サイゼリヤ(閉店)

サイゼリヤ(閉店)

グラスワイン100円

Amebaでブログを始めよう!

・JavaScript

~前回までのあらすじ~

四女神オンラインのネタバレ感想を書くために「続きを読む」機能を使おうと思ったのだが、アメーバブログに「続きを読む」機能はサポートされていないため、ユーザーが自分で実装しなければならないらしい。

適当なサイトの方法を試してみたがうまく行かなかったので、俺は自分で勉強することにして、図書館から

を借りてきたのだった。

 

タプリスもやってたしちょうどJAVAを勉強したかったところだったんだよね~と思ったら、JAVAとJavaScriptは完全な別物らしい(同じだと思ってた)。

 

さて、俺は一応理系だしプログラミングを学ぶことは(稀に)あるのだが、プログラミングというのはメガネのオタクの領域だけあって内容に際限がなく、合目的的な意識を持たなければすぐに泥沼にハマってしまう。

 

いくら俺の頭がいいとは言っても技術書を一読しただけでその本の知識で作れるプログラムが全て淀みなく書けるわけではない。実際にその段階に至るためには実機を動かしていかなければならないのだが、それは大抵時間の無駄である。

俺は職業プログラマーでは無ければ、普段からプログラミングをする趣味もないので、細かい文法など一瞬で忘れてしまう。いつか忘れる上に忘れるまでに使わないことを覚えるほど無駄なことはないわけで、この辺りをはき違えると膨大な時間をドブに捨てることになる。

 

プログラミングに限らず、頭の中に全てをインプットする必要はなく、精々欲しいときに引き出せれば十分という知識は多い。昔の俺は天才だったので全ての知識を頭に叩き込めたが、最近は加齢による記憶系機能の低下が著しく、いちいち選別していかなければすぐに容量が足りなくなってしまう。老いに適応せよ。

ちなみに俺が最初に独学したのはC言語で、そのときは結構な時間を無駄にしたような気もするが、入り口の学習はそのくらいが丁度いいのかもしれない。

 

こういうケースで俺が得るべきだと考える知識は以下の三点である。

 

1.辞書の引き方

2.(テクノロジーなどの)抽象的な理解

3.単語に親しむ

 

1.辞書の引き方

「無知」という状態には2パターンあり、何を知ればいいのか自体がわからない状態と、何を知ればいいのかはわかっている状態がある。

 

例えば、テレビの映りが悪くなった場合、大抵の人はテレビの原理など知らないので、症状を診たところで原理的に正しい直し方がわかることはない。それでもまずは取説を見て、次に企業に問い合わせるとか、解決するための手順は知っている。手順を知らなければ、いきなり電気店に行ってテレビを買い替える羽目になるかもしれない。

 

そんな風に、

「『何を知らないか』を知らないので『何をすればいいのか』わからない」

から

「『何を知らないか』を知っているので『何をすればいいのか』はわかる」

にさえなれば、検索機能が充実した現代社会では十分なことが多い。

 

特にプログラミングはそもそもが何かを実現するための手段であるため、ほとんどの知識に目的を対応させることができる。

今回、Webブラウザ上で通信などを含めて動作するプログラムは初めて知ったので、この先Webブラウザ上で動作する何か(いむドラオンラインとか)を作りたいなあ~と思った時は、またJavaScriptの本を借りてきて、目的の知識があるページを捲ればいいわけだ。

 

2.(テクノロジーなどの)抽象的な理解

インタプリタ型とコンパイル型の違いとか、オブジェクト指向の目的とは……みたいな類のやつ。

こういう抽象的な知識は持っておいて損しない気がする。色々な領域で使われるので(この言語は大文字小文字の区別をするかなどという知識と比べて)費用対効果がいいというのもあるし、内容を保持しておくと流用が効く。

 

抽象化された概念は縦横無尽に流用できる。δ-ε論法はプラグマティズムと結び付くし、今回学んだ中では、HTMLとCSSの関係は記号学の所記と能記の関係に似ていると思った(CSS自体がHTMLを意味するわけではないので、正確にはCSSは所記と能記の関係性の記述に近い)。

「なんだか面白い」というだけでも十分なのだが、ある問題を別の構造からの類推で解決できればなおよい。

 

