人生は「CARPE DIEM」 with ロレックスⅡ -32ページ目

人生は「CARPE DIEM」 with ロレックスⅡ

大好きなロレックスと歩む日々を綴ったブログです。

こんばんは!

 

いや~、ようやく今週も終わりましたね~

 

今週はフルフル5日間の営業だったので、カラダ的にも結構疲れましたかね。

 

ただ、江戸はこのところずっと曇りか雨のグズついた天気が続いていて、最高気温も高くて30℃くらいだったので、そういった意味では恵まれている感じもしますでしょうか。

 

 

さてさて、楽天ブログ時代から通算すると、(FC2も含めて)拙ブログももうすぐ丸5年を迎えることになります。

 

その間、何度か過疎ることもありましたが(笑)、おかげさまで何とか続けることができています。

 

そんな中、事実上終了して4年以上経過した楽天ブログで今なおご好評いただいている「氷室ックシリーズ系」を強引にアメブロでも展開させていただきます(笑)

 

と言っても、今回は「BOOWY HISTORY」シリーズになりますね。

 

BOOWY誕生前から解散後の「LAST GIGS」までの9年間の動きについて、1年単位でほぼテキストのみでお示ししたいと思います。

 
なお、合間合間にソレ以外の記事も挿入拳しますのでよろぴくオナシャス!

 

 

【1979年】

音楽楽器メーカーであるヤマハの主催で、全国を9ブロックに分けて行ったアマチュアバンドのコンテスト。その関東甲信越ブロック大会の名称が1976年から始まった「EAST WEST」であった。

 
その'79年大会で、恐ろしく完成度の高い楽曲「ブルー・シガレット・ラブ」で北関東ブロックを勝ち上がってきたのは、群馬県高崎市の「デスペナルティ」。唄もダントツ上手い。見事に入賞を果たし、さらにベストボーカリスト賞も獲得した。 そのボーカリストとは寺西修=氷室ックの本名(後に氷室京(狂)介)であり、メンバーの中にはベースを努める松井恒二(後に松井恒松)の姿があった。
 
【向かって左が寺西修さん】

 

寺西と松井の参加していたアマチュアバンドのデスペナルティは、ほとんどのアマチュアがそうであったように、 プロになることを目標に活動していた。地元のファンのみならず、他の地区のアマチュアバンドからも注目を集め出した彼らは、 いくつかのアマチュア大会で入賞を繰り返し、EAST WEST '79で入賞したのをきっかけに、ようやく上京を決意。

 

大会の主催者であったヤマハからの誘いもあったが、デビューをエサに契約を迫ってくるようなやり方が気に入らず、 それを蹴って「ビーイング」(設立メンバーの1人にプロデューサーとしても有名な織田哲郎がいてました)という音楽事務所と契約を結ぶことにしたというエピソードがある。

 

そして、待望の東京での音楽活動が始まろうとしていた。だが、練習を開始してしばらくすると、 事務所側は突然バンドを解散しろと言い出してきた。実力不足が理由だというが、どう考えても理不尽な命令ではあった。 しかし、上京したてのうえに、プロの世界については右も左もわからない寺西達にとって、事務所の命令は絶対だった。結局バンドは解散。メンバーはそれぞれ別の仕事のためにチリヂリとなり、寺西は知らないバンドのボーカルをあてがわされることになった。

 

「寺西修一」という芸名で新たにボーカルを努めることになったバンド「スピニッヂ・パワー」は、 当時流行のディスコミュージック風の音楽をレパートリーとしていた。 このバンドが発表したレコード「ボロー・ボロー・ボロー」(1979年12月12日発売)が、寺西にとっての実質的なプロデビューということになった。 しかし、寺西にしてみればこのバンドでの活動は面白くもなんともなく、歳の離れたメンバーに囲まれ言いたいことも言えず、 ひたすら耐える事を強いられるのだった。