俳句をどう読むかをしばらく断続的に考えます。下の図の「今」から下は言葉の土台ともいうべき文化です。「今」はたとえばボクのいる現在。この「今」に立って読みたい。「今」の下(文化)はあまり考えないで、575の言葉の関係を重視して読もう。と先日の「窓の会」の集いで提案しました。

 「タコだけが夏の扉を開けられる」(おおさわほてる)は「窓の会」句会ライブの話題作ですが、タコとはなにか。蛸でしょうか。では、どうして蛸と書かずタコと書いたのでしょうか。「夏の扉」とはどういうこと? 松田聖子の歌にあったような。ねんてんに「梅雨入りが近いか威張って蛸歩く」があるけど、なんとなく似てるような。季語が2つある点はたしか共通しているなあ。芭蕉の明石の蛸も連想できる。もしかしたら、タコってタコ親爺かも。フーテンの寅さんに出る親爺さん。それにしてもタコと夏の扉の取り合わせが分かりにくいなあ。……以上のように読んで、さて、この句はどうでしょうか。「夏の扉」がとっても抽象的というか具体的なイメージを喚起しにない気がします(これはボクの意見)。
 ところで、蛸は夏の季語になっているけど、季語にする必要はあるでしょうか。芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」では蛸は季語として意識されていないかも。先のねんてんの句も「梅雨入り」が季語。蛸は季語から解き放してもいいかも。解き放すと、蛸、喜んで蛸踊りをしそう。
 今日は読みの一例を示しました。