3.単語に親しむ

どちらかというと個別的な知識なのだが、固有名詞は覚えておくと捗ることが多い(それっぽい単語としては、今回はAjaxやDOMも覚えた)。実用的には自分で説明できればベストだが、「なんか知っている言葉だぞ」というくらいでも十分な気がする。フックは多い方がいい。

 

例えば、一昨日りっぷるが技術関係の記事を書いていたが、

http://ripplegashi.hatenablog.com/entry/2017/04/07/162651

今回JavaScriptの勉強をして「ブックマークレート」という単語を知ったおかげで理解できた(一週間前なら「なんかよくわかんねーこと書いてるな」で終わった)。

 

で、

JavaScriptの勉強を終わらせていざ元のコードに立ち向かったのだが、やっぱり動かない。

色々調べていると、先々月にフリープラグインの機能自体が無効化されていることがわかった。

http://ameblo.jp/staff/entry-12247397187.html

 

もうどうにもならないことがわかったので、Livedoorブログに移転することにする。

しかし、アメーバブログからの引っ越しに対応していない。記事数は大したことがないので手動で移してもいいのだが、FC2ブログ移転を経由してLivedoorブログに行く方法を取ろうとしたら、今度は認証エラーが出る。アメーバブログの設定変更をしてから2日くらいはうまく移転できないらしく、今それを待っている状態。

3日待って駄目なら手動で移転しようと思う。

 

・続き/作品内の自由意志について

次回でいいですか?

 

・アポカリプスの砦

ゾンビものなんだけど、どっかで見た設定のオンパレードでオリジナリティがほとんどない。「それっぽい展開」をやるために整合性を捨てていることが多く、浅すぎて面白かった。

特に吉岡くん、君A-BOUTにもいたよね?

・フレームアームズガール

この服ヤバすぎませんか?

ただでさえ女性主人公は採点が100点スタートなのに、パーカーと腋で開幕無限。将来アニメ作るとき絶対これ普段着のキャラ作る。

 

TwitterでもちょろっとRTされてたけど、ほぼ同バックグラウンド・同内容の武装神姫ではプロモデルヒロインズに主人公が男オタクだったのに対して、フレームアームズガールは非オタク美少女を合わせてきていて、時代の進歩を感じる(企画として関わりがあるのかは知らないが、同じような題材だし認識していないことは無いだろう)。

 

男性主人公の女性主人公への置換については、主にそれが生じる不協和について前に二式で取り上げたことがある。

http://lwlwlwlwlw2.seesaa.net/article/427221097.html

フレームアームズガールは「マスター系複数ヒロインもの」の美少女置換と言えそうだが、このタイプの作品はファンタジスタドール、アンジュヴィエルジュ、(1マスター1ヒロイン性だが)ウィクロスなど、最近のアニメでもそこそこの数がある。

このジャンルで主人公を美少女で置き換えた際にも(突っ込んだ恋愛などをしない限りは)重大な不協和は生じないものの、比較的異性性が重要なジャンルなので、どちらかといえばラジカルな変換のうちに入ると思う。

アオちゃんは女性主人公としては理想形に近くて、かつてこの位置に挿入されていた男性主人公と比べたときに~っていうのを書こうと思ったんだけど、ハーレムっぽい男性主人公ものは基本的に見ない(引き合いに出しやすいテンプレ作品は特に)ので何も書けない。

 

あと、アニメ内でのAIとキャラにとっての自由意志とは~みたいなことを考えたけど、多分長くなるので次回以降に書く。

 

・ひなこのーと

腋あり!

 

要手帳キャラ多すぎないか。「いやそれはガイジだろ」みたいな動きで笑いを取っていくのって、ある意味ではボケ倒しの極致?

特に泉こなたみたいなやつが紙パクパクで既に手遅れなのに「鴨は食べない」とか意味不明な食い下がりをしているのが一番面白かった。

 

そういう異常性でキャラを定義する「持ちネタ」(単に「キャラ」ともいう)には

 

1.キャラ内部の性格や癖に起因して説明可能な範疇で起きる神経症的なもの(例:ひなこのカカシ化)

2.キャラ外部から(時には作品外から)の事情に起因して説明不能に起きる神懸かり的なもの(例:あんハピ勢のアンラッキー)

 

の二種類があって、傾向としては後者の方が面白くないことが多い(ひなこのーとの皆さんの持ちネタは概ね前者に分類)。

あと目を逸らすときに何故か両目を左右に逸らしていったり、細かいところで頑張っているのは良かった。暇になるタイプの日常系と暇にならないタイプの日常系では圧倒的に後者が好きなのでこれからもやっていってほしい。

