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さいたま市で楽しくジョギング

さいたま市でジョギングしてます。マラソンの結果等々も報告。

夏休みが終わった。終わってしまうと、あっという間である。早いな。

仕事が始まった。始まってしまうと、ごくごく普通である。一週間5日勤務は、長いな。
私は、結婚していない人を評価しない。結婚していない人は、精神的に子供である。いつまでたったも、自分のことばかり考えている。

私の仲のよい友人。私の弟。30歳を過ぎたのに、まだ結婚していない。自分のことばかり考えているからである。そうした人はもちろん、そうした指摘に反論する。結婚は急ぐ必要はない。自由だと。しかし、その考え方こそが、自分のことしか考えてないのである。

いい人がいないという人がいる。それは、いい人であると判断しないからである。出合いがないという人がいる。探しに行かないからである。

すべては、言い訳である。特別な事情を抱えていない限り、だれでも絶対に結婚できるのである。

結婚している人から言わせると、結婚していない人達の考え方は意味が分からない。自己中心的かつ優柔不断といったところか。結婚していないことは、人としてマイナスポイントでしかないのである。

だれでも自由に生きる権利がある。そんな言葉は、自由に生きることができない、本当につらい時代を歩んできたころの遺産みたいな言葉である。今の時代の結婚に対して使うのは、ご都合主義の間違った使い方である。

結婚しないということは、簡単な言葉に置き換えることができる。

絶滅、である。

私は独身の人をそのようにみている。


明日から夏休みに入る。社会人になっても夏休みがあるということは、すばらしいことだ。期間は学生に比べるとずっと少ないが、そんなことは関係ない。夏休みがある、ということが重要なのだ。

すでに月曜日から休みという人も多い。主にメーカーに勤める人だ。メーカーという職種は、しっかりと休みがとれるところが、ラッキーである。

サービス業では、なかなか難しい。立場が違うと逆に繁忙期となってしまう。これには反比例がなりたつのだろうか?線形性はあるのだろうか?調べてみたいと思う。

子供の保育園も明日から夏休みである。つまりあづかってもらえない。明日から日曜日までは、しっかりと子育てにいそしむことになる。特に、明日は妻は仕事だから、私と子供の2人きりである。

夏休みの初日、何をしようか。
そんなことを思う今は昼休み。
過去数日間いろいろなところで、さいたまから人が少なくなっている。

まず、電車にのる人が少ない。いつもの3割減といったところだろうか。今乗っている通勤電車にしても、座席こそ空いてはいないが、つり革は半分以上がただぶら下がっている。通勤電車としては、理想的なすき具合いだ。

次に、買い物するところ。北区のステラタウンも人が少ない。フードコートがお昼時に席が空いているほどだった。大人気のマクドナルドも、ときどき人が途絶えるくらい。さいたま新都心のコクーンも、人が少な目だった。夕食時、あまり並ばずにレストランに入ることができた。

さいたまという地域がら、地方から出てきたひとが多くすんでいる場所なのだろう。特に、北関東から東北北陸については、アクセスがよく、実家に帰りやすい。東京に出勤するのもさいたまはちょうど良い。

なつやすみになり、多くのひとが帰省した。誰もよくわからないが、人口の移動が起こっている。影響するのは、サービス業の売り上げくらいか。

今のように、いろいろと空いているとうれしい。でも、空きすぎていると、少しさみしい。
天井を眺めている。朝、目が覚めてからずっとこうしている。考えことをしている。いろいろなことを。

部屋片付け 私
朝ごはん作り 私
保育園の準備、着替え 私
子供の食事 2人
食器洗い 2人
着替え 私
登園 私


お迎え 妻
夕食作り 妻
子供の食事 妻
お風呂 私
寝かしつけ 私
食器洗い 妻
お弁当 妻
洗濯物たたみ 私
洗濯 妻

可視化してみると、実体が明確になる。私の家事はやりすぎていると思ったけれど、およそ半分くらいになっているということが分かった。自分を過大評価するのはやめよう。

これは、私が20時に帰宅する場合のわが家の家事分担である。昨日の夜はほぼこの通りで、追加で洗濯物も私が担当した。20時よりも早く帰宅出来れば私の家事は増え、遅ければ妻の家事が増える。実績としては、イーブンくらいである。

家事はそこそこたいへんである。そこに子供がいると、さらに大変である。妻も仕事をしている。やりくりは難しい。すべてが妻になったら難しい。手抜きがうまくできないひとはつぶれてしまうだろう。

私は家のことを協力的にやっている。悪くないと思う。ただし、家事のダメだしはやる気を削がれる。半分やっているのだからルールの半分は私が決まる権利があるはずである。

いいたのは、それだけである。

仕事が終わり、いつも通りの帰宅。駅のホームで電車をまった。

最初は腕を組んでいた。そのうちに何かしたくなった。スマートフォンを取り出して、画面をいじり始めた。周りの人もみんなスマホをいじっている。

スマホでは、盆栽を育てるアプリを立ち上げ、水をやった。夏のためか、すぐに水が足りなくなる。ゲームだから、別に枯れたってよいのだけれど、なんとなく枯らしてしまうのも忍びなく、定期的にみずをあげるようにしている。だいぶ、大きくなった。

