こんばんは!
いや~、ようやく今週も終わりましたね~
今週はフルフル5日間の営業だったので、カラダ的にも結構疲れましたかね。
ただ、江戸はこのところずっと曇りか雨のグズついた天気が続いていて、最高気温も高くて30℃くらいだったので、そういった意味では恵まれている感じもしますでしょうか。
さてさて、楽天ブログ時代から通算すると、(FC2も含めて)拙ブログももうすぐ丸5年を迎えることになります。
その間、何度か過疎ることもありましたが(笑)、おかげさまで何とか続けることができています。
そんな中、事実上終了して4年以上経過した楽天ブログで今なおご好評いただいている「氷室ックシリーズ系」を強引にアメブロでも展開させていただきます(笑)
と言っても、今回は「BOOWY HISTORY」シリーズになりますね。
BOOWY誕生前から解散後の「LAST GIGS」までの9年間の動きについて、1年単位でほぼテキストのみでお示ししたいと思います。
【1979年】
音楽楽器メーカーであるヤマハの主催で、全国を9ブロックに分けて行ったアマチュアバンドのコンテスト。その関東甲信越ブロック大会の名称が1976年から始まった「EAST WEST」であった。
寺西と松井の参加していたアマチュアバンドのデスペナルティは、ほとんどのアマチュアがそうであったように、 プロになることを目標に活動していた。地元のファンのみならず、他の地区のアマチュアバンドからも注目を集め出した彼らは、 いくつかのアマチュア大会で入賞を繰り返し、EAST WEST '79で入賞したのをきっかけに、ようやく上京を決意。
大会の主催者であったヤマハからの誘いもあったが、デビューをエサに契約を迫ってくるようなやり方が気に入らず、 それを蹴って「ビーイング」(設立メンバーの1人にプロデューサーとしても有名な織田哲郎がいてました)という音楽事務所と契約を結ぶことにしたというエピソードがある。
そして、待望の東京での音楽活動が始まろうとしていた。だが、練習を開始してしばらくすると、 事務所側は突然バンドを解散しろと言い出してきた。実力不足が理由だというが、どう考えても理不尽な命令ではあった。 しかし、上京したてのうえに、プロの世界については右も左もわからない寺西達にとって、事務所の命令は絶対だった。結局バンドは解散。メンバーはそれぞれ別の仕事のためにチリヂリとなり、寺西は知らないバンドのボーカルをあてがわされることになった。
「寺西修一」という芸名で新たにボーカルを努めることになったバンド「スピニッヂ・パワー」は、 当時流行のディスコミュージック風の音楽をレパートリーとしていた。 このバンドが発表したレコード「ボロー・ボロー・ボロー」(1979年12月12日発売)が、寺西にとっての実質的なプロデビューということになった。 しかし、寺西にしてみればこのバンドでの活動は面白くもなんともなく、歳の離れたメンバーに囲まれ言いたいことも言えず、 ひたすら耐える事を強いられるのだった。