 

・サクラクエスト

 

腋、なくもない。 

 

宮森の2Pカラー、基本的には常識人っぽい感じだけど、契約書読まんし夜逃げするしバスでゴネるしジジイ殴るしでスラム育ちみたいなムーブ(スラムーブ)が多い。

でも可愛いんだよね~。

大抵アニメーターによるアニメ画ってイラストレーターによる一枚イラストには劣る(枚数が1000倍くらい違うし動かすんだからしょうがない)んだけど、どこで止めても「いけるやん」ってなるアニメがたまにあって、サクラクエストもその一つに入る。関口可奈味とかいう人がキャラデザらしいけど、アニメーターとかの影響もあるのか?(よく知らない)

キャラが強いっていうのは本当に強くて、キャラが強い=キャラが画面に映っているだけで加点=自動加点=無限点って感じなのにテンポもいいから無敵。

 

そういえば、SHIROBAKOの頃は女性主人公アニメがたくさんあった時期で、それから何期か女性主人公減って「ブーム終わったか?」と思ったんだけど、前期あたりからどんどん盛り返してきている。一過性のブームが起こっているというよりは、特に誰も意識していない中で波みたいに確率的に寄せては返しているだけなのかもしれない。

 

・メイドラゴン最終話

最終話は消化試合だからあんまり言うことがないんだけど、今までそういう設定は特になかったのに唐突な「私はお前だ」で葛藤をやるのって流石に陳腐すぎませんか……

・続き/意図について

話がこんがらがったので、それを整理するところから入ろう。

前回の話題を分解すると、以下の三つである。

 

テーマA:フィクションの「意図」

 <目的:フィクションに関わる「意図」という概念を整理してみたい>

トピックB:虚構の自律性

 <要約:物語世界にはどの程度独立しているかという自律性を設定できる>

トピックC:情報理論における信号伝達モデル

 <要約:情報理論では符号化を経由して情報を伝達する>

 

まずはあまり関係なさそうなトピックCの話を何故したのかというところから入る。

信号伝達モデルの例で伝えたかったのは、情報が符号に符号化(エンコード)され、復号化(デコード)されることで再び情報に戻るという伝達過程の構造である。

これをフィクションに適用すると、「情報」が「世界」、「符号」が「メディア」となる。つまり、世界がエンコードによってメディアとなり、デコードによって再び世界に戻る。

SHIROBAKOで言うと、武蔵野アニメーションの世界系がどこか別次元に実際に存在していて、それはエンコードされて現実世界系でアニメとなり、視聴者の頭の中(脳内世界系)で再びデコードされることで武蔵野アニメーション世界を再構成する。

 

これをフィクションを消費する際の一般的モデルとして提示したい。

このモデルは虚構の自律性を最大に設定しなければ成り立たない(武蔵野アニメーション世界が実際にあると考えなければそもそもエンコードのしようがない)ため、その前提を仮定するという意味で昨日はまずトピックBの話をしたのだった。

 

※補足:これは虚構の自律性が高い場合にしか適用できないモデルだと思っていたが、逆向きのパラメタを導入することで自律性が低い場合も繰り込めることに今気付いたので、この話は後半にする。

 

※理系向け補足:物語世界をx、現実メディアをy、脳内世界をz、エンコードをf、デコードをgとすると、y=f(x)、z=g(y)である。理想的にはz=xかつfとgは逆関数(f=g^-1)であることが望ましいが、実際にはfとgは単射でなければ全射ですらなく、一般に多価関数が想定される……的な話を二式ではするつもりだった(ので、符号化の任意性を強調していた)。今回はそこまで厳密な話ではなく、構造さえ取れれば十分なので、二式の没記事を引っ張ってきたのはやりすぎだったような気もしている。

 

これでようやく「意図」の話に入れる。

このモデルを使うと、意図が混入する場所を整理できる。話を始めるにあたって、上に書いた図を再編してみよう。

1~4が意図が混入しうる箇所であり、これらについて順番に説明していく。

1がエンコード、2がデコードを示すのは書いた通りで、3と4については後述するが、3は自律性、4はゲームに関連が深い。それぞれへの「意図の流入度」が独立に値を取って意図の全体マップを形成することになる。

