「春深く腐りし蜜柑好みけり」。子規の句です。

 腐った蜜柑は甘みが変質してうまくないです。とわたしは思うのですが、子規は腐った蜜柑を好むと言います。熱っぽい身体に腐った蜜柑が合っているのでしょうか。「墨汁一滴」にあるこの句には、「毎日の発熱毎日の蜜柑此頃の蜜柑は稍(やや)腐りたるが旨き」と前書きがあります。やや腐った蜜柑は晩春の熱っぽい子規の相棒なのです。この相棒感覚が写生を説く子規のまなざしにあります。

 「ひねくり者ありふくべ屋椿とぞ呼べる」。これも同じ日の記事中にある句です。「隣医瓢を花活に造り椿を活けて贈り来る滑稽の人なり」という前書きがありますが、隣に住む医者のふるまいに「ふくべ屋椿」という楽しい雅号を贈って応えたのです。隣医のふるまいに和した行動にやはり相棒感覚を感じますよね。隣医のふるまいを一歩前に進めたというか、互いの関係を深めて展開しています。

 相互に高め合う相棒関係、それを人や物と持っていたのが子規でした。その関係が「墨汁一滴」という病人の悲惨な日記を楽しく生き生きとさせています。

   写真は好きなカフェ「道草」の入り口です。