皇家以外の者が、高天原を統べる神々にお願いごとなど
するのは、とんでもなくおこがましいことなんです。


元来、神道の神々というのは


「願いを叶えてくださる都合のいい神様」


ではないんです。恐れ敬い、かしこまって、謙らなければ
ならない存在なんですね。


なにせ天皇のご先祖様たちなんですから。


高天原におわします神々がお決めになったことならば、どんなに不満足な
ことでも受け取って、感謝しなければなりません。


我々は、一般庶民なのです。


お上のなさることに庶民が口出しできないのと同じで、
受け取ったものがたとえ災難だったとしてもなお、神々に
感謝するのが本当の


「かんながらの道」


だと、ひろさちやさんは本書で語っています。


だから、今のパワースポットブームで、古事記にあるような神々を
祭る神社へ行って、開運だの縁結びだのをお願いするのは、おかしいのです。


さらに言うと、実は神社には、神様が常駐しているわけではありません。


それが教義曖昧な神社神道、国家神道のおかげで、好き勝手な解釈が
どんどん取り入れられて、太平洋戦争以降いつの間にか、


「神社には神様がいる」


のが、当たり前となってしまった。


神様は神社に常駐なんかしていないのです。お社はあくまでも、
お祭りのときに、神様にお泊りいただく


「旅籠」


みたいなものなんだそうな。


これは、伝統的な例大祭や新嘗祭などを見物すると、よくわかります。


神官はお祭りの日の前日、夕方、体を清めて、山や海、川などに
行き、神様をお迎えする儀式を執り行いますね。


そして、松明やお神輿、ご神体に神様を移したら、それをお宮に祀る。


んで、お祭りが済むと再び海山川に神官が神様をお連れして、
お送りし、帰っていただくわけです。


なんで帰っていただくかと言うと、日本人にとって、神様は


「お接待しなければならないVIP」


だからですね。


高貴な存在なのだから、ご馳走を並べて舞い踊り、お接待をして、
神様に気持ちよくなっていただく。


そんな高貴な方にずーーーっと居られたら、庶民は窮屈でたまらない。


毎日お接待なんかできません。


だから、お祭りの間だけ「ご招待」しているんです。


それなのに最近は、箱根神社にはいつも箱根大権現がいらっしゃると
思って、パワースポット巡りをしたりするので、おかしなことになっている。


365日、伊勢神宮には天照大神様がいらっしゃると、若い女性は
勘違いしている。


そうじゃなくて「天津神々」はみんな、普段は「高天原」で暮して
いるのです。毎日いつでも365日、神社に行けば神様にお会いできる
という風潮になったのは、明らかに天皇家から来ている国家神道の
悪影響だと、ひろさちやさんは著書の中で語っています。


神社には、ご神体として鏡が置かれていますが、あれは、神様が
宿るよりしろなのではなくて、自分の心を映す鏡、自分を見つめる鏡、
という意味なんだそうです。


神道では、人の


「ココロ」


も、神なんですね。


キリスト教も仏教もイスラム教も、人間のココロが持つ生まれながらの


「神性」


というのは、認めている。


キリスト教では、生まれながらに備わった良心・良識は、


「神がご自分の姿に似せて、人間をお作りになられた」


という、旧約聖書の創世記にある記述により、認めています。

人のココロは、神の表れ、神様と通じるパイプなんですね。


仏教でも、それを


「仏性」


と呼んでいますし、イスラームでは


「真如」


と言う。


日本人が古来、奉ってきた神道では、もっとダイレクトに、
ココロもまたカミサマなわけで。


江戸時代の国学者、本居宣長の定義によれば、日本人の言う神とは、


「さておよそ迦微(神)とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、
それを祀る社にまします御霊をも申し、また人はさらにもいはず、鳥獣草木
のたぐひ海山など、そのほか何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、
可畏き物を迦微(神)と云うなり」(本書117ページ引用)


ということなんだそうです。


要するに均衡を大きく欠いた物や、平均値から大きく外れているものは、それが


「荒ぶる状態」


「他を傷つけるようなもの」


でも、神さまである、ということです。


だから日本では、尋常ならざる才能を現し、功績を残した人も、


「神」


になる。


菅原道真は天神様として祀られていますし、徳川家康は没後、
東照大権現として日光東照宮に祀られています。日露戦争を
戦った東郷平八郎元帥も、東郷神社にお祭りされていますよね。


尋常ならざる精神状態のことも、


「神がかり」


とか、


「○○憑き」


などと言って、一種畏敬の念で日本人は眺めます。


怒りに取り付かれ、何万回も無言電話をするような人が、
世間にはいたりするわけですが、本居宣長の定義によれば、そういうのも


「神の表れ」


「荒ぶる神」


ということですね。


でも、この、


「尋常ならざる精神状態もまた、神」


というのは、私個人の体験と照らし合わせても、実に頷けます。


私は小説を描きますが、夢中で描いているといつ完成したのか、
本人も覚えていないのです。


いつのまにか、そこにあったとしか言えない状況になります。


それはもう、本当に不思議なエネルギーなんです。


それ以外にも人は、何か激しい怒りを抱えていたり、
怨みを持ったりしたとき、それをバネにして偉業を成し遂げる
ことがあります。


本物の怒り、本物の悲しみは、大きなことを成し遂げる
ためには必要な要素なのかも知れません。


バカも大きく逸脱した「超バカ」にまでなれれば、それは
カミですから、やまと民族は畏敬の念を抱くのです。


中途半端な嫌がらせとか、中途半端な怒り、悲しみ、
おふざけでは、カミになれないんです。


やるならとことん、人々が畏れの念を抱くほどに徹底的に行う。


それが、


「カミになれる唯一の方法」


であり、本当の


「開運」


なんですね。自分の生きる道を切り開くというのは、本来は
そういうことなんです。生半可な心的パワーではないんです。


だから人は、何がしか成し遂げたいと思ったときに、


「神がかり」


になろうとする。


そしてそれは


「尋常でない状態」


「平均値を大きく外れた状態」


で得られるものなので、激しい怒りや、激しい悲しみ、どうにもならない
痛烈な風刺、笑うしかないような極限状態、ということになります。


パワースポットへ行くということは、そういう、


「尋常ならざる状態」


に、自分を持って行くことに他なりません。


だから、パワースポットの神社を前にして、穏やかで平凡な
幸せを祈るなどあり得ないんですね。



(その②に続く)

人気ブログランキングへ