また、このモデルでのメディアはアニメに限らず漫画や小説でも可能であって、そういったメディア形式も意図の混入に関わりが深いので、適宜言及していく。

 

1.物語世界→メディア

エンコード過程に混入する意図であり、この段階の意図は「世界の切り取りの恣意性」と言い換えられる。

既に存在する物語世界を全て再現することは現実的に不可能なので、メディアの形式に応じて適当な場所を切り取ってコンテンツに仕立て上げるわけだ。主にアニメでいくつか例を挙げてみる。

 

A.時空間的切り取り

一番単純なもので、切り取ってくる時間や空間を選択する。

宮森がトイレをしている時間はアニメにならないし、トイレをしている個室内もアニメにならない。

 

B.五感的切り取り

視聴覚、画面や音を選択的に切り取ってくる。

シリアスな街中のシーンで近くにいるどうでもいいモブがどうでもいいことを喋っていたとしても、わざわざ画面に映したり会話を拾ってやることはない。この五感には触覚や嗅覚が入ってきてもよく、4DXはこれを実現したものである。

 

C.演出的切り取り

集中線や字幕など、実際の物語世界には存在しないにも関わらずメディアで付けられた要素。意図の反映という意味では上に挙げたものと同種なので含めたが、切り取りというよりは付加と言った方が近い。

 

多分まだまだあると思うが、網羅するのは難しそうだし、コンセプトがわかればよいのでこのくらいでいい。あくまでもエンコード過程の意図の流入方式を考えるのが目的なので、このあたりの細かい演出手法はサンプルでしかない。

 

2.メディア→脳内世界

デコード過程。メディアを見た消費者がそれを脳内に取り込む際の恣意性を指す。

最も単純には、世界内の色々な要素の物理的な配置などがこれである。例えば部屋の中の様子がどうなっているかなど。アニメでは映像が提供されるのでそのまま受け取れるが、小説であればいちいち描写されない机の様子やドアの形などについては消費者が適宜脳内で補完することになる(部屋の様子などいちいち考えない人の方が多いだろうが、物語世界が実在するという立場を取った以上、「補完しようと思えばできる部分」と言うのが適切だろう)。

 

また、ここに入る「解釈」というのは厳密には「マンダムはザワールドに勝てるのか」という作中の設定系統の解釈に限られる。「この描写は○○へのメタファーで~」というような「作者の気持ち」系の解釈については、1か3で挙げるような段階の意図をモデルとは別の次元で考えているというのが正しい。

 

3.メディア→物語世界

メディアからの要請によって物語世界が定義される部分のこと。

一般的には「作者の意図」と言われる部分がここに分類され、「ツンデレはウケがいいから配置しとこ」「成長がテーマなので主人公を勝たせよう」というような干渉はここに入れることができる。この部分の意図性が上がると虚構の自律性は下がるという対応関係にあり、意図性が最大のとき自律性は最小となる。このとき、「自律性が最小の物語世界」は「メディア側の意図によって物語世界の全てが構成されている世界」と言い換えることができる。

 

また、これはメディアの制約によって便宜的に規定される部分も大きい。

例えば、漫画の週刊連載では毎週ごと(19ページごと)に次週へのヒキを作らなければならないため、長い溜めが必要な展開は「ヒキが作れない」という理由だけで回避されるということもあるだろう。

一方、ポジティブに利用する例としては、小説の叙述トリックがある。

俺の好きな小説で「ヴィクトリア」というキャラが洋服の「カーディカン(カーディガン)」からKを抜き取って「ヴィクトリア」に取り込むことで「ヴィクトリカ」になり、Kが削除されたことに伴って「カーディカン」は兵器の「ガーディアン」になるという馬鹿みたいな設定がある(そういうギミックが仕込まれた服という意味ではなく、ただ文字を操作するとそうなるというだけの理由でそうなる)が、この類のもの。

これは「メディア形式を利用してなんか面白いことができるからやろう」というような意図があったという意味で、メディアが物語世界を規定したと言える。

 

4.脳内世界→メディア

消費者からメディアへの干渉であり、ゲーム的干渉を指す(映画や小説には基本的に存在しない)。

二式でも書いたが、ゲームは双方向のアクセスが可能という点で特異なメディアであり、消費者の意図に応じてボタンやキーをインターフェイスとしてメディア内部の様子を変容させることができる。

 

