こんにちは!
いや~、きょうも都区部はメッチャ涼スィ~ですね~
今夏以降初めて、今朝は汗をかかずに出勤できました。
ただ、週末は台風の影響を受ける可能性もありますので、首都高の爆走は自粛したいと思います(笑)
さてさて、ご好評?いただいているBOOWYシリーズですが、快進撃を始めた1985年からロックバンドとしての頂点を極めた1986年にかけてと言うのは、BOOWYの歴史の中で最も重要な期間であったと個人的に思っています。
ってことで、今日は1985年の詳細①を展開したいと思います。
【1985年の詳細①】
氷室と布袋は、次のアルバムを作るための選曲、作品づくりに追われた。
年が明けて'85年、レコード会社が東芝EMlに決定した。
1月の寒いある日、BOOWYのメンバーは、東芝EMlの会議室でプロデューサーの佐久間正英と会った。
彼の名前はもちろん知っていた。
元プラスチックスのメンバーであり、プロデューサーとしても有名な人物だった。
糟谷と東芝EMIのディレクター子安次郎の「飛び抜けた感性の人間と仕事をさせてみたい」という考えから、 佐久間正英がサウンド・プロデューサーとして候補に上がっていた。
お互いに初対面。
佐久間は布袋に負けない長身だった。
彼がちょっと困ったように口を開いた。
「バンドはあまりやりたくないんだ。」
彼が言うには、ソロならば、アーティストと自分とで最後まで音をつきつめられるが、バンドだと、バンド内で仕上がった音は、もうそれ以上つきつめられなくなる。
つまり、そこに自分が入るとやりにくくなるということだ。
ただ、BOOWYの音には興味を示した。
少し重い空気の中で話し合いが進み、最後に彼はポロッともらした。
「もし、今後、東芝とユイがBOOWYを本気でやるつもりだったら、お金を出せるんだったら、ベルリンにいいスタジオがあるし、若くて才能のあるエンジニアがいるんだけど。」
(このとき、「ベルリンでのレコーディングをちらつかせれば、BOOWYのプロデュースを断れるだろうと思っていた」と後年ネタ交じりに述懐している。)
この言葉にメンバーの顔が輝いた。
ドイツの音はレコードでよく聴いて知っていた。
もちろん自分たちにピッタリだということも。
「良いですね」と布袋。
「ちょっと待ってください」とスタッフ。
いくら力を入れるといっても、年間の予算をすべてレコーディングに使ってしまうわけにはいかない。
ベルリンのレコーディングがいくらかかるのか見当もつかない。
会議室を出た糟屋はさっそくベルリン・レコーディングにかかる金の計算にかかった。
ところが、意外なことにお金の面では日本でやるのと変わりはしなかった。
ただし、2週間ほどで終われば。
「オレたちはそんなに時間はかかりませんよ」とメンバーはいうものの不安は残る。
行ってしまってからはどうしようもないのだ。
結論が出るのに1か月かかった。
既にメンバーはレコーディングのためのリハーサルに連日追われていた。
メンバー側にはもう何の心配も残っていなかった。
曲は揃っていたし、詞もほぼ上がっていた。
ベルリンのハンザトン・スタジオは望む最上級の場所だった。
曲のアレンジのほとんどをつくりあげる布袋は、ベルリンという言葉が出たときから、BOOWYの次の音が見えてきていた。
「細かいことをやらないで、4人の個性をズバッとそのまんま出せるアルバムにしたい。ドラムの音の良さ、ベースの音の良さ、ヴォーカルの音の良さ、ギターの音の良さ。それを追求したい。ベルリンならそれができるはずだ」と。
こうして'85年2月24日早朝、BOOWYのメンバーとスタッフは、ブリティッシュ・エアラインの747便で成田を飛び立った。 アンカレッジ、ロンドン、ケルン、ボン空港を経てベルリンのテーゲル空港まで、太陽に逆らって飛ぶ。
何回も出される機内食に飽き飽きした頃、やっとテーゲル空港に到着する。
出発の飛行機が半日遅れたおかげで、ベルリンは夜の10時を回っていた。
暗闇に点々と広がる灯を見下して布袋は、まるで「ブレード・ランナー」の映画の中に降りていくような感じがした。
「おお、きれいだな」とつぷやく。
日本の北端よりもまだ北に位置する街なのだが、雪は見られない。
代わりに暗い闇が重く横たわっていた。
その日のテーゲル空港の最後の客となった一行は、ゲートを出て、まずそのシンシンと降り積もるような重い空気に心を奪われた。
「期待したとおりの雰囲気だね」とギター・ケースを手にした布袋が言った。
「気持ち良いよ」と松井。
ベルリンの空気もそうだったが、彼は飛行機の中で日が昇ったり沈むのを見てどうも気分が優れないでいた。
「これぐらいじゃなきゃやってきたって感じがしないもんね」
高橋は、妙に寂しい空港に、ちょっとばかりシビアな気持ちになっていた。