次に、証券会社のアプリを立ち上げて、今日の株価を見る。ちょっとの変動は気にしてないので、すぐに画面を閉じた。一瞬、上を向く。さて、保有してるのを増やそうか、減らそうか、それともこのままか。このままにすることにした。辛抱強く慎重なのが、資産を順調に増やすコツである。そんなことを自分にいい聞かせる。

スマホですることもなくなった。ゲームはしないし、ニュースも見ない。スマホをしまうことにした。

前を観た。2メートルほど前に女性が立っていた。スマートフォンを持って、なにやら夢中に画面をさわっている。きっとゲームをしているに違いない。妙に確信があった。ゲームが確率的には一番高い。

そのまま、なんとなくその場に立っていた。電車はまだこない。そのとき、ふと目の焦点が、線路の向こう側にいった。線路の向こう側に、建物があり、こちらがわに壁がたっていた。その壁に鏡のように反射するステンレスらしき板か貼られていた。よく反射してる。

その鏡をよくみてみると、なんと、私は前に立っている女性の真横に立っていた。鏡まで距離があるせいか、女性と私の遠近感はほとんどなかった。ようするに、かがみの中では、私と女性は近接して横並びしている。近接していると表現したが、身体の一部は重なっており、まるで寄り添っているようにも見えた。なんとなく変な気分になる。

女性と接近して並ぶなんて機会は、今や妻しかいない。それが、こういう機会を体験するなんて。

それに気づいたからといって、その後何をしたわけではない。ただ、並んだ姿をしばらく見ていた。その光景が面白かったので。

そうこうしていたら、電車が駅のホームな到着した。私達は、当然のことながら、別々に電車に乗り込んだ。
昨日の夜は暑かった。このところ毎日厚いのだが、いつもより暑く感じた。私が感じたのではない。妻がである。

エアコンの設定温度をいつもより低くした。いつもは28℃だが、昨晩については26℃にした。2℃というのはわずかな差のように感じるが、限られた空間では、その差は大きい。冷蔵庫の奥と手前の温度差くらいだ。チルド室ともいえる。

寝てしまうと、その差はよく分からない。朝起きたときに少し冷えたかなと思うくらいである。つまり、私自身はしっかりと寝ることができた。

朝、いつものように起きた。ゆっくりとした朝である。朝食の準備を私が始めた頃に、妻と子供が部屋からでてきた。子供の機嫌がいつもより悪かった。

鼻水がでていた。
ごめんよ。
いつものドアを開けた。行きつけのお店である。外国の食材やお菓子を売っていて、普段行くスーパーと品揃えが全くことなるので、すこしだけわくわくする。

仕事帰りに30%くらいの確率で行くため、店員さんとは、すでに顔見知りだ。私は毎回そこそこお金を払う客なので、いつもよくしてもらっている。今日も、いつも見かける店員さんだ。

店には私と店員さん2人。そして、笑顔で対応してくれる。ふとこの状況を考えてみると、なんとなく、良い環境にいる気がしてくる。歓迎されてこの場所にいる。女性は笑顔で対応してくれる。私も紳士的な対応をしている。なんともほほえましい。

店を一回りし、いつものように買い物をした。ジュースとお菓子で、合計400円程度
。贅沢である。

駅に到着し、電車に乗り、ジュースを取り出した。電車のなかで飲むのはあまりよろしくないが、人は少ない。栓を開けるとプシュといい音がした。左手でクリームソーダを飲んだ。アメリカ産である。
「おやすみ」暗い部屋の中で、ぼそりとつぶやく。まるで独り言のように、小さな声をだす。返事は期待していない。


「おやすみ」と、声がした。妻だった。夜遅くにもかかわらず、まだ起きていたようだ。妻は寝つきが悪いほうだ。この暑さのなか、なかなか眠れなかったのだろう。決して私の眠りをまっていたわけではない。

独り言のつもりでつぶやいた言葉が、返事があったことで、会話へと昇進した。言葉もさぞかしうれしかったに違いない。私自身もなんとなく寝る儀式が完結したようで、安心感をもらうことができた。家族がいるということは、こういうことだ。いいことだと思う。

安心しきった僕は、あっという間に眠ってしまった。エアコンをつけてない暑いか部屋で、こんなにも寝苦しい環境にもかかわらずである。

その後に起こったことを、私は知らない。妻がいつ眠りについたかも知らない。ただ、一つだけ覚えていることがある。

「いびきがうるさい」と同時に、背中をけられたことである。これが家族である。