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人生は「CARPE DIEM」 with ロレックスⅡ

大好きなロレックスと歩む日々を綴ったブログです。

おはようございます!

 

いや~、今週も始まってしまいましたね~

 

今朝の都区部は月曜からメーアーという最高のコンディションとなっております。

 

今週もガッツリ5日間、カマしてまいりましょう!

 

さて、きょうも前回の続き、1985年の詳細②でございます。

 

【1985年の詳細②】

'85年4月13日、BOOWYはその年2回目のライブを赤坂ラフォーレ・ミュージアムで迎えようとしていた。

情報誌の「ぴあ」にたった一度だけ告知されたこのライブの情報に飛びついたファンのためのイスがステージの上に並べられていた。

そして、その後ろに一段高く組まれた150余りの座席がマスコミのために用意された。

それまで、プライベート・オフィスで活動してきたBOOWYにとって、マスコミは招待すべき人たちではなかった。

別に嫌ってたわけでも何でもない。

ライブハウスでのチケットの売り上げが全ての収入だった彼らにすれば、招待という言葉は意味をなしていなかったのだ。

このライブでBOOWYは、初めてマスコミに招待状を送っていた。

 

東芝EMlの宣伝部に所属する鶴田正人は、この日、マスコミの受付けデスクに座っていた。

アーティストの宣伝を担当する者にとって、この受け付けという仕事も大切なもののひとつだ。

来訪者用の真白な記帳ノートを広げながら、彼はまだほんの少し不安が残っているのを感じていた。

ステージに対する不安ではない。

BOOWYのステージに関しては、1か月前に見たロンドンのマーキー・クラブでその実力は確信している。

「不安」という言葉は当てはまらないかも知れない。

彼の頭の中を錯綜させていたのは、この可能性を大いに秘めたバンドを、どうすればいちばんうまくアピールできるかということだった。

そのことに関する不安はいくつかある。

彼がそれまでいくつかプロモーションを行ってきたマスコミの人たちの間に、「BOOWYはパンク・バンドじゃないの?」という認識が強いこと。

パンクはそれだけでも毛嫌いされてしまうところが多分にある。

 

実際、BOOWYが東芝EMlと契約をした後、社内に配られたイメージ写真はドの付くぐらいのパンク・スタイルだった。バンドの音は無く、その写真と「ビートルズの殻をかぶったニュー・ウェイブ」という社内コピーが回ってきたとき、そのコピーと写真ではBOOWYというバンドの実体はつかみ切れないのが当然だった。

おまけに、デビュー・アルバムから知っているような人にとっては、当時の音や詞から、どうしてもポップというよりはパンクの方向へと行ってしまう。

BOOWYのイメージと現在の音のギャップ。

それはまず新しいライブを観てもらえればある程度は理解してもらえるのかも知れない。

BOOWYが東芝EMIと契約を交わして4か月が過ぎようとしていた。

その間、彼らはベルリンでのレコーディング、ロンドンの旅とその準備に追われてきた。

したがってEMlの社内でさえ彼らのライブを見たことのない人間がほとんとだった。

担当ディレクターの子安次郎も本格なライブを見るのはこの赤坂ラフォーレが初めてだった。

だが、BOOWYというバンドにだけは自信があると、子安や鶴田は思っている。

今まで付き合ったことのないタイプのロック・バンドだった。

これはライブを観ただけではわからないことだった。

ベルリンやロンドンで彼らに接してきたからこそわかることなのかも知れない。

 

