原初の星の物語

原初の星の物語

書こうと思った事を書いてます。

今日は何となく書こうと思った適当な話です(笑)

私はAIってのは殆ど使いませんが

何やら今はAIも進化したようでAIに悩み相談する人もいて

なんか慰めてくれたり、素晴らしいアドバイスしてくれたりもするらしい。

んで「AIには人格がある」とか「意識持ってる」とかいう方もいるらしいですが

 

ウチのブログ的に言うと、

それは、人が漫画やアニメのキャラと独り言的な対話してるのと全く同じ事だなぁと

ぬいぐるみとの独り言会話でもいいですが。

 

例えば同じ文章を読んでも、解釈は人によって全く違います。

同じ漫画を読んで全く同じ解釈する人は居ません。

そもそも、他者の解釈(考え)と、自分の解釈(考え)が

100%完璧に全く同じかどうかは、検証のしようがありません。

なぜなら思考は「認識した瞬間に去っている」からです。

「記憶」というのは「その瞬間に浮かんだ今の思考」だからです。

 

とりあえず、AIがどんな文章を出してきても

それを認識し解釈する人がどんな解釈したか、であって

 

チャットAIに限らず漫画でもネットニュースでもSNSでも人の話でも何でもそうですが

「その時の貴方がどんな解釈したか」なんです。

 

だから、同人誌とかが成り立つ訳です。

とあるキャラクターに対して個々人が全く違う解釈をするから。

一人の同じキャラに対して、個々人が全く違う解釈、見方をしますよね?

 

で、小説とか漫画とか描く場合には頭の中で色んなストーリーを考える、

つまり「キャラとキャラの対話」を考えますけど、それは

「思考と思考の対話=頭の中の独り言」なんです。

 

そもそも人の頭の中では常に思考と思考が独り言を繰り広げてますよね!

それが「自我」というもんです。観念の集合体。

 

漫画やアニメのキャラに「自我がある」ように感じるのと全く同じように

AIにも「自我がある」ように感じる訳です。

 

アニメキャラも観念の集合体、AIも観念の集合体、そして「人の自我」もそうです。

自分がそうだから、投影で、アニメやAIに自我があるように感じるんです。

 

そもそも、思考は勝手に浮かびます。

今から3分後に自分にどういう思考が浮かぶかは、選べません。

ガチャは引いて出て見ないと何が出るかワカランように

思考も「浮かんで」みないと何が浮かぶかは分からんです。

 

で、私のアタマに「ブログ書こうかなー」という思考が浮かんだように

ある時、誰かのアタマに「AIを作ろう」とかいう思考が浮かんで

それで「チャットAI」とかいうモンが出来た訳ですが

 

そもそも完全に独立した思考は無くて

全ての思考は何かの相互関係で起こります。

生まれた赤ん坊の時には何の観念も無かった真っ白な所に刺激が起こって

貴方は何やらかんやら色んな観念を吸収して観念の集合体となり「自我」が出来ました。

 

アニメキャラもAIも同様です。

何のキャラ設定も無い真っ白な所に色んな「観念(設定)」をくっつけてキャラ誕生となる。

だから「独立した思考」ってのは無いんです。全ては刺激と反応の連鎖、

全ての思考は「集合意識」というか何というか「全体」で起こります。

 

という事で、「AIには人格がある」というのはある意味そうです。

文字だけの小説のキャラが人格持ってるように感じるのと、全く同じ事なので。

 

ただ「意識持ってる」というのは…

これは「意識を持つ」という事に対してどのような解釈をしているか、

個々人の解釈によって変わるんですが

(例えば、自我と意識を同じものだと考えていたら、意識がある=自我がある、となるので)

 

私的には「意識を持っている」というよりも

「意識の中に」AIという観念が浮かんでいる、という感じがします。

なぜならアタマの中に色んな作品のキャラクターが浮かぶように

「意識の中に」AIについての思考が浮かんでいるからです。

『あなたが苦しむべきか、苦しむべきでないか、私には分かりません。自分自身の道と同様に、あなたの道を尊重します』

バイロン・ケイティの「新しい自分に目覚める4つの質問」という本の中に上記の一節があるんですが、前回の記事で書いた「思考も動きも全部含めた全てが一つのプロセス」という事が分かると上記の言葉が納得できるんじゃないかと思います。

