先日、妻の許可を頂いたので

一泊で、近畿方面…奈良・大阪に行ってきました。


初日は、奈良県を中心に回り

桜井駅前にある、ホテルルートインに

宿泊しました。





二日目の予定としては

まずは早朝にチェックアウトして

ホテルから歩いて、朝もやの

「箸墓古墳(はしはかこふん)」「三輪山」

の写真を撮ろうと、はりきっていたのですが…



ものすごい雨だったのでやめました。

レンタカーは、昨日返却していたので

二日目は、電車と徒歩がメインなのですが

(この雨の中、歩くのか…)





  

海石榴市(つばいち)の守護神 『三輪恵比寿神社』


そういえば、前回書き忘れたのですが

初日の「大神神社(おおみわじんじゃ)」を

参拝した際に、大神神社の参道から

脇道を南に入ったところに

とても興味深い神社があったので

書きたいと思います。




 


・『三輪恵比寿神社(みわえびすじんじゃ)

 (奈良県桜井市三輪375)


 祭神

 八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)

 八尋熊鰐命(やひろくまわにのみこと)

 加夜奈流美命(かやなるみのみこと)


三輪のえべっさんとして親しまれ

我が国初の「市場」とされる

『海石榴市(つばいち)の守護神

として祀られ、当初は初瀬川沿岸に

鎮座していました。




しかし、926年(延長4年)の雨で

同川が氾濫、「市場」「恵比寿神社」ともに

三輪の地へうつりました。


市場は、三輪の「金屋」周辺で開催され

現在は「海石榴市観音堂」が鎮座しています。


この「市」は、『万葉集』に

「八十の衢(やそのちまた)と詠われ

「衢(ちまた)」とは、道の合流点を意味し


多くの人びとが集まり、品々の交換や商いが

おこなわれた八街(やちまた)だったのでしょう。





また、男女が出あう歌垣の場としてのほか

『日本書紀』に、敏達(びだつ)天皇の時代

むち打ちの刑をおこなったとの記述があります。


「海石榴市」は、刑罰や処刑の場

さらには雨乞い、葬送などがおこなわれる

他界への出入口…「境界」の場所としての

性格をもっていました。


(以前に『市(いち)』は、「斎(いつ)く」を語源とし

 ヒミコの様な、女性祭祀者を意味すると書きました)





祭神の『加夜奈流美命(かやなるみのみこと)

聞き慣れない、めずらしい神さまですね。

同神は、女神ではないかともいわれ


 


「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)

 (奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708)

「加夜奈留美命神社(かやなるみじんじゃ)

 (奈良県高市郡明日香村大字栢森358)



にも、祀られています。

とても響きの良い神名ですね。



  

本日の予定としては…



さて本日の予定としては、大阪にある

 


・『石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

・『住吉大社(すみよしたいしゃ)


それぞれ参拝する予定で、さっそく

近鉄線に乗って大阪方面に向かいました。


今時分、乗り換えもアプリで調べれば

すべてわかるので、楽々でした。

そして激しい雨の中、石切駅に着きました。





  

生駒山かれる石切剣箭神社 『上・下』


この段階で、足元はずぶ濡れです…

まずは、生駒山の麓(ふもと)にある

「石切剣箭神社・上之社(かみのしゃ)

を目指します。



雨で、音川も増水していました。




早朝、上之社はとても静かでした。




急な参道を登ったさきに…



社殿はありました。


 


『石切剣箭神社 上之社』

 (大阪府東大阪市上石切町1-10-24)

 祭神は以下の2柱

 「饒速日尊荒御魂(にぎはやひのみこと・あらみたま)」

 「可美真手命荒御魂(うましまじのみこと・あらみたま)」





さらに登ったさきの宮山の山中には

「元宮」があります。いわゆる社殿を

必要としない、遥拝所でしょう。


・「新石切駅」より「生駒山(いこまやま)」を望む

(写真ではあまり伝わりませんが、眼前に拡がる
 横長の山容はかなりの迫力でした。石切剣箭神社は
 生駒山に抱かれるように鎮座しますが、生駒山は
 奈良県と大阪府の境にある、標高642㍍の生駒山地
 の主峰で、古来より交通、戦略上の重要な要衝でした。)


 そして上之社を後にして、本宮とされる

 「石切剣箭神社 下之社(しものしゃ)

 行きます。


 


・『石切剣箭神社 本宮:下之社(しものしゃ)

 (大阪府東大阪市東石切町1-1-1)

 祭神 「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」

    「可美真手命(うましまじのみこと)」




腫れ物(でんぼ)の神さまとして有名で

病気平癒に大きなご利益があるとされます。

大阪出身の同僚に聞いたところ

地元で熱烈な信仰を得ているとのことでした。

境内に参拝したところ、病気が完治した

との信者のお手紙が掲示してありました。





そして驚いたのが、参拝している方々が

参道にある柱「百度石(ひゃくどいし)」を

折り返して、再び本殿に向かいお祈りを

何度も何度も、繰り返していることでした。



次回書きますが、住吉大社境内社『種貸社(たねかししゃ)』
にも『百度石』がありました。元種を授ける神さまです。



これは「お百度参り」といって

本殿に、百回お参りすることで

願いが成就するといわれています。




(個人的には)この光景をみて、縄文時代に

「立てた」状態で祭祀に用いられた

「石棒(せきぼう)」が思い浮かびました。





石切剣箭神社の宮司は、木積(こづみ)氏ですが

(物部氏の氏族、穂積(ほづみ)から転じたそうです)




本殿脇の「穂積神社」にある

三つの石の真ん中のそれには

『九頭神』の文字が、刻まれていました。





  

石切剣箭神社の祭神に宿る『第③の神』の血脈!


