先日、妻の許可を頂いたので
一泊で、近畿方面…奈良・大阪に行ってきました。
初日は、奈良県を中心に回り
桜井駅前にある、ホテルルートインに
宿泊しました。
二日目の予定としては
まずは早朝にチェックアウトして
ホテルから歩いて、朝もやの
「箸墓古墳(はしはかこふん)」「三輪山」
の写真を撮ろうと、はりきっていたのですが…
ものすごい雨だったのでやめました。
レンタカーは、昨日返却していたので
二日目は、電車と徒歩がメインなのですが
(この雨の中、歩くのか…)
海石榴市(つばいち)の守護神 『三輪恵比寿神社』
そういえば、前回書き忘れたのですが
初日の「大神神社(おおみわじんじゃ)」を
参拝した際に、大神神社の参道から
脇道を南に入ったところに
とても興味深い神社があったので
書きたいと思います。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/18/saitohsei/ce/9d/j/o1080081315421048683.jpg?caw=800)
・『三輪恵比寿神社(みわえびすじんじゃ)』
(奈良県桜井市三輪375)
祭神
八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)
八尋熊鰐命(やひろくまわにのみこと)
加夜奈流美命(かやなるみのみこと)
三輪のえべっさんとして親しまれ
我が国初の「市場」とされる
『海石榴市(つばいち)』の守護神
として祀られ、当初は初瀬川沿岸に
鎮座していました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/18/saitohsei/fd/be/j/o1080081315421048685.jpg?caw=800)
しかし、926年(延長4年)の雨で
同川が氾濫、「市場」「恵比寿神社」ともに
三輪の地へうつりました。
市場は、三輪の「金屋」周辺で開催され
現在は「海石榴市観音堂」が鎮座しています。
この「市」は、『万葉集』に
「八十の衢(やそのちまた)」と詠われ
「衢(ちまた)」とは、道の合流点を意味し
多くの人びとが集まり、品々の交換や商いが
おこなわれた八街(やちまた)だったのでしょう。
また、男女が出あう歌垣の場としてのほか
『日本書紀』に、敏達(びだつ)天皇の時代
むち打ちの刑をおこなったとの記述があります。
「海石榴市」は、刑罰や処刑の場
さらには雨乞い、葬送などがおこなわれる
他界への出入口…「境界」の場所としての
性格をもっていました。
(以前に『市(いち)』は、「斎(いつ)く」を語源とし
ヒミコの様な、女性祭祀者を意味すると書きました)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/18/saitohsei/9e/b3/j/o0802108015421048690.jpg?caw=800)
祭神の『加夜奈流美命(かやなるみのみこと)』は
聞き慣れない、めずらしい神さまですね。
同神は、女神ではないかともいわれ
・「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)」
(奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708)
・「加夜奈留美命神社(かやなるみじんじゃ)」
(奈良県高市郡明日香村大字栢森358)
にも、祀られています。
とても響きの良い神名ですね。
本日の予定としては…
さて本日の予定としては、大阪にある
・『石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)』
・『住吉大社(すみよしたいしゃ)』
それぞれ参拝する予定で、さっそく
近鉄線に乗って大阪方面に向かいました。
今時分、乗り換えもアプリで調べれば
すべてわかるので、楽々でした。
そして激しい雨の中、石切駅に着きました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/18/saitohsei/74/ae/j/o1080081315421050913.jpg?caw=800)
生駒山に抱かれる石切剣箭神社 『上・下』の社
まずは、生駒山の麓(ふもと)にある
「石切剣箭神社・上之社(かみのしゃ)」
を目指します。
雨で、音川も増水していました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/20/saitohsei/4f/63/j/o1080081315421098818.jpg?caw=800)
早朝、上之社はとても静かでした。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/20/saitohsei/13/85/j/o1080081315421098825.jpg?caw=800)
社殿はありました。
「元宮」があります。いわゆる社殿を
必要としない、遥拝所でしょう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/22/saitohsei/c5/b7/j/o1080081315421160002.jpg?caw=800)
そして上之社を後にして、本宮とされる
「石切剣箭神社 下之社(しものしゃ)」に
行きます。
病気平癒に大きなご利益があるとされます。
大阪出身の同僚に聞いたところ
地元で熱烈な信仰を得ているとのことでした。
境内に参拝したところ、病気が完治した
との信者のお手紙が掲示してありました。
そして驚いたのが、参拝している方々が
参道にある柱「百度石(ひゃくどいし)」を
折り返して、再び本殿に向かいお祈りを
何度も何度も、繰り返していることでした。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240406/12/saitohsei/f5/42/j/o1080081315422115739.jpg?caw=800)
これは「お百度参り」といって
本殿に、百回お参りすることで
願いが成就するといわれています。
(個人的には)この光景をみて、縄文時代に
「立てた」状態で祭祀に用いられた
「石棒(せきぼう)」が思い浮かびました。
石切剣箭神社の宮司は、木積(こづみ)氏ですが
(物部氏の氏族、穂積(ほづみ)から転じたそうです)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240404/09/saitohsei/dd/94/j/o1080081315421267816.jpg?caw=800)
本殿脇の「穂積神社」にある
三つの石の真ん中のそれには
『九頭神』の文字が、刻まれていました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240403/22/saitohsei/06/ad/j/o0902073315421160016.jpg?caw=800)
石切剣箭神社の祭神に宿る『第③の神』の血脈!
