こんにちは!
いや~、今週もようやく木曜にまでキマシたね~
このところ、都区部は比較的過ごしやすい日が続いているので、いよいよ本格的なAutumunが近づいている感じでしょうか?
さてさて、ストイック?に続いているBOOWYシリーズですが、きょうは1985年の詳細③になります。
この3つの詳細を読むと、明らかに1985年がBOOWYにとって「飛躍の年」になったのかが良くわかりますね。
同時に、この年があったからこそ、「伝説のロックバンド」になり得たのだと強く感じます。
【1985年の詳細③】
渋谷公会堂を終え、大きな自信を得たBOOWYは、「BEAT TO PLATON」というライブハウスツアーに出かける。
6月27日、28日大阪バナナホール
7月1日、2日名古屋ハートランド
7月19日、札幌ペニーレイン
ここで初めて地方のイベンターの人たちとライブを組んだ。
自分たちでブッキングしていた時代とは明らかな違いがある。
まず、移動が車から新幹線や飛行機へと変わる。
待ちかまえたスタッフからは「荷物を持ちましょう。」という声がかかる。
「え!?いや、いいですいいです」
戸惑うのもこんな形なら気持ちが良い。
「もう1,000円だけ高いところにしようか」と悩んでいた宿のことも、すべて心配する必要がなくなった。
彼らは「良いステージをする」ことだけを考えれば良くなっていた。
こんなステキなことはない!
もちろん、どこのライブハウスも満杯で、招待した地方のマスコミの中には入り切らない人まで出てきてしまった。
「BOOWY」のレコーディングでつかんだ自信は、ライブやインタビューなどでも彼らをより自然体へと近づけていった。
インタピュアーに氷室が答える。
「自分たちが本当に演りたいことを演れるようになった。だからアルバムもこれがデビューだという気持ちで『BOOWY』」とつけた。すごく素直な出来だよ。」
「大きなレコード会社と契約したからってわけじゃないけと、ヒットだって当然狙います。
ミーハーって言われるかも知れないけどテレビにだって出たい。BOOWYって本来はそういうバンドだと思うよ。」
BOOWYの活動スタンスは、こうしてひとつずつ確実に築かれていった。
これまで、すべての面に目を通さなければならなかった時代・・・
例えば、ポスターのデザインから移動車の調子にまで・・・から、それをまわりの信頼できるスタッフに預けてしまえるようになったことは大きい。
それに、彼らにとっては力強いスタッフであるミキサーのマイケル・ツィマリングがベルリンからやって来ることになった。
彼は、12インチ・シングルの「BAD FEELIN'」のレコーディングのために来日し、ツアーにも参加することが決まった。
「BOOWY'S BE AMBlTIOUS TOUR」
年末までに20か所以上も回る初の全国ツアーである。
9月6日。名古屋芸術創造センターが、このツアーの初日だった。
初めて経験するステージ・セットは、ドラムの高橋を囲むシンプルな要塞の様な趣きで横たわっていた。
そのシックな色を後ろにして、ちょっぴりデーハーな衣装は、計算された照明と共に映えて見えた。
BOOWYとそのスタッフが作り上げたステージは、多少の空席ぐらいははね飛ばしていた。
ベストのステージをする。これしかない。
後のツアーで経験していくオーディエンスの倍々ゲームは、この瞬間から始まっていた。
BOOWYは、いろんな思いをこめてこの曲をオープニングに選んだ。
「DREAMIN'」
'85年9月6日、名古屋芸術創造センターを皮切りにスタートした「BOOWY'S BE AMBITIOUS TOUR」は、年末までに全国22か所を回るというスケジュールが組まれた。
このツアーの中身は、BOOWYのワンマン・ステージばかりではなかった。
学園祭、NHK-TV用のイベント、スポンサー付きのイベントなど、様々な形体をとっていた。
もちろんどのステージもBOOWYのステージには違いはないのだが・・・。
言わば、このツアーは、BOOWYというバントを全国のファンが確認しに来るというものであった。
レコードでしか知らない新しいBOOWYファンが、ステージはどんなものかという期待と不安をどこかに持っていた。
9月6日 名古屋芸術創造センター
9月17日 福岡都久志会館
9月18日 熊本郵便貯金会館
9月20日 京都教育文化会館
9月23日 大阪厚生年金会館中ホール
9月24日 高知県民オレンジホール
