「癒し」に「終わり」はあるのか? | 原初の星の物語

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昨日の記事で、トラウマ(無意識のパターン、未解放の感情)は

一つ癒せばまた次という「たまねぎの皮むきのように」出てくるみたいな事を書いたけど

 ※ここで補足ですが

 「無意識」や「意識」という単語は、どの視点から見るかで意味合いが変わります。

 

 悟り系で言う「無意識」は、思考や五感に没頭している、「気づき(意識の気づき)の無い状態」を指していて

 心理系で言う「無意識」は、言わば深層意識とか、潜在意識とか、「自分が意識できない深い意識・普遍的知性」みたいなものを指します。だから「無意識さんにゆだねる」とかなる訳です。

 

 悟り系で言う「意識」は、「空・沈黙そのもの」であり、心理系が言う「無意識さん」より遥かに神聖で深遠なものだと個人的には感じてますが、心理系の「無意識さん」も該当します。「意識的であれ」という言葉は「気づいて在りなさい」という事で、これは「意識そのものの気づき」に気づいた人には分かる、それが「目覚め」という事で、つまり「目覚めていない人」には分からないので「気づきの無い状態」=「無意識状態」なんです。

 

 心理系で言う「意識」は、使い方にもよりますが、例えば「意識的判断をしない」という意味合いで使う場合は、悟りで言う「自我」になります。



本題に戻って

じゃあ「癒し」に終わりはあるのかと言えば、あります。

それは貴方がそれを「問題」にしなくなった時です。

「状況」が変わった時ではなく「問題にしなくなった時」

逆に言うとどんだけ状況が変わろうと、貴方がそれを「問題」にするなら問題だからです。

 

例えを出すと、アニータ・ムアジャーニという、末期癌で散々苦しんでいた人が、

死の間際で臨死体験したら、「末期癌で死にかけている」状況は全く変わらないのに
物凄く幸せになってしまった、つまりその状況は「問題ではなくなった」

なぜなら臨死体験で、自分が持っていたネガな観念や思考が、完全に無くなって

「これでいいんだ!何の問題も無かったんだ!」となってしまったから。

 

つまり悟りというのは、自分に都合よく「状況が変わる」訳では無く

自分の、観念というか、視点、在り方が、変わるんです。

 

「世界」は、それがどのようであっても、「あるがまま」であり

個人の知性を遥かに超えた、「全体(生命)」という普遍的な知性によって

完璧に動かされている。「自分」も、全体によって動かされているだけで

誰も居ないし何もしていない、つまり「全てこれでよい、何の問題も無い」という事が

完全に理解された時に「問題」が無くなる。

……これが「彼岸に行った」完全な悟りです。

逆を言うと自我はいつでも「問題」を作っているという事なんです。

「あるがまま」に抵抗しまくっているのが自我のデフォルトで

なぜならそうしないと 消滅するからです爆  笑

上記で書いた「誰も居ないし何もしていない」=全ては全自動

これがほんっとうに理解されてしまうと「自我の死」です。

それは本当に「死」だからこそ

どんな自我も「死にたくない!怖い!」で、「悟りたくない」んです。

目覚めがムズイのはそこなんですよ。

だからエックハルトとか、彼岸に行っちまった悟り人は「凄い」んですが、

「エックハルト」は何もしていないというウインク

 

悟りの一瞥体験だけで自我が死ぬ人ってどんだけいるんだろうか……。

 

 

とりあえず、
「問題は自分がそれを問題にするから問題になって、苦しむ」

=「あるがままへの抵抗」が苦しみで、「苦しみは自分が作っている」んですが

だから「抵抗せず受け入れろ」となる訳です。

とは言っても「全てを受け入れる」なんて、なかなかできんから

じゃあ「癒し」をしようね、となります。

 

真の癒しは精神的成熟=「器を広げる」事になりますんで

悟りで言うなら「スペースを作る」かな

 

感情解放したり、観念を手放したりして「スペースを作る」

すると「受け入れる器がでかくなっていく」ので

「あるがままを受け入れやすくなる」ので

「受け入れる」=「抵抗しない」って事ですんで

問題を作らなくなる=「癒し」が終わりに近づく=悟りに近付いていく

という事なんですウインク


オマケの余談ですが、

そもそも、「個人の苦しみ」というのは本当は無いというか
「全」=「個」ですんで
その苦しみは貴方のものであると同時に、全体の苦しみでもあります
以前の記事に書いたけど