同じ話をしてもつまらないので、今回の話を応用してバーチャルリアリティの話をしてみよう。HMD(ヘッドマウントディスプレイ、PSVRとかで頭にかぶるあの装置のこと)のメディア性というのは、他のメディアと比べて若干独特である。三次元的な物語世界が三次元のままメディア上に再現されるため、物理的な切り取り(1.物語世界→メディアの例Aで指摘した時空間的切り取り)が存在していない。

よって、1の意味での意図混入が非常に薄く、ほぼほぼメディアが物語世界それ自体であると言ってもいい(厳密には物語世界をデータ上で再現しただけなのだが、感じ方としてはそうなる)。このような状況では、消費者からメディアへの干渉が相対的に非常に強くなる。

 

例えば、視覚的な制約について例を挙げてみよう。HMDを使ったゲームでプレイヤーが最も自由に振る舞えるとき、プレイヤーがイベントシーンを見ないことが有り得る。目の前でヒロインが事故にあって大怪我をする重大なシーンだったとしても、なんか右にある看板とかを見てて気づかなかったということが許容される。通常のゲームならば視点を固定するなり、そもそもイベントシーンは動画で済ますなりができるのだが、バーチャルリアリティの自由度を確保しようとするとそうもいかない。

モデル上では、1の意図が大きく下がり、代わりに4の意図が大きくなった結果、最初の物語世界と最終的な脳内世界の間に大きなギャップが生じるという構図である(なお、この場合でも3の意図は影響を受けていない。悲恋ものをやりたいからヒロインが事故にあう物語世界を構成すること自体はHMD上でも依然として可能だということが、意図を整理したおかげでわかりやすくなっている)。

 

 

※補足:2で少し触れたが、一般的に使われる「意図」という言葉でも「作者の気持ち」系の解釈などは、モデル内の「2の意味での意図」を意図するということで一段メタな位置、モデル外部からの干渉である。

よってモデル自体の適用範囲からは外れるが、今やってみせたように、モデルを利用してその構造を把握するのは容易である。

・続き/お仕事シリーズ

SHIROBAKOは最初から最後まで見たが、花咲くいろはは二話で見るのをやめてしまった(テポドンみたいなセリフの辺りは面白そうなのでそれが出るまで頑張って見ればよかったと思ってはいる)。花咲くいろはとSHIROBAKOの違いみたいなことを話そうとすると、見ていないアニメを推測で語るエアプになってしまうので、この話はここで切って、「全然関係ないけど」という前置きをしなければならない。

 

例えば、アニメ内で描写される人間関係が手段か目的かということを考えるときに、最も単純にはストーリーラインを見ることがある。SHIROBAKOの場合はアニメ製作という大目標がまずあって、人間関係を築くことはそれを実現するための手段である。

一方、朝ドラみたいなシリアス寄りのコメディ?(コメディっていう単語、原義では「喜劇」だけど、実際には「明確な目標がなく、テーマよりもアドリブ寄りのジャズ的な作品」くらいの意味で使うことが多い気がする)では、大目標が無いという意味で人間関係の描写が目的だと言うことはできる。

 

のだが、これはかなり恣意的な判断で、SHIROBAKOを「人間関係を描くためのアニメで、たまたまアニメ製作という題材が選ばれている」と見るのは可能だ。実際にどう意図して作られているかはインタビューすればわかるかもしれないが、それは一つの立場に過ぎないし、少なくとも視聴者としてそう意図してみれば解釈としてはそういうことになる。

 

今「作品の目標」について二つのレベルが混在しているわけで、一つにはストーリー構造として比較的システマチックに見られる部分、もう一つには作者や視聴者の「意図的なもの」が介入した部分ということになる。

 

今この文章はめっちゃ適当にアドリブで書いてるけど、なんか普段から適当に使っている「意図」という概念をそろそろきちんと整理しなければならないな……と思い立って今日(4/5)はもう眠いので寝る。

 

・続き

↑これからこの話をする

 

意図の介入について考えるとき、多分一番最初の分岐は虚構の自律性をどの程度仮定するかということになる。

自律性というのは、「どの程度独立して存在しているか」ということだ。自律性を最大まで設定した場合、つまり完全に独立している場合は、別次元に実際にある物語世界を製作者が撮影して現実に引っ張ってきたのがコンテンツだし、最小に設定した場合は製作者が合目的的に発したもの・完全に現実に内包された記号の連なりがコンテンツだ。