氷室は、デビッド・ボウイが「ロウ」や「ヒーローズ」に使用したハンザトン・スタジオに思いを馳せていた。
ホテルヘ向かう車の中に、かすかに石灰の匂いが入りこむ。
弱々しく光る街灯は、闇の中にボンヤリと浮かんでいた。
異国の雰囲気は彼らの気持ちをレコーディングヘと集中させていった。
予定されたレコーディング期間は、ミックス・ダウンを除くと9日間しかない。
翌日からさっそくリズム録りのスケジュールが入っているのだ。
メンバーは、見知らぬベッドで浅い眠りについた。
ホテルとハンザトン・スタジオとは歩いて5分と離れていない。
しかも、ベルリンを東と西に分ける「壁」のすぐそばだ。
ホテルを出て、壁に向かって300メートルほど歩いて、壁づたいにほんの少しだけ行くと左手の奥にスタジオが見えてくる。
この道を彼らは何日間か通った。
壁の西側には切れめなく、スプレーやペンキで落書きが続いている。
もちろんそこには、 戦争の傷跡として同じ街が5メートルもの壁で全く別の世界に造り変えられたという悲しい歴史があるのだが、 そのカラフルな色彩を「きれいだ」と見ることも間違ってはいないだろう。
前日、深夜のホテルにたどりついたBOOWYたちは、レコーディング第1日目を、夕方の楽器のセッティングから始めた。
BOOWYの音を作るためには、楽器は重要だ。
多い荷物の中に、布袋のギターとアタッチメントと松井のベースを入れないわけにはいかない。
ドラムセットまで持ちこむのは難しいと言われた高橋は「スネアとフットペダルぐらいはお願いしますよ」と強調した。
ベルリンで用意してもらったドラムセットに自分のスネアとフットペダルを取り付け、スティックを握ってみた。
ドラムの前に座れば、日本でもベルリンでも同じだった。
「じゃあちょっと様子を見るために1発叩いてみましょうか」
石造りの建物の中に木を張り付けたスタジオ。
ドラムの重いリズムが響き渡った。
ミキサーの前に座っているのは、佐久間が日本で「若くてウデのいいヤツがいる」と言っていた、マイケル・ツィマリングだ。
高橋のドラムを聴きながら布袋は思わず心の中でニンマリとした。
「やっぱりこの音はすげえ気持ち良い。音自体にパワーがある。マコッちゃんが思いっきり叩いて、マッちゃんが思いっきり弾いて、 ヒムロックが思いっきり唄えば絶対イイものができる。」
何も言わなくても、マイケルの音は、当り前のようにヌケていた。ヌケる音をつくるためにどうしようと悩む必要はない。
期待したとおりのエンジニアだった。
その日、マイケルがドラムの音をつくったところで、布袋をはじめ、BOOWYのメンバーの心配はすべて消えた。
あとは思いっきり演奏して歌えばいいだけだ。
曲もアレンジもすべて出来上がっていた。
それまでの2作のアルバムが、スタジオの空き時間を使ってレコーディングし、レコード会社が決まるのを待っていたのとは大きな違いだ。
マイケルは、腕が立つだけでなく、気さくなおもしろいヤツだった。
ドイツ語はもちろん、英語もペラペラなのだが、メンバーたちにわかりやすいようにひと言ひと言教科書英語で説明を加える。
スタジオの下にあるレストランのメニューが理解できなければ、丁寧に英語と身ぶりで説明をはじめる。
マイケルとBOOWY、そしてその間に入って細かいアドバイスを入れる佐久間。
この組み合わせでレコーディングはすべて順調に進んだ。
毎日、重い雲に包まれた街を、壁づたいに通う。
朝の10時にスタジオに入って夜の11時頃にはホテルに戻ってくるという健康的な生活。
朝食はホテルのセルフサービス。あとはほとんどスタジオの下にあるダカーポというレストラン。
トンカツに似たウィナー・シュイッツェルがヒット作だった。
夜中になると、屋台のソーセージ屋へ足を運ぶ。
それでも日本の味は恋しくて、持っていった味噌汁とカップ・ラーメン、お茶のパックは競争率が高かった。
レコーディングがひどく順調だったおかげで、先に録音を終えたリズム隊の高橋と松井は、スタッフと一緒に東ベルリンヘも出かけた。
西ベルリンよりもさらに重さ感じさせる街。
壁がとぎれたところにある検門所でチェックを受ければ簡単に東側に行ける。
ただそこには、表情を消し、自動小銃をかけた兵士が立ち、カメラを向けると「ノー・ピクチャー」と鋭い声が返ってくる。
松井は検門所で、おみやげ用に買っておいた「西側の壁」の写真を没収されてしまった。
高橋はベルリン滞在中、東ベルリンと壁のことが最も印象に残っている。
布袋は、ベルリンの張りつめた空気にとりつかれた。
氷室は、ベルリンという街がひんやりとして自分たちと合っているということ以上に、BOOWYというバンドとそのプロジェクトがベルリンまでレコーディングで来るようになったことに大きな意味があることを感じていた。
