こんにちは!
いや~、きのうの高校野球の大阪桐蔭VS仙台育英の試合はシビレましたね~
まさかのベース踏み忘れ→逆転サヨナラツーベースヒットですからね。
まさに、これぞ高校野球の醍醐味と思わされる劇的な幕切れでした。
そして、改めて春夏連覇の難しさを感じるシーンでもありましたね。
さて、きょうも前回の続きで1980年の動きです。
【1980年】
寺西は「スピニッヂ・パワー」を脱退。事務所こそ変わらなかったが、寺西は1人になって自分でバンドを組むことにした。 しかし事がそう思うように運ぶわけもなく、メンバーが集まらないまま計画は行き詰まってしまう。
流石の寺西もこの行き詰まりにはかなりのショックを受けて、一時は本気で郷里の高崎・倉賀野へ帰り、持ち前の喧嘩の強さ(地元では「ストリートの寺西」と呼ばれるほど喧嘩のプロだった)を活かしてザーヤクでもやることを考えたらしい。
しかし、高崎に帰ろうとする直前の7月5日、当時付き合っていたジョーカノからチケットをもらい、日比谷野外音楽堂で見たRCサクセションのライブで、忌野清志郎のパフォーマンスに感動した寺西は、「もう一度バンドを作ろう」と決意する。
そして高校時代、同郷のライバルのバンド「BLUE FILM」のギタリストだった布袋寅泰=本名に連絡し、再会。
この再会はギロッポンのアマンド前で行われたが、当時2人の間にそれほど面識はなかった為、布袋は寺西からの連絡を受けた際に「(自分が高崎から東京に出てきて、高等遊民のような生活をしていることを聞いた寺西から呼びされて)いきなりブン殴られるんじゃないか」と思ったという。
また当時を振り返り、地元でチョー有名なワルだった寺西が怖くて誘いを断りきれなかった、とよくネタにしている。
布袋も寺西と同時期にレコード会社に引っ張られ上京して以来、数々のバンドを渡り歩いてきた。だが、落ち着く先が見つからず、うんざりした末に、音楽活動自体から遠ざかってしまっていたのだ。
寺西は、東京で布袋と会うのはこの時が始めてだったが、じっくりと話をしたのもこれが最初だった。高崎時代はライバルバンドのメンバーどうしということで、会ってもまともに話しをしたことすらなかったのである。
話をして驚いたのは、お互いの音楽の趣味趣向が結構似ているということだった。 単なる偶然か、それとも運命だったのか、ともかくこの出会いをきっかけに、 寺西は布袋を自分のバンドのギタリストとして誘ってみようかと考え出すのだった。
数日後、寺西からの電話で、布袋に2人でバンドを組んでみないかという提案がもちかけられた。 少し考えたあと、布袋はその提案に乗ってみることにした。
バイトしながら生活費を稼ぐと共に、曲作りに励むという毎日が始まった。 また、寺西と布袋がそれぞれボーカルとギターをやるという以外、残るメンバーに当てはなかったので、2人はとりあえず、あちこちのライブハウスにメンバー募集の貼り紙をしてみることにした。
だが、オーディションに集まってくる連中の中に、これといっためぼしい人間は見当たらず、 たび重なるオーディションに2人ともうんざりさせられるのだった。
そんな彼らの前にデスペナルティの解散以来、活動の場を別にしていたベースの松井恒松が噂を聞きつけ、バンドに参加したいと申し入れてきた。
デスペナルティ解散後、松井は「織田哲郎&9thイメージ」というバンドで活動を続けていた。 1980年9月にはこのバンドでアルバムデビュー。
その他にもスポーツメーカーのCM曲作りやコンサート活動に参加するなど、仲間内では一番堅実に活動を続けていた男である。
寺西は耳を疑ったが、彼が本気であることを知ると喜んで迎え入れた。 気心の知れた松井の参加は寺西にとって心強かったし、布袋とも打ち解けて話し合うようになるのに、さほど時間はかからなかった。
残りのメンバーを選ぶオーディションはここで中止された。 松井の加入は、寺西と布袋に腕よりも気の合う人間のほうが大切だということを教えてくれたのだ。
こうして残りのメンバーを集めるため、昔からの知り合いや、仲間だった連中で見込みのありそうな者に声がかかった。
そして集まったメンバーは、昔のバンド仲間であるギターの諸星アツシとサックスの深沢和明。 そして、寺西が「スピニッヂ・パワー」時代に唯一気の合った人間、ドラムの木村マモルの3人だった。
ようやくバンドとしての形も整い、メンバーはバンド名を「暴威」として活動を始め、芸名を「氷室狂介」とした。
このバンド名は、寺西や布袋が敬愛していたデビット・ボウイを日本語で語呂合わせした「暴威」という文字から来ている。また、「氷室」の語源は、漫画「ワル」(真樹日佐夫 作・影丸穣也 画)に登場する主人公に由来する。