しげすぎちゃんが酒を呑みながら「富野は神に命じられてたまたまガンダムを作らされた巫女的な存在で~」とか言っているやつは前者である(このエピソードは結構気に入っているので虚構の自律性について喋るたびに喋っている)一方、「どういうものがウケるのか」という市場調査などを元にして、展開や設定の一つ一つに様々な可能性を考え、最適と思われるものを選び出して並べるのが後者である。

 

この二つの立場は実際には検証不可能であって、どちらを考えるかということに深い意味はない。現実的には後者が実際であるように思われるが、前者も厳密に否定する根拠は特にない(ガンダムを作ろうという人間の思考が本当に自発的に生起しているのかという話を始めるとこれは自由意志論の範疇になるが、結論は出ていないので、別世界の意志を受信しているという主張も不可能ではない)。俺的には前者の方が好きなので、よくそういうスタンスを取っている。

 

深い意味は無いと言いつつ何故こんな前置きをしたのかというと、エンコードとデコードについて話すのに必要だからだ。

昔、一般的に文章などの創作行為には情報理論における信号伝達モデルを流用できると思ったことがあって、さっきから話してきた「意図」という話は、結局この話に繋がっていく(今日の話はいつも以上に取っ散らかっているが、メインテーマは「意図」である)。

 

前に思い付いたときに二式に半分くらい書いたやつがあるので、そのときの没記事を載せる。

 

********

タイトル:一般的創作行為における信号伝達モデルの適用

 

目次

0.問題意識
1.情報理論における信号伝達モデル
2.信号伝達モデルの創作一般への適用
3.意味論と構造論
4.階層レベル
5.文章以外への適用
 
0.問題提起
例えば「文章を書く」という行為は俺が今まさにパソコンに向かってやっていることなのだが、この「文章を書く」行動はどういう過程と目的を持つものかをもう少し噛み砕いてやると、「俺が頭の中で考えていることを文章を介して人に可能な限り伝えようとする」行動である。これは説明文でも物語文でも同じで、ブログを書くなら『今皆さんに伝えたい話』をブログ作成画面に書くし、ラノベを書くなら『主人公が異世界に飛ばされてチートする話』を作文用紙かなんかに書く。要するに、アイデアを文章にして伝えるのだ。
この過程を「言語化」と呼ぶことにするが、言語化はよく失敗する。アイデアを伝えようと思って文章を作成したにも関わらず、読んだ人にはアイデアが正しく伝わらないということが起こる。
例を挙げてみる。
 
・何を言っているのか全くわからない
 例:「キュレーターが持ってきた三角形を四分割して電気の呪文が唱えるとブックカバーは太陽です」
・何を言っているのかはだいたいわかるが、非常に読みづらい
 例:「カードを買ったが、10円だが、10000円札しか無かったが、店員に悪かった」
・何を言っているのかはわかるが、微妙に読みづらい
 例:「昨日渋谷に行ったんだけど、人は少なかったけど、息苦しかった」
・何を言っているのかはわかるが、つまらない
 例:「桃太郎のあらすじを書きます……少年が鬼を倒したおわり」
・何を言っているのか微視的にはわかるが、巨視的に見ると話が破綻している
 例:「私はコンビニで肉まんを買いました。なので、自転車が500円で驚きました」
 
それぞれ文章のどこが破綻しているのかを指摘して修正するのは難しくないし、これに関しては「悪文 第三版」という神本があり、これを読めば上のような文章を書くことはまず無くなる。

しかし、俺が「悪文 第三版」では不十分だと感じたのは、体系的なモデルを提供していないという点にある。「悪文 第三版」という本は巻末の50個のアドバイス集に集約されるのだが、アドバイスを定理とすれば、公理系が存在しない。飛行機で言えば「どうすればうまく飛ばせるか」という操縦者へのガイドブックに留まっており、「何故飛行機は空を飛べるのか」という航空力学の教科書ではない。摩耗した塀をコンクリートで補強するが如き方法論であり、塀の組み立て方を教えたものではない。
 
俺はそういう良いモデルと分類(※1)が欲しくなり、それを考え始めた(※2)が、「情報理論における信号伝達モデルを流用する」というやり方がかなり良かったのでそれについて書く。
 
