原作ファンとして、“ポーの一族”の世界感を表現するために、演出上苦労しただろうなぁと思ったところがいくつかありました。スミマセン。ファンなので上から目線です![]()
知り得ぬ謎が矛盾にみえるところ
原作を読んだ方なら分かると思いますが、“ポーの一族”は時系列に物語が進む訳ではありません。さまざまな年代の作品が順不同に発表されているので、例えば、第1巻ではエドガーは既にパンパネラで、第2巻で初めてエドガーの生い立ちや一族に加わる経緯がわかる、そんな過去と未来が絡み合う構成になっているのです。
だから、読み進めることによって、エドガーの辿った形跡が明らかになり、謎が解けていく、だけどそれが新たな謎を生む…そこが魅力でもあるのです。
でも、舞台だと、簡単に行きつ戻りつという訳にはいかないので、時系列通りに分かりやすく、物語が進みます。
すると、パズルのピースを探すように、“まだ分からないstoryを想像で埋める”必要な無くなるので、“知り得ぬ謎” が、単なる矛盾に感じられしまうのです。
例えば、老ハンナポーは不老不死のはずなのに何故年老いているの?とか、無理やり新しい“仲間”を一族に引き入れて上手くいくの?とか。それは仕方がなかったと思います。
逆に、舞台化によって、一つのstoryとして滑らかにつながったために、エドガーの過酷な運命と哀しみがより際立ったと思いました。
エドガーは本来、ジャマな愛人の子として殺されるはずだった。
老ハンナポーに発見されなければ、森に捨てられて死んでいた。
老ハンナポーがエドガーを大切に育てたのは、いずれ大人になったら仲間に引き入れようとしたためだった。秘密を知られたからではない。
つまり、どう転んでも、エドガーは死ぬか、パンパネラになるしか道がなかったということなんだって…切ないですね。
ディスニー映画のように勧善懲悪でないところ
観劇して思ったのです。鳳月杏さんが演じた医師クロフォードが、純朴でけっこう良い人だったと。シーラを殺し、メリーベルを消滅させ、エドガーから家族を奪った張本人だけど、シーラは仲間に引き入れようと狙っていたわけだし、見方によっては、正当防衛ですよね。
以前、“アナと雪の女王”と“美女と野獣”の映画を観て思ったのです。
ヒロインに優しく愛を語っていた男が、求婚を拒まれたとたん、突然、恐ろしいモンスターに豹変してヒロインを徹底的に追い詰めるのは何故って。もう用済み、利用価値がない女と、放っておけばよいだけなのにって。でも、だからこそ、ハラハラどきどき、ヒロインに感情移入して応援したくなる。
きっと、今回の公演も、クロフォードをエドガーたちを執拗に追い詰める、‘’悪い奴‘’にした方がスッキリ分かりやすかったと思います。婚約者を蔑ろにし、町中の女を騙し、シーラを我がものにしようとする嫌な男。
でも、それではポーの一族の世界感が薄れて、勧善懲悪のディスニー映画になってしまう。
萩尾望都の描く世界では、悪い奴ほど取るに足らない小物の時が多いのですよね。人間の弱さや狡さが悪を引き起こすという考えからだと思います。
おそらく、クロフォード役の鳳月杏さんが、想像以上にステキでカッコ良かったため、目指す‘’小悪党感‘’が滲み出なかった…そう推測しています。
…ちなみに私はちなつ様のファンです♡ “金色の砂漠”の王の時も思ったのですが、たとえ悪役をやっていてもなぜか、不器用で人は騙さない感じなんですよね。
マザーグーズの残酷さが生かせなかったところ
劇中、エドガーがメリーベルに水車を作る話しはあったけど、できれば、マザーグーズの逸話を入れてほしかったと思いました。ハンプティ・ダンプティとか。
童話やわらべ歌って、子ども向けに見えて残酷なものが多いですよね。
高校生の頃ね。マザーグーズの残酷さと美しさがポーの一族にピッタリで、熱狂した記憶があるのです。
“極上の美 底知れぬ恐怖♪” って…
まさに“マザーグーズとポーの一族”の世界だったと思います。
ポーの一族”のヒロインは、やっぱりメリーベルであるべきですよね。今回、トップ娘役がシーラを演じたことによって、エドガーとメリーベル、2人の絆を表すエピソードが、随分割愛されてしまった気がします。