BOOWYはベルリンで、シャープな音をつくりあげると同時に、アーティスティックなエンジニアとの出会いを得、 日本での活動イメージの芽のようなものを掴んだようだった。
ベルリンでのレコーディングを予定どおり終え、オフの1日を映画を見たりフォト・セッションで過ごした。あと、BOOWYはロンドンヘ飛んだ。
ロンドンでのスケジュールは、フォト・セッションと3月12日のマーキー・クラブのライヴだった。
マーキー・クラブは、ロンドンでも老舗のライブハウスだ。
BOOWYのスタッフは、日本に帰ってくる前のちょっとした肩ならしのようなつもりで、ヨーロッパのコーディネイターに電話を入れていた。
コーディネイターは、ライブハウスを押さえるだけでなくプロモーションもやる。
街のあちこちに「LIVE FROM JAPAN BOOWY」と刷りこんだポスターが貼られ、ラジオでも何回か曲が流れた。
驚いたのは本人たちだった。
ミック・ジャガーやジュリアン・レノンのポスターとBOOWYのそれが並んで貼られている。
カメラマンがカゼで寝こんだ分だけ、タクシーや地下鉄で買い物に出かけたメンバーは、自分たちのポスターを見つけるたびに「ホォー!」と声をあげた。
キングス・ロード、コベント・ガーデン、洋服からクツから何でもある。
レコーディングを終えてひと息というときのショッピングほど気楽なものはない。
帰りのバッグの中味がどんどん増えていくばかりだ。
後日のフォト・セッションでは、カメラマンの車に乗って街中を走り回った。
橋を渡り、下を走る鉄道との立体交差になっている道路を登り切るとすぐに道は左に折れる。
正面には、不注意でスピードを出しすぎたらぶつかってしまいそうなところに直径20センチほどの木が立っている。
木は人形やカードで飾られていた。季節はずれの寂しいツゥリーのように。
そこがT・レックスのボーカルだったマーク・ボランの車が突っこみ、彼を天国に送った場所だった。
川辺の火力発電所跡のエントツのあたりをうまく切りとってブタを飛ばせばピンク・フロイドの「アニマルズ」というアルバム・ジャケットになってしまう風景。
もちろんジャケットと同じ。
高橋はマネージャーの土屋をさ誘ってアビー・ロードへと出かけた。
ファンになりきれるステキな時間があった。
そしてマーキー・クラブでのライブ。
高橋は久しぶりにライブをやるということに緊張していた。
松井もエキサイティングになっていた。
日本のライブよりも自然に気持ち良くなれることがちょっぴり悔しかったけど。
このライブをすごく楽しみにしていたという氷室のボーカルが「ハイウェイに乗る前に」を客席に送る。
マーキー・クラブは立ち見いっぱいの約600人が「日本のロック・バンド」に注目していた。
氷室の目にも、そんな探るような視線がいくつも感じられた。
しかし、彼はおかまいなしに続ける。
この日のメニューは「ハイウェイ~」に続いて
○Baby Action
○No!N.Y.
○London Game
○Teen Age Emotion
○Give it to Me
○This Moment
○Cloudy Heart
○Dreamin'
○CHU-RU-LU
○Oh My Jully
そしてアンコールの
○Guerrilla
○Midnight Runners
○Image Down
日本から来たのになんでロンドンの服を着てんだ、と延々と騒いでいた客もいた。
布袋がギターを弾いてる前にやってきて、しきりにビールを勧める客もいた。
そういう客は別として、ステージの上から見たイギリスのオーディエンスは素直でハッキリしていた。
日本の音=異色ロックを期待してきた客は早々に立ち去り、イギリスらしさともいえる正統派のロックに、思わず嬉しくなってしまった連中は、アンコールの手を止めなかった。
今までどおりのライブをやり、イギリスのロック・フリークをも熱狂もさせた。
しかし、彼らの頭の中では日本のことがちらついていた。
久しぶりに手にした「ライブ感」は、「日本のヤツらにも早くこの音を聴かせたい」という思いに成長していった。
パワフルでポップでカラフルでシャレオツでアートっぽい不思議な音楽だという感想をイギリス人に抱かせたのも、BOOWYが東京で活動してきたからだと布袋は考えた。
ロンドンよりも東京、そして全国へ。
マーキー・クラブの打ち上げで、日本製のビールを飲みながらそんなことを考えていた。
マーキー・クラブでのライブから5日後、ベルリン残ってミックス・ダウンをしていたマイケルから送られたテープをウォークマンに放りこんでメンバーは飛行機に飛び乗った。
3か月後に世に出るBOOWYの3rdアルバム「BOOWY」を何度もリピートしながら飛行機は成田へ向かっていた。