高知は、ちょうど1年前、まだプライベート・オフィスの時代にまわって、非常に盛り上がった場所だ。
このツアーで、せひ高知に来てほしいとアプローチをかけてきたのは、イベンターではなく、1年前にBOOWYのステージを見た若い人間だった。
彼らは、イベンターの手を通さず、会場のことから警備のことまで自分たちの手でやった。
このツアーの中で、唯一アマチェアの手によるステージ作りだった。
しかし、高知の非常な盛り上りとは裏腹に、アマチュアによる警備は裏目に出てしまう。
つまり、警備員からして盛り上がってしまい、歯止めのないままガンガンのステージになってしまったのだ。
あちこちでイスがこわれ、コンサートは無事終了したものの、以後BOOWYは高知でのライブができなくなってしまった。
11月3日 熊本県立劇場(熊本商科大学学園祭)
11月4日 福岡大学学園祭
11月5日 駒沢大学学園祭
11月9日 桃山学院大学
桃山大学の学園祭は、一部では有名である。
「桃山祭オールナイト・フェス」というこのコンサートは毎年、インディーズ系の人気バンドがオールナイトでGlGをくり返している。
いつもは教室として使われている少し大きめの講堂がその日のライブハウスとなる。
観客は当然、インディーズ好きの少年や少女ばかりだ。
夕方のアマチュア・バンドから始まって、夜中を過ぎる頃になると、いつ失神者が出てもおかしくないような盛り上りとなる。
ミチロウ、ゼルダ、ボイス&リズム、ブレイクダウンらと共に、BOOWYは初めてそのオールナイト・フェスに参加した。
BOWYはすでにインディーズ・シーンとは正反対の方向を向いているバンドだ。
しかし、ともすれば頑なにインディーズ・シーンにこだわり続ける観客に対して、BOOWYはストレートに、ポップなBOOWYをぶつけ、それを受け入れさせてしまった。
「ひさびさの酸欠状態が気持ち良かったね」
メンバーはそう言って引き上げた・・・。
11月12日 石川教育会館
11月13日 新潟市公会堂
11月25日 日本青年館
この日本青年館のコンサートは、「ミュージック・ウェイブ」と呼はれ、NHKが年に2回、これから期待されるバンドや歌手を集めて開いているイベントだ。
第10回を迎えたミュージック・ウェイブには、メロン、サンディ&ザ・サンセッツ、バナナラマ、PlNKらが出演した。BOOWYがトリを務めた。
このコンサートは、12月31日の夕方からNHK-TVで全国に放送され、大きな反響を呼んだ。
「TVて観てたんだけど、カッコ良かった。」
こういう新しいファンがそれ以後のライブ会場で多く見られるようになる。
放送されたその画面の中でBOOWYは、他のどのバンドよりも刺激的な魅力を放っていた。
ステージに下がった幕の後ろで、出番前の氷室がTVカメラに向かってピース・サインを送る。
彼がめずらしくおどけて見せているのは、久しぶりの東京のステージからくる余裕だろうか。
「久しぶりの東京で、せっかくのNHKで、まだまだみんなノリが足りないと思いバス!」
「ここはどこだい?東京だぜ!」
氷室が、お行儀の良い観客の心を解きほぐすかのように煽り、挑発する。
BOOWYは、日本青年館にいた1,400人の人間を自分たちのビートの中にとりこみ、十分過ぎるほどの笑顔で彼らに「THANKS!」を言った。
そして、その映像は、そのままの形でブラウン管へと届いた。
'85年12月31日にNHKでオンエアー、BOOWYのステージが初めて日本中を駆け抜けた。
11月29日 横浜教育会館
12月6日 日本武道館(ギャツビー・ライヴ)
「ギャツビー」という冠のついたイベントで、ARB、シーナ&ロケッツ、SHOW-YA、忌野清志郎らと共にBOOWYは今までで一番広い会場に立った。
'66年にビ-トルズが公演を行なってから20年。
そこはもう普通のライブ会場になっている。
だからあえてそこでライブをやる必要もないと感じていた。
正直なところ、武道館ではやらない方がかっこいいという気持ちが彼らにはあった。
「イベントだし、どうせ出るんならインパクトのあるとこで出たいね。」
「まきかトリを取るってわけにいかないし。」
「じゃあ、しょっぱなやって帰ろう。」
オープニング、30分のステージ。
冒頭、ヴォーカル・マイクが入らないというアクシデントにもかかわらず、あっというまに客をノせ、そのままサッサと引き上げてしまった。
