こんにちは!
いや~、きょうの江戸もメッチャ蒸しアツいですね~
ただ、今夜以降、天候が悪くなることに伴い、少しは涼しくなりそうですので、それに期待することとしましょうか。
さて、わりかし好評?な今回のBOOWYシリーズですが、前回は1984年の動きについてお示ししたところです。
その中で、ユイ音楽工房の糟谷銑司との出会いについても記述がありましたが、要は、この糟谷がいてたからこそ、後にBOOWYが大ブレイクを果たすのです。
これまでの展開としては、1984年まではライブ活動としては充実してはいたものの、メジャーでバーン!といったような売れ方では全くなかったワケで、その後のBOOWYの快進撃に向けて、この出会いはヒジョーにターニングポイントと言えるのです。
その詳細は、BOOWYフリークにとってもMOST インポーテンツ笑、じゃなかった、MOST IMPORTANTですので、皆さんにも認識いただければと思います。
なお、そのBOOWYと糟谷の間を取り持った「加藤与作雄」という人がいてなかったら、その後のBOOWYはなかったとも言われています・・・
【1983~1984年】
世の中はいくつもの偶然で成り立っている。
ロックバンドの成功や失敗も例外ではない。
あのときの出会いがなければ、あのときのつまづきがなければ、 今という瞬間は存在しない。
BOOWYというバンドも、糟谷銃司という男との出会いがなければ、これ程までの存在にはならなかったハズだ。
その日、糟谷は、ユイ音楽工房で中原めいこを担当している重松とともに東海ラジオにいた。
2人の前にいるのは、東海ラジオの中にいて、とりわけロックに理解を示していたディレクターである加藤与佐雄という男だった。
「ところで、いいバンドがいるんだけとちょっと聴いてみないか。」
仕事の話が一段落したところで加藤は、1本のテープを差し出した。
「勝手に自分でテープに落としたものだから、音はあまりよくないけど。」
テープには、BOOWY「INSTANT LOVE」と彼の筆跡らしい字で書いてある。
「良いバンドなんだけど、今、売れる背景がないんだ。土屋という男がひとりでやってるけど。」
BOOWY?ボウイ?
糟谷にとっては初めて耳にするバンドだった。隣の重松に聞けば、一度だけ、 どこかのラジオ番組でこのアルバムの中から1曲かけたことがあるという。
「カッコよかったですよ。」と重松はつけ加えた。
加藤は、まるでBOOWYのプロモーターのように彼らについてしゃべった。
BOOWYが初めて名古屋のライブハウス・Electric Lady Landで演ったときの、そのライブを観て以来、何とかしたいと思い続けていた。
東京からやって来る業界の人間には音を聴かせ、 レコード会社に対してはシングル・カットを求めて何度もプッシュしていたようだ。
「もしウチでやるとしたら、他のプロダクションは断ってくれるのか」と糟谷。
「お前がやるんだったら断わるよ。」と加藤。
‘83年の秋、糟谷とBOOWYの出会いだった。
糟谷は東京へテープを持ち帰って「INSTANT LOVE」をじっくりと聴き直してみた。
「音が悪いな」 これが第一印象だった。
テープをダビングしたせいかもしれないが、どうも音のバランスが良くないなと思った。
専門的立場の感想だった。
もっと大きい音で聴いてみたらどうだろうと彼は、コンサート会場へ出かけていき、リハーサルの合間にPAのスピーカーを使って大音量で聴いてみた。
バランスの悪さはかわらなかったが、 気に入った曲が何曲か心に残った。
キチッとしたレコーディングをすれば、ちゃんとしたロックバンドなんじゃないか。
糟谷はまずBOOWYのマネージャーである土屋に会った。
いわゆる業界のプロという感じの男ではなかったが、 バンドに対してはしっかりした見方をしていたし、自分たちのテーマもはっきりと持っていた。
そして何よりも気迫があった。
インディーズといわれるようなマイナーなストリート・シーンにはいつまでもいたくないという言葉にも魅かれた。
ユイ音楽工房という事務所がそれまでにやってきたアーティストと比べると、確かに色は全く違っていた。
しかし、違う違わないと考える前に、彼は面白そうだと感じていた。
いい曲を書いて、演奏が確かで、ライブが良い、つまり力のあるバンドは必ず売れると糟谷は考えていた。
初めて会ったメンバーはしかし、彼が思った以上のパワーを持っていた。
それはライブを見なくてもわかるほどのアーティト・パワーだ。
「メチャクチャかっこいいヤツらだ」
会うなり彼は、こう心の中でつぶやいた。
バンドの現状、日本のロック、やりたいこと、スーツでピシッとキメた氷室が、 チンピラっぽい話し方でひとりしゃべり続けた。
ときどき布袋が言葉をはさむぐらいで、 他の2人はじっとだまっていた。
存在自体のかっこよさがあった。
糟屋は、デモテープを会社の人間に聴かせて回った。
かっこいいという人間とわからないという人間が半々に別れた。
5人に2人ぐらいがメチャクチャかっこいいと言う。いい反応だった。
力はあるし、絶対に売れるという予感もあった。
ただ、売るための方法というのはすぐには出てこなかった。
出てこなかったというより、焦らずに最良の方法を頭の中で育てようと思ったのかもしれない。
ユイ音楽工房にとっていままでにない新しいものをやろう。ロックのプロジェクトを組んでみよう。
社長の提案を受けてアンテナを広げてきた糟谷が、BOOWYを掴もうとしていた。
‘84年3月にジュクシンロフトへ、ユイ音楽工房の社長である後藤由多加を連れていったのも、その最終確認のためだった。
帰りの車の中、糟谷に向かって後藤が言った。
「キャロルが出てきたときのようなインパクトだったな。新しいムーブメントが起こるかも。
ところでドラムの高橋は年食ってんじゃ(氷室ックや松井恒松より6歳上です)ねえのか?あれは変えるのか?」
「メンバーを変えるつもりはありません」
糟谷のきっぱりとした返事に後藤もうなづいた。
今まで自分たちがやってきたことに対しては絶対の自信を持っていたメンバー。
と同時に、レコード会社やプロダクションに対しても大きな不信感を抱いていた。
糟谷に対しても疑心暗鬼になることは仕方なかった。
その間を土屋がうまくくっつけていくという状態が続いた。
1年近くの時間をかけてじっくりと氷河が流れるようにプロジェクトは進んでいた。
ライブハウスでファンを増やし続けるBOOWY。
一般に向けてどうアピールしていくかを煮つめる糟谷と土屋。
‘84年、春と夏と秋が順番に過ぎていった。
夏、東京のライブハウス、渋谷Live innでは600人のオーディエンスを集めた。
秋、学祭では他のバンドと思い切り張り合った。
同じステージに立つヤツらには絶対に負けたくないという気持ちで通してきた。
東海、阪神、四国と回って、そして冬。
地方のライブハウスのツアーは、12月の東北で最終を迎えていた。
生活の糧になっていたライブを、この後半年間休むことが決まっていた。
新しいステップに向けてすべてを白紙に戻す。
しかし、それは大きな賭けでもあった。
ユイ音楽工房とBOOWYとの正式契約は、東北でのライブから帰ってきて数日後のことだった。
氷室たちの心の中は、疑心と期待が交差していた。
ただ、この1年間で自分たちの考えていることは言ってきたし、 あとはやってみるしかないと思っていた。
もしかすると、これが最後の賭けになるのかもしれない。

