こんにちは!
いや~、きょうの江戸はきのうまでとは打って変わってヒジョーに涼スィ~ですね~
まあ、きょうで8月もおしマイケル(古)ですので、このママ秋に突っ込んで行って欲しいですね。
さて、きょうもガッツリとBOOWYシリーズをブッ込ませていただきます。
いよいよ、BOOWYが快進撃を開始した1985年の動きになります。
【1985年】
年明け早々、BOOWYはユイ音楽工房と正式な契約を結んだ。
3度目のレコード会社は、邦楽ロックのメジャーである東芝EMIに決定した。
ニューアルバムの制作にあたって、今までのアルバムは布袋がプロデュースしていたが、本格的なプロデュースの作業を学ぶために元プラスティックスの佐久間正英にその仕事を依頼することにした。
レコーディング先は布袋と佐久間の話し合いの結果、両者一致でドイツのハンザトン・スタジオが選ばれた。
そして2月24日の朝、BOOWY一行は成田を出発し西ベルリンへと向かった。
ミキサーにはマイケル・ツィマイリングを迎え、約2週間ほどの短い期間ではあったが作業は順調に進み、満足のいくアルバム作りをすることが出来た。
その様子について、後に氷室はこう語っている。
「3枚目のアルバムはまたレコード会社が変わったその契約の関係で、前作からインターバルを置かざるを得なかった。
音楽的には流行りの音とか淘汰されて、ある程度バンドとして固まりつつあった。
ヴォーカルをメインに置いてギターの存在感を出すみたいな。
このアルバムでは佐久間(正英)さんがプロデューサーとして立った。
バンド内に入り込んでこられる人がいて、うまく整理しながら成功した例っていうのもこれが初めてだね。
モリオさんも頑張ってくれたけど、ファーストの時はメンバー1人ひとりの許容量が少なかったから。
『INSTANT LOVE』までは、対外的に"気持ちいい疎外感"があった。
それがこの頃から受け入れられるようになっちゃってさ、アレッ?ヘンだなって。
褒められると照れちゃうような。素直じゃないんだね。
でも本当にわかってるのかな?って不安もこの時期ぐらいから感じるようになった。
3rdアルバムから、がぜんいろんな要素が入ってきたからさ、作ってる当人がたとえばこの赤がいいんだと思って絵を描いていても、その隣で使ってる黄色が他人は好きだったりするかもしれないじゃない?
まぁ、作品の解釈って最終的には人に委ねるモノだから、頭では理解してるけどね。
メンバー間の、例えばステージに立った時の精神的な交流みたいなこととか、話をしなくてもうまくいく時期だったんじゃないかな。
やっぱ、ステージに立って布袋がすげえカッコイイって意識した頃だし。
だから、それまでのワケのわからないパワーとかそういうのとは違った、自分たちがやりたいことを伝えていく方法がしっかり見えてきたんだと思う。
エンジニアのマイケル(ツィマリング)の力もけっこうデカい。
オレの意識の中でエンジニアって、ミュージシャンから言われた要求をうまく処理できる人間という意識だったんだけど、このアルバムでマイケルとやったらぜんぜん違った。
やっぱりアーティストだっていうさ。いい意味で戦ったよね。
オレの詞に小技みたいなのが出てきたのはベルリンに行ったことがけっこう影響してるんじゃないかな?
行ってレコーディングの最中に詞を書いたりとかしてたから。
やっぱり日本と違う状況で魂が開放できるでしょう。
レコーディングに専念できて、音作りと作品を作ることに関して楽しい解放ができるというか・・・。
3枚目にはバンドの最後の方までずっとやってた曲がけっこう入ってる。
『DREAMIN'』、『HONKY TONKY CRAZY』、あと『CLOUDY HEART』も。
確かに1曲1曲がしっかりしたことは言えるね。
たとえばベースやドラムのリズム・セクションにしても2枚目より格段の進歩をしてる。
当時の布袋やオレの考えつく音の整理の仕方や加え方より、やっぱり佐久間さんのやる方がもうワン・ランク上だった。
コンピューターを入れたりシンセ類で音の穴を埋めていくとか、絶妙だった。
そして、その音の1粒1粒をマイケルが手掛けると、日本で作ったモノとは違う何かが吹き込まれるという印象もすごいあったしね。
このアルバムと時を同じくしてライヴも渋谷公会堂でやったりして、ベーン!といく最初のきっかけになったんじゃないかな?