鶴田には、あるひとつの些細なエピソードと共にロンドンでのBOOWYが強く印象に残っていた。

彼とメンバーとは、ロンドンのホテルが初対面だった。

そこでまず彼は、メンバーの親しみやすさに新鮮な驚きを感じた。

東京で見たパンク写真とのギャツプが逆に、彼に新鮮さを感じさせる要因となっていたのだ。

しかし彼らはそれだけではなかった。

ロンドンに居ながら、アーティストとしての自信に溢れ、媚びもなく、傲慢さもない。

まさしくこれまでに会ったことのないタイプのバンドだった。

彼の印象に残る些細なエピソードというのは、マーキー・クラブでのライブで使う1本のシールドだった。

ライブの当日、会場で忙しく動き回るメンバーやスタッフの中で、鶴田は手持ち無沙汰に立っていた。

こういうところでの宣伝マンの仕事はほとんと無くなってしまうのだ。

何かしなければ・・・。

そう思っているときに声をかけてきたのが、マネージャーの土屋だった。

「すいません、シールドをホテルに忘れてきたみたいなんですけど、取りに行って来てもらえませんか?」

「あ、いいですよ。」

彼は、1本のシールドをホテルまで取りに戻って土屋に渡した。それだけのことだった。

しかし、その小さな仕事のことで、氷室が土屋に疑問を投げかけたという話を後に聞いた。

氷室は、ステージを作っていくのは自分たちの仕事であって、たとえシールド1本であってもそれをレコード会社の人に取りに行ってもらうというのはスジが違うのではないかと言い張ったのだという。

ひとつのけじめの問題なのかも知れない。

鶴田にはそのことが今でも大きな印象として残っている。

氷室のデリケートな一面と共に、そんなことにでも時間を裂いて話し合えるということに小さな驚きを感じた。

 

マスコミ・コンベンションであるはずの赤坂ラフォーレに、プレイガイドで買い求めたチケットを握りしめた女の子や男の子たちが吸いこまれていく。

「コンベンションでも、ファンの子を入れるんだったらチケットを売ってください。」

それがBOOWYのファンに対するエチケットでもあった。

コンベンションだからタダで入って盛り上げてくださいというのは失礼だ。

BOOWYは、これまでどおりのBOOWY。

ライブハウスのときのファンに対する姿勢と少しも変わってはいなかった。

ステージに上がったBOOWYは、クールに、熱く、そしてポップに1時間余りのライブを楽しんだ。

彼らの目にも一段高いマスコミ席が映らなかったわけではない。

だが、それだからどうするというものでもないはずだ。

ただちょっと前の方よりノリが悪いな、ぐらいにしか感じはしない。

予定どおり、アンコールを1曲演り終えたあとで、タイミングよく「ホンキー・トンキー・クレイジー」をテープで流し、軽く手を上げて彼らは去った・・・。

インパクトの強さからいけば、このライブは、本人たちより見ている方にあった。

つまり、正直な聴き方をすれば、あまりにポップなBOOWYに驚いてしまったということになる。

それは、昔からBOOWYを知っているファンやマスコミ人にしてもそうだった。

そして、ここで初めてBOOWYのステージを見るという人間も同じだ。

一度ついてしまったイメージというものは恐しい。

「パンクっぽい」とどこかで思われてしまってからは、たとえ音が少しずつ変わってはいてもイメージだけは深く残ってしまうものなのだ。

「第一印象は意味がない。」

このステージにつけられた簡単なこのキャッチ・フレーズは、考えてみれば一番マトを得た言葉だったのかも知れない。

 

赤坂ラフォーレが、ファンやマスコミ人に軽い驚きと疑問符を投げかけたものだったとしたら、次に打つべきヒットは大きいものの方がいい。

ホームラン。

それが最高のヒットには違いない。野球で言えば、2回表のノーアウトからのホームランだ。

「渋谷公会堂でやりましょう。」

BOOWYと土屋は、ホームランを打つ場所をこう提案した。

やっとシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」とアルバム「BOOWY」の発売が決まったばかりのところにこれである。

当然のように、東芝EMlからもユイ音楽工房からも反対意見が出る。

「まだムリでしょう。」

誰の口からもこんな答えが帰ってきた。

渋谷公会堂は2,318席を持つ大ホールである。

いくらライブハウスでの実績があるとはいえ、難しい数字だ。

しかし、BOOWYと土屋には自信があった。

キャパシティだけの間題ではない。

表現空間の広さにも大きな魅力があった。

「大丈夫。」

メンバーからは軽い調子で言葉が帰ってくる。

周りのスタッフは、この冒険を半信半疑ではあったが、彼らの自信に押し切られて決定してしまった。

 

