最近つくづく思うんですけど
「悟り」と言われるものは実際には非常にシンプルで、
思考の幻想性を完全に見抜けば、それがもう「悟り」と言われる状態で、人生は楽しくなります。
ケイティは「好奇心」という事を多々言うんですが、
ちょっと前に見たケイティの動画の話で、なんかケイティご自身が
生きるか死ぬかの重篤な状態になり、病院に担ぎ込まれたと。
そこで「これからどうなるんだろう!」とワクワクしてたまらなかったと。
もはや「死」の観念が無い、そもそも「私」という観念が無い、
全ての思考(観念)の幻想性を見抜いている。
全てはただ起こっていて、そこに神のシナリオ(思考・考え)が与えられている(ただし信じる訳では無い)、なんてありがたいのか。
全ては未知で、一瞬、一瞬、何が起こるか分からないからワクワクしている、好奇心。
散歩に行こうと右足を出したら、次に左足がどこに出るのか分からない。
本当に散歩に行くのだろうか? それは散歩に行った時に分かる。
「好奇心、好奇心、好奇心だけです」
…という事を現在もう80を過ぎたケイティが動画で力強く言ってました(爆笑)
「人生は贈り物です」
でも大半の人は、そう簡単に夢から醒められないのも事実ですが、それも含めて神のシナリオ。
ケイティは「ここは地球学校」と言うんですが、
人生が素晴らしい贈り物だと分かるまで、我々は色々学ばされると![]()
悟りの道は色々です。
エックハルト・トールの動画で、重いトラウマを持った人の「私は悟れますか」という質問に、エックハルトは「カウンセリングや心理療法を受けなさい」とアドバイスしてました。
ケイティの動画を見てても、なかなかワークに納得できない人も居ます。
「上司が俺の事を馬鹿にしたんです!」という人に対してケイティがワークしましたが、
その方は、どうやっても、「でも馬鹿にしてたんです!」から離れられませんでした。
しかしケイティは別に怒ったりせず、ただ静かに様々な見方(視点)を提示して
「上司は馬鹿にした、それは本当?」と問い掛けるんですが、
本人も、自分がその考えを信じているだけだと頭では分かっているんですけど、
(だって動画に撮られる事を了解の上で自らケイティのワークを受けている位なので)
感情が付いて行かず、納得できず、「でも!」と反論してしまう。
悟りには「沈黙を意識する」というのがありますが
観念(考え)の幻想性を見抜くとその観念が無くなるので自然と思考が減り、沈黙に在れるようになります。
逆に、自分の考えを信じ込んでいると、上記の「上司が!」という方のように
沈黙に在りましょう、ただその思考を見守りましょう、言わば「考えるな」と言っても
なかなか難しいです。なぜなら感情がバンバン沸くからです。
であれば、むしろ思考や感情に突っ込んで行けというのが「ワーク」です。
「ワーク」で最も重要なのは、「その場面を想像し、感情を感じつつワークする」事で
つまり上記のように「上司が!」と、その場面を思い出し、その時の感情を感じた状態で
「それは本当か?」と問うんですね。
そして「その考えを信じた時にどうなりますか」を問い、その後に
「その考えが、もしも無かったとしたら、どうなりますか」と問う訳です。
「ワーク」にはやり方、手順があります。再び思考の幻想ストーリーに戻らない為です。
「でも」という反論が、また思考ストーリーに戻って自己防御しようとする自我の抵抗で、
それを防ぐ為に「決められた質問」と「質問の順番」があるんです。
「ワーク」はなかなか勇気が要ります。例えば、誰かに酷い事をされ、それに対してワークするなら、その時の事を思い出さねばなりません。
その苦しみを感じている状態で「それは本当?」と問うんですから相当勇気が要るんです。
しかし、実はこの「その時の事を思い出し、本当か?と問い掛ける」というのは
悟りで言う「観照」と全く同じ事なんです。
「観照」とは、静寂に在る、
=意識の気づきとして思考をただ見ている、感情をただ感じている状態ですが
ワークの原則は「テーマとなる観念」を紙やPC等に書く事で、つまり「文字として物理的に固める」のが原則です。頭で考えているだけでは、逃避してしまう可能性があるからです。
この、「思考を書き留め、それをじっと見つめる」事そのものが「思考をただ見る」と同じ事です。
通常の状態では、その思考や感情を完全に信じて同一化し、それそのものになっているのを、
紙(PCやスマホ画面)の上に出して、じっと見つめるだけでもう客観視であり、同一化から少し離れます。
そしてその時の状況を思い出し、感情を感じながら「それは本当か」と疑いを掛けるのだから
「思考や感情を信じない」=客観的になり、「ただ見る、ただ感じる」事になります。
例えば上記の「上司は自分を馬鹿にした」というテーマなら、
それを書き留め、それを見ながら怒りを思い出し「本当か」と問う事そのものが、
その思考・観念に対しての強力な観照行為なんです。
上記のように、その時は納得できず怒りバンバンになったとしても、
紙やPCに書いた事は、捨てない限りは残ってますから、再びそれを見てワークし続ける、
つまり「疑いを掛け続ける」なら、いつかは解放出来る時が来ます。
そのテーマの軸から絶対にブレずに、その観念と向き合うからこそ、幻想性を見抜いて解放できるんですね。
とは言っても感情的になっている時や緊急事態にワークするのは難しいので
(慣れると一瞬で無意識にワークが展開するらしいですが汗)
なので日頃から「沈黙を意識する」とか「思考をただ見る」を日常的にやっていると
ワークもやりやすくなります。
なぜなら「思考をただ見る」という時点でもう思考を信じていない=「それは本当か」と問うているのと同じ事だからです。
きちんとワークしなくても、「それは本当?」と思うだけでも思考との同一化から少し離れます。
そもそもカウンセリングとか心理療法は、基本的には「信念・観念に問い掛ける」ものですので心理カウンセリングも悟りの一端なんですね。
何はともあれ、「ここは地球学校」、全ての道は悟りに向かってるんですよ![]()