石切に祀られる、日本の『始まり』に関わる神々たち
まず、①の『ニギハヤヒ』は
「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」
(後の神武天皇)より先に、降臨(到着)します。
しかも彼は、天つ神(アマテラス)から
・「天羽々矢(あめのはばや)」 → 弓矢
・「步靫(かちゆき)」 → 弓を入れる細長い筒状のもの
という、「天つ神の子供である」ことを示す
道具を授かっていたと、『日本書紀』に記され
ています。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240406/12/saitohsei/7e/fe/j/o1080036415422123630.jpg?caw=800)
これらの道具は
「ヤマトの正統な支配者である」という
ことを保証する、いわば『レガリア』で
史書の記述に従えば、ヤマトの初代・王は
この①の『ニギハヤヒ』になってしまいます。
この『ニギハヤヒ』は、ヤマトの在地の豪族
(この一帯にすでに勢力を拡大していた人びとの首領)
③の『長髄彦(ナガスネヒコ)』を従わせ
ヤマトを支配していたともいわれていて
神名にある『ナガスネ』は
神名にある脛(スネ)が長い…
「足が長い」という表現は
日本の先住民「土蜘蛛(ツチグモ)」
「八束脛(ヤツカハギ)」などと共通します。
(蜘蛛は足が長く、八束とは長さの単位で
ヤツカハギとは脛の長さが八束あるという意です)
「三炊屋媛(みかしきやひめ)」と結婚し
二人の間に生まれたのが
物部氏の祖とされる、石切剣箭神社の祭神
である、②の『ウマシマジ』です。
つまり、古代の軍事大族「物部」氏は
①の『ニギハヤヒ』が、先住土着勢力の首領
③の『ナガスネヒコ』の『妹』と婚姻し
両者の血脈が融合する形で
成立した、とされているのですね。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240406/12/saitohsei/a8/d5/j/o1080081315422123665.jpg?caw=800)
『ナガスネヒコ』の最期と『トミ』の残照
そして、『ナガスネヒコ』の最期ですが
彼は、ヤマト入りを目指す神武に最期まで
抵抗し、最終的に義理の弟『ニギハヤヒ』に
殺されます。
そしてニギハヤヒが、神武に恭順して
戦いは終わり、ヤマト入りした神武が
初代天皇として即位し、ヤマト王権が始まる…
これが、通説的な日本の歴史とされています。
つまり『ナガスネヒコ』とは
歴史の流れに抗った、救いようのない
「悪人」と評されているのですね。
でも一方で、歴史は勝者の側が語るという
性格をもっていますよね。
(私は、彼(ナガスネヒコ)がすべての矛盾を
背負わされたのではないかと想像しています…)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240406/13/saitohsei/d6/90/j/o0813108015422146757.jpg?caw=800)
石切剣箭神社には、『ナガスネヒコ』が
ひそかに祀られている、との説があると
書きましたが、彼は『古事記』では
『登美能那賀滇泥毗古』
(トミノナガスネビコ)
と記述されています。
石切剣箭神社・上之社の本殿脇には
『石切登美霊社(いしきりとみれいしゃ)』
という境内社があり、現在は荒廃して
ご神体を、隣の「婦道神社(ふどうじんじゃ)」に
遷したそうです。(ちなみに、この婦道神社には
③のナガスネヒコの妹「三炊屋媛」が祀られています)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240406/12/saitohsei/cf/ec/j/o1080081315422124806.jpg?caw=800)
ナガスネヒコの名前にある
『登美(トミ)』の意味について、彼は
・奈良県桜井市外山「登美(とみ)」郷
・奈良県旧添下(そふのしも)郡「鳥見(とみ)」郷
一帯を支配していたといわれ
付近には富雄(とみお)という地名があり
これは『トミ(登美・鳥見・富)』から
転じたとも言われています。
ちなみに最近、日本最大の2㍍を超す
蛇行剣(だこうけん)が発見されたのが
富雄川流域にある
『富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)』です。
ナガスネヒコに「婿入り」したような状態で
あったとも考えられ
ニギハヤヒが、ヤマトに降臨する以前から
ナガスネヒコ集団は、この地に暮らしていた
在地のかなりの勢力であったのではないかと
(個人的には)考えています。
「ナガスネ」という名称は
じっさいに足が長い…体格雄偉というより
長い山容の山裾(やますそ)
生駒山などを望み、信仰しつつ暮らしていた
土着の人びとを比喩した名称で
ナガスネ族とは、一帯に暮らす
縄文人の末裔ではなかったかと
想像しています。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240404/11/saitohsei/05/c9/j/o1080081015421305465.jpg?caw=800)
私の先祖が暮らしていた群馬県は
総理大臣を4人も輩出しているのですが
その一人に、中曽根(なかそね)氏がいますね。
先祖が暮らしていた群馬県吉井町の隣は
富岡市…『富(トミ)』の岡です。
さて、石切剣箭神社をひとしきり
参拝して、石切の地を後にし
いよいよ『住吉大社』に向かいます。
続きます。