※1:「良い」というのは排他的かつ完全、つまり、漏れなく被りがないことである。この概念は数学では商集合(同値類分解)、経営学ではMECEと呼ぶらしい。
 
※2:俺がこれを何としても自力で見つけなければならないと思ったのは、フィクションにおいては、アイデア→テキストという変換はそのまま物語世界を現実世界に変換する作業になるからだ。
テキストをアイデアに復元する段階で、本来接触不能な非現実世界に触れる方法を提供するという意味において、このシステムは神を降ろす巫女の舞に相当する。
 
1.情報理論における信号伝達モデル
この節では情報理論の講義をする。
本当に情報理論学の話しかしないので興味のない人は飛ばしてもいいぜ……と言いたいのは山々なのだが、今回の話の中核を成す部分なので頑張って読んでほしい。
 
地点Aから地点Bへと情報を伝達する際の信号作成について考えてみよう。
 
例えば、東京から大阪にいる友達に向けて何かメールを送ることを想像してほしい。
送るメッセージは何でもいいのだが、話をわかりやすくするために今は「3」というメッセージを送ることにしよう。さっき「彼女にするならどれ? 1:年上 2:年下 3:同い年」というメールが来たところなので、ただ「3」とだけ返信すれば十分なのだ。

君が入力した「3」というメッセージは電波になってスマホから発信され、詳しくは知らんが基地局とかを通りつつ相手の元へと飛んでいく。ざっくり言うと電気のパワーを使って情報を送信するわけだが、電気は0と1しか扱えないので、「3」というメッセージは電波として伝わる際は2進数の「11」に変換される。この「11」は、相手の元へと届く際には再び変換されて「3」に戻り、ようやく元の情報として相手に伝わるわけだ。
 
3という情報を「11」という符号にするという意味で「3→11」を符号化、元に戻すという意味で「11→3」を復号化という。

ポイントとしては、符号化にはいくらかの任意性があるということである。
一番わかりやすい例で言えば、何桁の情報を送るのかは我々が勝手に決める部分になる。2桁送るなら「11」だが、4桁送るなら「0011」、16桁送るなら「00000000000011」だ。また、2進法を用いる必要はない。復号さえできるなら符号化に使うルールはなんでもいいのだ。例えば「8桁のうちにある1の個数が送る数字になる」というルールを使えば、「00000111」で「3」、「01111111」で「7」ということにもできる。
 
この節で覚えておいてほしいポイントは、
・情報は符号化によって符号になり、その後、復号化によって情報に戻る
・その際、使う符号化には任意性がある
という2点である。
 
**************
 
この後、アイデア⇔テキスト間の変換において符号化と復号化を逆変換にすることは可能か~とか単語レベルと文章レベルでの符号の障害は~というような話が続くのだが、話がごみごみする割に結論がよくわからないので没記事になった。
 
今日の話は色々なところに飛んでいて空中分解寸前なのだが、最終的に「意図とバーチャルリアリティ」的なところに着地する予定である(次回に続く)。
 

・遊戯王ArcVの感想

この前最終回ラッシュで書こうと思って忘れてた。
俺はカードバトルにあまり執着していないのでシンクロ次元編のデュエルを軽視した脚本は自由度が増していて面白かったけど、融合次元編以降は遊矢の話を無限に繰り返していて、ただ単に退屈だった。
 
あと、終盤でズァーク救済をやらないのが本当に謎だった。俺は作品に対して「こうした方がいい」みたいなことはあんま言わない方だと思うんだけど、あまりにも違和感がデカすぎる。
「全ての人を笑顔に=エンタメ!」っていうのは最初期からのテーマだったはずなのに、ズァークの処理が「ズァークから悪の心を取り除いてズァークを含めた皆を笑顔にする」じゃなくて、「悪の心=ズァークを排除してズァーク以外を笑顔にする」っていう正反対の方向を向いているのは筋が通らない。零児がそう主張するのはともかく、遊矢までそうしようとするのは流石におかしくないか。君は何を学んできたんだ?
あまりにも不自然だから脚本的にそうしなければいけない理由があったのかを大会再開以降ずっと考えていたけど、よくわからなかった。最後の最後にズァークも笑顔になった~的なことを少しだけ言ってたけど、クライマックスに柚子の救出を設定したせいでその尺が一瞬しかなくて、問題の重大さに対してあまりにも描写が軽すぎる。
 
まあ、シンクロ次元編は本当に良かったので、全体的な面白さは今までのシリーズと同じか、精々少しつまらないくらい。いつもは尻上がり式に面白くなるけど、今回は富士山型だった。