神田明神のことを調べていて、
あっと驚きました‼️
京都にも神田明神がある‼️
(神田明神HPより)
将門公は、
豪族藤原秀郷に攻められ、
下野猿島(茨城県坂東市神田山)で討ち取られます。
将門公の首級(しゅきゅう)は京都に届けられて、晒されました。
東京大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所とされています。
首がさらされた場所は
ここだとか、西本願寺のあたりだとかの説があり、確証は得られなかったのですが、
あの空也上人が
平将門を供養するために堂を建て、
石を目印に置いたのが
この京都神田明神の始まりとなります✨
平成三十年になって、
東京の神田明神より将門公を勘請されて、
京都神田明神として、
現在の小社に再興されたそうです。
いや〜、びっくりです‼️
去年です‼️
" そうだ、京都行こう "
で、東京駅に空也上人大集合に
アンテナが立って以来、
気になるお方なんです😆
京都神田明神は空也さんが〜😆😆😆
と思いながら、
いろいろ探っていたら、
空也上人のビッグニュースが現れました🎉
ビッグニュースの前に・・
気になる空也上人とは・・
皇子に生まれたという高貴な身分から、
生涯を市井の中に埋め、
念仏聖として庶民の苦悩を救うことにかけた
素晴らしいお方なのです。
その頃、
京の都は疫病が流行り、
多くの死者が出ました。
村上天皇は勅命で空也上人に
疫病退散の祈祷をしてくれと頼みます。
空也さんは祈祷をするどころか、
自分で6尺の観音像と1尺の四天王像を彫って、観音像には金箔を施して、それを車に乗せて京都中を引っ張り回して、そのころ薬として使われていたお茶を市民に振舞って、念仏踊りを踊らせて疫病を鎮めたと言われます。
黄金の観音像を引っ張り回していた姿はやはインパクトがあり、人々は空也を慕って行列を作り、南無阿弥陀仏のリズムに乗って勝手に踊ってしまったのでしょう。
これがいわゆる六斎念仏とか念仏踊りとなり、ひいては盆踊りになって阿波踊りに発展して行きました。
(私、阿波踊りLOVE人間なんです💓びっくり‼️)
そのお茶は特別で、お茶に梅干しと昆布を入れて飲んだもので、このお茶を飲むと病が治った事から喜んで踊り出した、即ち歓喜踊り、ここから念仏踊りに発展したとも言われます。
しかも、自身も病に伏せっていた村上天皇が、その噂を聞きつけて飲んでみると、たちまち病が治ったので、このお茶が皇服茶(おうぶくちゃ)と言われるようになりました。
(空也上人の使われた井戸も八坂神社で見つけていました)
これを知った上で、
ビッグニュース‼️
空也さんが彫った観音像は国宝になっていて、今でも六波羅蜜寺の秘仏本尊として、12年に1回、辰年の年に公開されています。
え〜〜〜
辰年は今年やん‼️
終わってたらどうしよう😂😭😂😭
早速調べてみたら、
よかった〜😭
間に合った🎉🎉🎉
神田明神のこと調べてたら、
嘘みたいに
繋がっていきましたね〜😆
京都神田明神
空也上人
阿波踊り
12年に一度のご開帳
空也上人が
京都の市中を引っ張り回したあの観音様に
絶対会いに行こう✨✨✨
嬉し😊