まるで寄り道でもするかのように武道館のステージに立ったBOOWYは、後のバンドのステージも見ずに会場を去った。 会場は大したことはない。
しかし、あの広さをすべてBOOWYのファンで埋めつくしたとしたら、どんなにか気持ちの良いことだろう。
12月9日 広島市公会堂(広島文化女子大学園祭)
12月12日 札幌市民会館
12月13日 秋田市文化会館
12月16日 仙台電力ホール
12月18日 宇都宮市文化会館
12月20日 群馬音楽センター
12月24日 渋谷公会堂
1月14日の中野サンプラザ追加公演を残し、「BOOWY'S BE AMBlTlOUS TOUR」は年内で幕を閉した。
BOOWYという名前は、ライブのカッコ良さと共に全国に広がりつつあった。
ステージが終わるごとに毎回開いた反省会では、時間をかけて、悪いところマズイところを修正することに神経を注いだ。
出来、不出来の波を失くしていくことに、彼らは真剣に取り組んでいた・・・。
ツアーと並行して、彼らは次のアルバムを煮つめる作業に取りかかっていた。
曲はツアーが始まる頃には30~40曲が集まっていた。
ちょうどツアーが途切れる10月と、11月の後半がレコーディングのためのスケジュールに用意された。
「BOOWY」と同じようなアルバムを、もう1枚作ることは最初から頭にない。
東芝EMIのディレクター子安次郎は、何度も時間を割いてメンバーの意見に耳を傾けた。
「シャレオツなものが作りたいねぇ。」
「ビート・バンドみたいな言われ方をしてるけどそのあたりは裏切りたいね。」
「いろんな面を見せたい。」
様々な話が出て、30~40曲あるデモテープの中から曲をピック・アップしていくうちに、アルバムの形はおのずと見えてくる。
3rdアルバム「BOOWY」でアレンジャーとしての才能をみせた布袋が、このアルバムのサウンド・プロデュースを全面的に受け持ち、氷室は本格的に詞に取り組んでみた。
結果的にみればこの「JUST A HERO」というアルバムは、ずいぶんとマニアックなものになった。
デモテープを作りながら布袋は、自分の持っている音のアイデアを、まるで体中に宝石を飾るように散りばめていった。もちろん、そのアイデアばかりが光り輝いて見えるという軽率な音作りはしない。
曲はあくまでもポップ。
宝石はあくまでも、光り輝いている中身をより美しく見せようとする飾りでしかない。
デモテープを受けとった氷室は、その音と自分の好きなシュールレアリズムの世界とを言葉の糸で結びつけていくというデリケートな作業に取りかかった。
ラブソングは、そのままのストレートな言葉では語られず、それまでの彼独特のアイロニカルな表現はベールの中に包みこまれていた。
松井は、氷室がどうしてもイメージが湧かない「LIKE A CHILD」の詞に挑んだ。
全面的に書いたのはこれが初めてだった。
初めてというのは何でもそうなのかも知れないが、出来上がったときの気分は格別だと感じた。
アルバムの方向性さえ決まれば、出来上がるまでは非常にスピードが速いのがBOOWYというバンドの大きな特徴だ。10月に入ってからバンド内でのリハーサルを始め、月末からレコーディングに入る。
「合宿っぽくやりましょうよ。」
そう提案したものの、急にリゾート・スタジオを押さえるのはなかなか難しい。
結局は、山中湖や河口湖、伊豆など、6か所のスタジオを転々としながら、「JUST A HERO」のレコーディングはスムーズに進んだ。
「BOOWY」のときと同じく、エンジニアにはマイケル・ツィマリングが参加し、佐久間正英がサウンド・アドバイザーとして布袋を助ける。
4人のストレートな音が太く響いていた「BOOWY」と比べると、鋭角的な中西俊博のヴァイオリン、乾いたシンセ、そして、より多彩な音作りをしている布袋のギターと、アルバムはカラフルな色合いを魅せていた。
いつも同じところにとどまっていない。
自分たちのやりたいことを素直に出してみる。
わがまま?そう、とってもわがまま。
でもそれは、自分に、とっても正直なのと同じことだ。
BOOWYがBOOWYとなってから、ずっと変わらなかったこと。
BOOWYらしさは、オーディエンスが増えようとレコードを何枚出そうと変わりはしない。
12月29日、暮れも押しつまった日、氷室と布袋はマイケルと共にベルリンへ向けて飛び立った。
年を越すときぐらい家族といっしょにいたいというマイケルの願いを聞き入れて、正月をはさんだ1週間をベルリンでのトラック・ダウンに充てたのだ。