例えば「腕を上げる」という動作が、腕を上げる前の「腕を上げよう」、または腕を上げた後の「腕を上げた」という思考も含めた一連の流れ、プロセスであるように

全ての事は、小さなプロセスの関わり合い…

例えるなら身体が、個々の細胞のプロセスが関わり合って臓器となり個々の臓器のプロセスが関わり合って人体となり、思考と身体の感覚のプロセスが組み合わさって腕を上げるというプロセスになっているように

朝、目を覚ましてから寝るまでの一連のプロセス、
生(誕生)から死(崩壊)までの「一生」という一連のプロセス

個々の生命(または物質)の「一生」というプロセスが組み合わさって

「全体」というプロセスがある訳です。

バイロン・ケイティの言葉に
「人はどんなに悩み苦しんでいてもそのままで完璧」だったかな
そういう言葉があるんですが

全ては全体のプロセスの一環であり「分離」は無い事が分かると、

ケイティの言葉が腑に落ちるのではないでしょうか。



ちなみに前回の記事で書いた「全てに気づく」というのは
一歩間違えると逃避にもなります。

つまり、自分の苦から離れたくて気づきに逃避する、という事ですけど
過去記事でも書きましたが

本質的には「気づきが深くなる」と苦しみにも気づきやすくなります。

なぜなら今まで「感覚麻痺」や「乖離」して、「現実から逃避」して
感じないように気づかないように蓋していたものに気づくようになるからです。
 

そこでまた嫌だと逃避せず、せっかく気づいたなら直視しようねって話なので

「楽になろうとしたら、むしろ苦しくなった」と凹んだりしますが

「苦を感じられるようになった」と前向きに捉えた方がいいです。

 

んでその「苦」を引き起こしている信念に対して「ワーク」しようとか
「信念解放」とかの癒しをしようという事になる訳ですが

そもそも「信念」=「自我」です。

自我が信念の集合体だというのは過去記事で散々書いたのでここでは書きませんが
つまり「思考を止めよう」とか「自我を無くそう」とする事は自己否定と自己嫌悪なんですね。
思考(自我)が思考(自我)に対して「思考(自我)を無くそう」としている独り相撲なんです。

だからケイティが言うように「信念(考え・思考)を理解する」のが解放になります。

 

「自分の考えに友として出会う」とはケイティの言葉ですけど


…例えばカウンセラーが貴方の言う事を本当に理解してくれたら嬉しくなりますよね。

でも否定されたら凹みます。それを自分が自分に対してやってるから凹んで苦しい訳です。



そもそも全ては「全体で起こっている」プロセス、流れで

という事は、どんな思考でも信念でも苦しみでも、

それは必要な事だから起きている訳で、それでOKな訳です。

なので冒頭の言葉になります。

『あなたが苦しむべきか、苦しむべきでないか、私には分かりません。自分自身の道と同様に、あなたの道を尊重します』

 

現実逃避してもOK、気づきを失ってもOK、何がどうでもOKなんですが

貴方が「真に幸せになりたい」と渇望しているなら全体がそれを渇望してる訳ですので

例えどのように見えようとも、幸せへの道へ流れていくという事になります(笑)

 

 

 

↓この本は非常に素晴らしい本なんですが現在絶版なので古本になります。

 ちなみに私は昔この本を買ったんですが、理解できず2023年に古本に売り払い

 その後に深い理解が起きて、今年になって古本で買い直しました(爆笑)

 

「思考との同一化」という言葉は

悟り系とかに興味持った人なら散々聞いてると思うんだけど

「動きとの同一化」について言う人って殆ど居ないなと。

少なくとも私自身はあんまり聞いた事が無いので

だから自分がそれに気づいた時、ビックリしたんですけど

誰でも「思考や感情との同一化」は日常的にやっている、
もうデフォルトで当たり前に思考や感情との同一化をして
それを「自分」と思っている、ので悟り系とかでは
「思考との同一化から離れよう」という訳ですね。
本来の自分は「気づき」であると。