ところで「石切剣箭神社」の祭神

①『ニギハヤヒ(饒速日)
②『ウマシマジ(可美真手)

については、すでに記しましたが
じつは『第③の神』が、同神社に
ひそかに祀られているという説があります。


この謎の第③の神の名を
『長髄彦(ナガスネヒコ)といいます。




この③の『ナガスネヒコ』は、①②
とても深いつながりがあり…
それは、ある種の家族関係になるのですが

そしてこの家族日本歴史深く関わります。
(『スターウォーズ』のスカイウォーカー家のようですが…)


さて、①〜③の神々についてみてみましょう!


  

石切に祀られる、日本の『始まり』に関わる神々たち


まず、『ニギハヤヒ』

日本建国の地とされるヤマト(現在の奈良県)」

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」

(後の神武天皇)より先に、降臨(到着)します。



しかも彼は、天つ神(アマテラス)から

・「天羽々矢(あめのはばや)」 → 弓矢

・「步靫(かちゆき)」  弓を入れる細長い筒状のもの


という、「天つ神の子供である」ことを示す

道具を授かっていたと、『日本書紀』に記され

ています。






これらの道具は

「ヤマトの正統な支配者である」という

ことを保証する、いわば『レガリア』で

史書の記述に従えば、ヤマトの初代・王は

この『ニギハヤヒ』になってしまいます。



この『ニギハヤヒ』は、ヤマトの在地の豪族

(この一帯にすでに勢力を拡大していた人びとの首領)

『長髄彦(ナガスネヒコ)を従わせ

ヤマトを支配していたともいわれていて





神名にある『ナガスネ』

もともと、邑(むら)の名前(地名で)
それゆえにその邑の支配者が
『ナガスネヒコ』という名前に
なったのだと、同書に記されています。



神名にある(スネ)が長い

「足が長い」という表現は

 

日本の先住民「土蜘蛛(ツチグモ)

「八束脛(ヤツカハギ)」などと共通します。

(蜘蛛は足が長く、八束とは長さの単位で

 ヤツカハギとは脛の長さが八束あるという意です)





そして、『ニギハヤヒ』
土着の首領『ナガスネヒコ(長髄彦)の妹

「三炊屋媛(みかしきやひめ)」と結婚し


二人の間に生まれたのが

物部氏の祖とされる、石切剣箭神社の祭神

である、『ウマシマジ』です。



つまり、古代の軍事大族「物部」氏は

①の『ニギハヤヒ』が、先住土着勢力の首領

『ナガスネヒコ』妹』と婚姻し


両者の血脈が融合する形で

成立した、とされているのですね。





  

『ナガスネヒコ』の最期と『トミ』の残照


そして、『ナガスネヒコ』の最期ですが

彼は、ヤマト入りを目指す神武に最期まで

抵抗し、最終的に義理の弟『ニギハヤヒ』

殺されます。


そしてニギハヤヒが、神武に恭順して

戦いは終わり、ヤマト入りした神武が

初代天皇として即位し、ヤマト王権が始まる…

これが、通説的な日本の歴史とされています。



つまり『ナガスネヒコ』とは

歴史の流れに抗った、救いようのない

「悪人」と評されているのですね。

でも一方で、歴史は勝者の側が語るという

性格をもっていますよね。

(私は、彼(ナガスネヒコ)がすべての矛盾を

 背負わされたのではないかと想像しています…)






石切剣箭神社には、『ナガスネヒコ』

ひそかに祀られている、との説があると

書きましたが、彼は『古事記』では


『登美能那賀滇泥毗古』

 (トミノナガスネビコ)


と記述されています。



石切剣箭神社・上之社の本殿脇には

『石切登美霊社(いしきりとみれいしゃ)

という境内社があり、現在は荒廃して

ご神体を、隣の「婦道神社(ふどうじんじゃ)」に

遷したそうです。(ちなみに、この婦道神社には

③のナガスネヒコの妹「三炊屋媛」が祀られています)





ナガスネヒコの名前にある

『登美(トミ)の意味について、彼は


 


・奈良県桜井市外山登美(とみ)」

・奈良県旧添下(そふのしも)鳥見(とみ)


一帯を支配していたといわれ


付近には富雄(とみお)という地名があり

これは『トミ(登美・鳥見・富)』から

転じたとも言われています。

ちなみに最近、日本最大の2㍍を超す

蛇行剣(だこうけん)が発見されたのが

富雄川流域にある

『富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)です。



(ナガスネヒコの妹を娶っている)ニギハヤヒは

ナガスネヒコに「婿入り」したような状態で

あったとも考えられ


ニギハヤヒが、ヤマトに降臨する以前から

ナガスネヒコ集団は、この地に暮らしていた

在地のかなりの勢力であったのではないかと

(個人的には)考えています。


「ナガスネ」という名称は

じっさいに足が長い…体格雄偉というより


長い山容の山裾(やますそ)

生駒山などを望み、信仰しつつ暮らしていた

土着の人びとを比喩した名称で


ナガスネ族とは、一帯に暮らす

縄文人の末裔ではなかったかと

想像しています。



Ikoma1600px.JPG「wikipedia」



私の先祖が暮らしていた群馬県は

総理大臣を4人も輩出しているのですが

その一人に、中曽根(なかそね)氏がいますね。


先祖が暮らしていた群馬県吉井町の隣は

富岡市…『富(トミ)の岡です。



さて、石切剣箭神社をひとしきり

参拝して、石切の地を後にし

いよいよ『住吉大社』に向かいます。



続きます。