原初の星の物語

原初の星の物語

書こうと思った事を書いてます。

殆どの方は、「悟り」というものについて、

本やブログ、ネット等の「情報」から
「悟りとはこういうものだという知識(観念)」を、知ると思うんですが

 

そもそも世の中で、「悟り」というのがどういうものかを

本当に知っている人は少ないと思います。
なぜなら「悟り」の定義そのものが実に曖昧だからです。

どういう事かと言うと、

例えば貴方が何かのゲームをする時の事を想像して欲しいんですが
何の予備知識もなくゲームを始めても、分からない事が多々あると思います。
お金をどうやって稼ぐかとか、武器をどうやって手に入れるか、魔法をどうやって使うか
その世界がどんな世界であり、今居る街がどんな街であり、どんな人々が居て、どんな通貨があって、等。
「その世界の知識(観念)」を知らなければそこで生きていけません。

それと同様に、
日本に生まれれば日本で生きる為の「常識的観念」を取り入れて育ちます。
他国で生まれれば、その他国の観念を取り入れて成長します。
全ては観念です。観念を取っ払ったら「世界」という物語は消えます。

そして「人類」が持つ基本的観念は、「私」という自我の観念です。
「私という、他と分離した個人が存在し、自分の意志で選択決定し生きている」という。


さて、「悟り」というものの定義、観念は何でしょうか。

それは本やブログ等を色々見て、

「悟ったと言われている人々がこう言っている」という知識の集合体、
つまり「大多数の『悟った人』が口を揃えて言っている事」が

「悟り」の定義、観念となります。

しかしこの「悟り」の知識は非常に、理解しにくいものです。

なぜならば、殆どの「人類」が持つ観念、上記に書いた
「私は個別の自己意志を持った存在だ」というものの真逆を行く観念だからで、
その状態を生きている人が、ごく稀である為に、知識だけ知っても、
それがどういう事かを理解し想像する事は難しすぎるからです。

これを例で説明すると、例えば現代日本で生きる我々が、
今から2000年とか前の、既に滅亡した国の生活を想像するのが難しいというのに似ています。
なぜなら今の我々には彼らが持っていた「観念」が無い、それを知る事すら難しいからです。

もう一つ、例えを挙げると

自分と相反する観念を持った人々と理解し合うのが難しいというのに似ています。
ある思想、例えばAという政治家に心酔している人に、Aを批判するような事を言えば口論になりますね?
自分が大切にしている「当たり前の」観念を否定されると、自我は防御に入ります。
それくらい、「異なる観念を理解し受け入れる」のは難しいんです。


で、冒頭に戻って「悟り」というものは、「普通一般」からかけ離れた観念です。
 

ではそれを本当に知るにはどうしたらいいかというと、
本当は、実際に「悟りを生きている」人と出会うのが一番なんですが、
そもそも自分が「悟り」がどういうものかを知らない訳ですから
「誰が、本当に、悟った人なのか」を見極める事すら難しい。


だって「一瞥体験」した人ですら、「悟り」を誤解曲解する訳です。

どういう事かというと、例えば一瞥体験した人が居たとして
過去に(または体験をした後に)

何かの本やブログ等で知った「悟りの知識」と照らし合わせて
「これが悟りだ!」と解釈し「私は悟った」と思ってしまう。

けれどもそれが本当に「悟り」かどうかは証明できないんです。
なぜなら「悟り」を知っている人が周囲に居ない訳ですから。


でも例えば貴方が「悟り」を究極に突き詰めている僧院とかに居たとして
そこには「悟った」と思われる人々が多数在籍し、

その人々が「完全に悟った人」と誰もが認める老師が居たとして
そこで貴方が「悟りの一瞥」を体験し、老師に「私は悟ったのでしょうか」と聞き、
その老師が「貴方は悟った」と言えば、観念的には「悟った」事にはなります。


では本当に「悟りを生きる」とはどういう事かというと、

 

 もうこれは「体現」しかありません。

ここでバイロン・ケイティのケースを例に出しますが
ケイティは一瞥体験をした時に「自分は悟った」なんて全く思いもしなかった。

なぜなら「悟り」なんて全く知らなかったからです。

ただ、その一瞥体験によって、ケイティはガラッと変わりました。


鬱で、もう周囲も手に負えず、どっかの療養所の屋根裏部屋に入れられて、
「とんでもない状態」だったケイティが、ある朝、突然「幸せな人」に激変した。

周囲の人や、家族はビックリ仰天します。


そして「悟り」なんて全然知らんケイティが

「あら、貴方は考えが浮かんだら、自分が考えていると思っているのね」とか言って笑う。
周囲が「いや、貴方が自分で考えているんだよ」とどんだけ説明しても全く理解しない。

