このところ、石川啄木を読んでいます。彼は27歳で亡くなっていますが、亡くなる前年に作った「家」という詩が好きです。
今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗うr間もそのことをそこはかとなく思いしが、
つとめ先より一日の仕事を了えて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る―
はかなくもまたかなしくも。
この詩、6連からなりますが、以下ではその「わが家と呼ぶべき家」を空想します。
場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはずれに選びてん。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構え、
高からずとも、み井さてはまた何の飾りのなくとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。
この「すわり心地のよき椅子」がいいなあ。庭の大樹の下にも白い椅子を置き、その椅子では洋書を読んだりタバコを喫んだりするのです。時には村の子どもをその椅子のまわりに集めていろんな話もします。
このような「わが家」を求めた啄木が、いわゆる草庵を志向した芭蕉を、風流人ぶっている、と批判した気持ちは分かる気がします。もっとも、芭蕉は芭蕉でやはり「わが家」を求め続けた人でした。「わが家」を求め続けた点では二人はとても近いです。(4月16日)