6月25日に渋谷公会堂をやる。

準備はゆっくりと、しかし確実に進行した。

布袋は、ギター・メーカーのフェルナンデスにオリジナル・ギターの相談を持ちかけ、心よくOKをもらっていた。

彼がテレキャスターに施していた「未来間」を表現したペインティングがそのままフェルナンデスの布袋モデルに生かされ、デザイン、音ともに満足のいくものが得られた。

ステージ衣装をたのんだ大久保篤志からは、サテン地のオシャレな衣装がとどいた。

「バンドはやりたくないんだ。」という彼に、BOOWYの音やビデオを見せて説得してしまった。

彼は氷室を見て「オーラのようなもの」を感じたという。

氷室は、用意されたジャケットに袖を通しただけで笑みを浮かべていた。

「すげえイイもの作ってくれたね。」

 

開演30分前の笑顔は、ステージにそのまま自信となって表われていた。

布袋は、新しいギターを抱えて、エフェクターのチェックを終えると、静かにその瞬間を待った。

氷室と同じような自信を顔にのぞかせる。

彼は、ロンドンでインターナショナル的な感覚を身につけて帰ってきている。

日本で、この東京で作り出していくBOOWYの音というものを冷静に見極め始めていた。

わかりやすく言うと、ロンドンが彼のスケールを大きく変えたということになる。

松井も、布袋とは違う意味でロンドンのライブ体験を大きく背負っていた。

彼は、マーキーのライブで今までに感じたことのない興奮を経験して帰ってきている。

その原因は、場所だったのかも知れないし、オーディエンスだったのかも知れない。

言葉では説明し切れないノリの良さだった。

ところが、日本帰国後のライブ、赤坂ラフォーレではどうしてもその興奮を感じられないでいた。

何が違うのかを考えてみても、うまくは結論が出てこなかった。

わかったことは、自分の意識を変えなければ、不燃のライブぱかりを残すことになるということだった。

渋谷公会堂のステージで彼はその糸口を探そうとしていた。

ステージは、メンバー達の予定どおり満員の客を詰めこんでスタートした。

「IMAGE DOWN」

ファースト・アルバムからの曲だ。

ただし、アレンジはポップなものへと変わっている。

今までやってきたライブハウスごと入ってしまいそうな広いステージで、氷室のアクションも自由と空間を獲得していた。

開演に少しだけ遅れて渋谷公会堂の扉を開けたある雑誌の編集者は、会場の床が抜け落ちるほどに踊る客にまず驚かされた。

しかし、よく見ると客だけではない、スタッフやマスコミ関係者までがビートを刻んで体を踊らせていた。

頭の中にいつのまにか入りこんでいた「パンクのBOOWY」というイメージがこの光景と共に吹き飛んでいった。

アルバム「BOOWY」で聴いた“カッコ良いじゃない”という感覚をそのまま素直に受け止めればいいんだという、いとも簡単な事実に、この場所で初めて気付かされた。

そして、こんな感情を同じように抱いていたマスコミ関係者が、渋谷公会堂に何人もいた。

アンコールまで1時間半近く、19曲を突っ走るように歌い抜けたBOOWYは、最後に、赤坂ラフォーレではテープでしか聴かせなかった「ホンキー・トンキー・クレイジー」を送ってステージを終えた。

 

「キグ・アット・ファースト・ホームラン」

またまたキャッチ・フレーズはピタッと当たった。

楽屋に帰ってきたメンバーの顔には、気持ちのよきそうな汗が光っていた。

高橋は「お疲れ・・・」と汗を拭きながら笑ってみせたものの、本当に今まであのステージに立っていたのかどうか、よくわからなかった。それほどに、2,318というオーディエンスは彼を興奮させていたのだ・・・。

BOOWYは、この渋谷公会堂で、パンク・イメージと本当の姿のギャップを一気に縮めることに成功していた。

BOOWYは、ポップでシャレオツなロック・バンドなんだぜ!そんな言葉が、何の疑問もなく語られはじめた。

歯車はゆっくりとかみ合い始めたのだ。