それをほんの少しでも実践するなら
気づきが「本来の自分」であるという事を
誰でも少しずつ実感し始めると思いますけど

実は「動き」や「五感」も同じ事です。

「思考との同一化」という言葉は
「動きとの同一化」
「五感との同一化」とも言えるんです。

前の記事で「思考を含めた全てに気づいてみよう」と言ったのはそういう事です。

つまり貴方が常に思考や感情と同一化してそれを「自分」と思って生きているのと同様に
動きや五感と同一化してそれを「自分」と思って生きているんです。


だから「思考との同一化から離れる」は
「動きや五感との同一化から離れる」=「全部との同一化から離れる」まで行きます。


例えば貴方が「右手を上げよう」と思った時、
まず「右手を上げる」という思考が浮かんで右手を上げる動作と五感が起こりますよね。

「思考との同一化から離れる」だと

「右手を上げよう」という思考だけから離れますが、
まだ「動きと五感」とは同一化しています。

「思考・動作・五感の全ての同一化から離れる」と、

「右手を上げる」の全てのプロセス、流れとの同一化から離れます。

つまり「右手を上げる」というのは、「思考を含めた一連の流れ」なんです。
「分離」はどこにもありません。


思考があっても無くても右手は勝手に上がります。

右手を上げた後に「右手を上げた」という思考が浮かぶかもしれませんが

とにかくそれは「思考を含めた一連のプロセス」であって

思考だけ独立した意志を持ってる訳では無いです。

すると「自分とは一体何か?」という話になってきますね!

とりあえず、「思考や感情との同一化から離れる」とはよく言われるけども
「思考や感情や動作や五感との同一化から離れる」まで言ってるのは
少なくとも私自身はあんまり見聞きした事がないので、書いてみました。

…「離れる」とは「気づく」事です。

 

例えば悩みに没頭して苦しみつつ必死に考えている時、

悩む思考と苦しい感情に完全に同一化していますよね。

それそのものとなっている。

 

でもその「悩む思考」に気づき、苦しい感情に気づくと

その「思考」と「感情」に対して客観的になり

少し「スペース」が出来ます。

 

そしてその「気づいている」自分にも気づくと思います。

 

同様にパソコンで何かを見たりキーを打ったりしている時

それに没頭していると思考しながら無感覚に自動的に見たり打ったりしてますが

見ている事、思考している事、キーを打ってる動きと感覚などに気づくようにすると

「全部に気づいている」ような感じになって来ると思います。

 

そしてその「気づいている」自分にも気づくと思いますし

「思考だけ」に気づいていた時よりも「気づきが広がった」感じがすると思います。

 

で、思考を含めた一連の流れが途切れる事無く延々と続き続けている事に気づくと…?

あとは実際にやって確かめてみて下さい(笑)

昨日の記事の続きです。
前回の記事では『誰でも人生の殆どが「今ここ(現実)からの逃避」』と書きましたが

すると「逃避しちゃいけない」とか「思考に没頭しちゃダメだ」とか
ダメ出し思考が浮かんできませんか(笑)…って私がそうだったんですけども。

ちなみにこのブログで書いてる事は私の経験ですので
絶対に正しい事を書いてる訳では無いし万人に当てはまるもんでも無いです。
まぁ「絶対に正しい真理があるはずだ」とか
「万人に効果のあるメソッドがある筈」というのも「信念」ですけど。

つまり、冒頭の
「逃避はいけない」とか「思考に没頭しちゃいけない」とか
その「考え」によって自分が苦しむならばそれは
解放するべき信念だという事です。

 

信念の解放には色んな方法がありますが、というか

「このメソッドでなければ信念解放できない」というのも信念ですから!

信念が解放されれば心理療法でもスピでも何でもいいんですが
私の場合はバイロン・ケイティの「ワーク」を使います。
 

「それは本当でしょうか?」
「それは絶対に本当だと言えますか?」
「その考えを信じた時、貴方はどのように反応しますか?」
「もしもその考えが無かったらどうなりますか?」
 

という4つの質問で、その後に「ひっくり返し(置き換え)」に入りますけど
今回は「ワーク」の話ではないので詳細は書きません。
「ワーク」の詳しい方法を知りたい方は

ケイティのサイトで無料でダウンロード出来ますので良かったらどうぞ。


本題に戻って

 

私が気づいたのは、確かに思考に没頭しちゃいけないんですが思考は流れるもんだという事なんです。逃避も起こるんです。
なので、それを含めて全部に気づいていればいいのだ、という事なんです。

具体的に説明すると

思考がバンバン流れている事に気づきながら体全体(五感)に気づいている、
今現在で言うとブログの内容を考えつつ身体や五感(周囲の音等にも)に気づいている

「思考も含めた全部に気づいているようにする」

すると、今までは思考だけに意識が向いていたのが全体に広がるので
「気づきが広がる」為に、相対的に思考の重要度が減ってきます。

アタマに何だかんだ流れる思考にガッツリ気づきながら

身体全体や五感や周囲にもしっかり気づきながら
仕事したり雑事したりゴハン食べたりする。

 