衣装とかも確かこの頃からけっこう自分たちで作ってやるようになったんだよね。
ありものじゃなくて。だから一つのアイデンティティーというか、これがBOOWYなんだってところをちゃんと見せる1枚になったと思う。
それでタイトルも『BOOWY』にしたんだし。
何か燻ってた火にいきなり点火したような印象があるかもしれない。
あと松井(五郎)さんとの共同作業もこのアルバムで始まるんだよね。この次に出す『JUST A HERO』の歌詞の世界の原型になるアイデアも出てきた。
シュールっていうかさ、直線的ではない、何か言葉の中にあるもう1個の言葉みたいなね。
それを自分の表現の中でどれだけできるかを考え始めてた。
ともかく上昇気流に乗ってきたことは感じた。
渋公やって成功したから次は武道館だって。
トントン拍子に何でもうまくいっちゃう気配があったよね。
何が原因なのかよくわからなかったけど。」
その帰り、一行はロンドンへと飛んだ。
ロンドンには1週間ほどの滞在だったが、その中ほどである3月12日、主たる目的である世界的に名高い老舗のライブハウス、マーキー・クラブへ出演することになった。
始まる前こそ緊張していたメンバーも、演奏が進むにつれ熱狂的になるオーディエンスの反応に確かな手応えを感じ、大きな自信を土産として持って帰国するに至った。
そして、帰国してしばらく後の4月13日、赤坂ラフォーレ・ミュージアムでマスコミを招いてのライブが行われた。
BOOWYにとっては初めてマスコミに招待状を送ったライブであり、半年間の休止にもかかわらず多くのファンが駆けつけてくれていた。
マーキーでのライブが話題になっていたのか、客席には来日中のディベッシュ・モード、E・ノイバウンテンのメンバーがその顔ぶれを見せていた。
そして6月1日にはセカンドシングル「HONKY TONKY CRAZY」が発売、続いて3rdアルバム「BOOWY」が発売された。
前作から約2年ぶりのことだった。
そしてこれに合わせて6月25日、ライブハウスを出て、初めてコンサート会場でのライブが行われた。
場所は渋谷公会堂。
初めてのコンサート会場としてここを選んだ彼らはその広さに驚きつつ、はたして客席が埋まるのかどうか不安であった。
だが、予想に反して前売りチケットはすぐに売り切れ、当日券も完売。
満員の客は彼らのエネルギッシュなライブに酔った。
8月22日、初の12インチシングルとして「BAD FEEELIN'」と「NO! N.Y.」がカップリングで発売された。
また、ビクターで出されていた1stアルバム「MORAL」が再発されるなど人気の高まり具合が知られるようになってきた。
10月24日、山中湖のミュージックインスタジオにて次回作のレコーディングを開始。
氷室と布袋によって30曲という大量の曲が作られ、その中から使用される曲がセレクションされた。
アドバイザーとして前回と同じく佐久間、そしてマイケルがミキサーとして参加してレコーディングは進んでいった。
山中湖から河口湖のスタジオへと、間に11月のツアーをはさんで、再び伊豆のキティスタジオでレコーディングが続けられた。
12月24日、渋谷公会堂で行われたコンサートのアンコールの場で、布袋は結婚することをファンに報告した。
その場で紹介したその相手とは、ロックの女王といわれる山下久美子だった。
これ以降12月24日での渋谷公会堂でのコンサートが恒例化する。
そして年末にもかかわらず、12月27日よりトラックダウンのためにメンバーは再びベルリンへと向かうのだった。
LIVE SCHEDULE
03.12 marqee club(IN LONDON)
04.13 赤坂ラフォーレ・ミュージアム
06.20 高崎市文化会館
06.25 渋谷公会堂
BEAT TO PLATON
06.27 大阪バナナホール
06.28 大阪バナナホール
07.01 名古屋ハートランド
07.02 名古屋ハートランド
07.19 札幌ペニーレイン
07.20 小樽第2埠頭(ポートフェス)
08.11 スポーツランドSUGO(ROCK'N'ROLL OLYMPIC '85)
09.05 安田生命ホール
BOOWY'S BE AMBITIOUS
09.06 名古屋芸術創造センター
09.17 福岡都久志会館
09.18 熊本郵便貯金会館
09.20 京都教育文化会館
09.23 大阪厚生年金会館中ホール
09.24 高知県民オレンジホール
11.03 熊本県立劇場(熊本商科大学学園祭)
11.04 福岡大学高宮校舎体育館(福岡大学学園祭)
11.05 駒澤大学記念講堂(駒澤大学学園祭)
11.09 桃山学院大学(桃山祭オールナイト・フェス)
11.12 石川教育会館
11.13 新潟市公会堂
11.25 日本青年館(NHK MUSIC WAVE)
11.29 横浜教育会館
12.06 日本武道館(ギャッツビーライブ)
12.09 広島市公会堂(広島女子文化大学学園祭)
12.12 札幌市民会館
12.13 秋田市文化会館
12.16 仙台電力ホール
12.18 宇都宮市文化会館
12.20 群馬音楽センター
12.24 渋谷公会堂