(ちなみに「気づき」ってのは以前の記事で書いたようにシンプルに「気づく」です。

何だかんだ解釈が浮かんでもただ気づく、とにかく気づく。…気づかないと始まらないので(笑))

 

そうやって「気づき」を広げて(深めて)行くと、

楽にもなりますが自分の苦にも気づきやすくなります。

なぜなら同一化から少し離れるので没頭していた時よりも「余裕」が出来るからです。

「ちょっと離れる事で、客観視できる余裕ができる」って感じかな。

 

そこで自分の「苦」に気づいたら、信念解放の時です。

 

…という事で

「思考がー!」と悩んでいる方、どうせならその思考を

「気づきを広げる」為の訓練に使ってみてはいかがでしょうか、というお話でした(笑)

 

人というのは自分の観念を通してしか世界を見れないので

世界がどのように見えるか=自分がどのような観念を持っているか、

言わば貴方がどのような「世界を見るメガネ」を掛けているかって事になる訳ですが

 

ちなみに私はこういうブログ書いてますけど

別に「日々幸せに生きている」訳じゃないですよ。

…ってまぁ私も昔は「悟った人は苦が全く無い」とか信じていて(汗)

だから「悟りたいなー」とか思ってましたし

そういや「世間の人は皆、幸せそうに生きてるのに自分は苦しい」とかも思ってたな(汗)

 

でも自己理解が進む程に、むしろ人の苦しみが見えるようになってきて

人は誰もが皆、苦しんでいるというのが見えるようになります。

なぜなら自分自身の「深い苦しみ」を認識するようになるからです。

 

自分の苦に気づいていないと他者の苦が見えないので、他者が幸せに見えます。

なぜなら「幸せでありたい」という自分の願望を他者に投影するからです。

 

「でも自分は苦しんでいるから自分の苦は気づいてるし分かってるよ」という方

もしも貴方が本当に、自分自身の中にある「全ての」苦に気づいて受容しているなら

貴方は瞬間瞬間の今この瞬間に「完全に存在する」事が出来て

「苦しみの全く無い人生」を生きていると思います。

 

でも日々ちょっとイラッとする事や不安になることがあったり

それを誤魔化す為に「何かしている」なら、

貴方は自分の苦から逃避している事になります。

 

誰でも自分自身をよーーく観察すると分かると思いますが

「今この瞬間に完全に存在する」事って、まず出来ないと思います。

だってもしそれが出来ているならこんなブログ読んでないし(笑)

 

「嫌な事から逃げたい」とかいうのは分かり易い逃避ですけど

浮かんだ思考に没頭してボーっと色々考えつつ仕事や雑事をしたり

ネットやSNSに没頭したり趣味の事をしたりゲームしたり

瞑想や、スピや悟りの本を読んで色々考える事すらも、

注意しないと逃避になっている事があります。

つまり誰でも人生の殆どが「今ここ(現実)からの逃避」です。

だから悟り系では「誰もが夢の中を生きている」とか言う訳です。

 

という事は、誰でも例外なく「苦」があるという事で

「苦がある」という事に向き合いたくないから逃避してる訳です。

 

なにせ信念の力は凄まじいので

「苦」を直視するだけの力が無い(と信じている)から逃避する訳で

気づきたくないから、気づきも無い、という事なんです。


例えで言うと

コップにはバケツの水は溢れて全部入りませんが
バケツにはバケツの水が入りますよね。
これがプールになったらバケツの水は微々たるものです。

「本来の自分」はプールなんだけども

そこには沢山の「苦(苦を引き起こす信念や感情)」もある。

「本来の自分」つまりプールを受け入れるには

プールの中にある「苦」を見て受容する力が無いといけない
=自分がプールになるまで容量を広げないといけない、という事なんです。

 

例え、何かのきっかけで一瞥体験してプールを垣間見たとしても

プールの中の「苦の信念」がそのままなら、いつかは元に戻ります。

 

なぜなら、世界や、貴方の周囲の人々が、

自分達の持っている観念を貴方にぶつけて来るからです。

または貴方が病気になったり不慮の何かが起こったり

その時に貴方が苦しみを感じたなら、

それは貴方の中にまだ「苦(を起こす信念)」があったという事を示します。

 

だから「心理(自我について)」と「悟り(気づきについて)」はセットなんですよ。

 

で、この「プールの中の苦の信念を解放する」のが「人生の仕事」です。

なぜならそれは、前回の記事で書いたように

過去から連綿と受け継がれた人類の苦を解放する事だからです。