二日間説得されてやっと、ケイティは

「皆は、考えが浮かんだら、自分で考えていると信じている」事を理解したと。(汗)

そんな状態ですから、ケイティ本人は「悟り」なんて全く知らんのに

「悟った人がいる」とか噂になって、
「ケイティと話をしたい」と遠方から人が尋ねて来るようになったと。

もうこれに尽きますよね。

「悟り」なんて全く知らずとも、

本人がもう「悟り」と言われるものそのものを生きている、体現している。
「目覚めて」から40年近く、現在も、その状態を体現し続けている。



…私はとにかくケイティの動画を見ると驚く事が多いです。

その人が言う事は、その人の世界を表わしますが
悟りを生きているケイティの言う事を聞くと、驚くような事を言ったりするので
それで、自分が無意識に持っていた観念に気づかされたり

観念が崩される事が多々あります。

時には自分が「これが悟りだろう」と理解していた観念がガラッと崩される事があるんですが、
するとですね、
今までは、とある「悟り人」に対して「この人は悟っている」と思っていたのが
「いや、この人の悟りはケイティに比べたらまだまだだな」というのが見えたりします。

つまり、自分の「悟り」への理解が深まれば深まる程、
本当に悟りを生きている人を見分けられるようになるって事です。

逆に、自分の悟りへの理解が浅いと、ケイティの動画や本を読んでも理解できません。
なぜなら、自分の持っている「当たり前の」観念と、あまりに違い過ぎるからです。
信じられないし、そもそも「理解したくない」のです。

「理解」とは、それまでの自分が崩壊していく死と再生のプロセスです。
自我とは「観念の集合体」ですので「悟り」を理解するには、それまでの自我が死なねばなりません。
 

それがケイティのように一気に崩壊し劇的に変わるか、
それとも数年かけて緩やかにジワジワと変わって行くかだけの違いです。

…という事で、
貴方が本当に「悟り」を生き始めた時、

貴方が「悟り」について全く何も知らずとも周囲は影響を受けます。
なぜならその生き方が、「悟っていない一般の人」とは本質的な所で、まるで違うからです。
 

以前、このブログでは「癒しと悟りは両輪だ」と書いてきましたが
最近思うのは、ある時点で「癒し」は手放す必要があるなと。

どういう事かというと、…今日の話は非常に、説明しづらいんですが、

 

例えばの例として、とある悟り人が

「沈黙を意識していれば人間関係が変わる・良くなりますよ」とか言ったとします。

その為に、じゃあ沈黙を意識しよう、幸せになる為に悟ろう、となると、

つまりそれは「未来に」人間関係良くなって自分が幸せになりたいという事で、

 他者を(現実を)自分に都合よく変える為に沈黙を意識する・悟りを求める

という事になってしまいます。
その根底には「自分が幸せになる為には外側の現実を変える必要がある」という無意識の信念があります。だから上記のような事になる訳で。

でもそれこそが、苦の原因なんです。

そもそも貴方は「悟り」とか「悟った人」に対してどんなイメージを持っていますか?
貴方が「悟りとはこういうものだ」「悟った人はこうであるはずだ」というもの、
例えば「立派な人」とか「絶対に健康であるはず」とか「いつも平安で幸せだ」とか

「苦が無い」とか「人生が順風満帆になる」とか色々だと思いますが

それは貴方の願望であり、

貴方がそのようになりたいから、「悟り」(悟り人)にそれを投影しているんです。

その「願望達成の為に」悟りを求めたらそりゃ苦なんですよ。


「本当に悟った」と世界で思われている人々、例えばエックハルトとかマハラジ等を見ると、

「現実」に何も期待していないんですね。未来への期待が無い。
 

「現実は、こうであるべきだ・こうなってほしい」という願望が無い訳です。
 

「何が起こってもOKだ」で完全に未知に委ねているので

「今この瞬間の現実」を受け入れている。


それがどういう事かというと、

例えば上記に書いた「悟ったら人間関係よくなる」を例にとると

ケイティの夫は、ケイティが悟っても変わらずケイティに怒鳴ったりしてたんですよ。
そりゃケイティの家族の中で、ケイティが悟った為に変わった人も居ますが、
変わらなかった人も居る訳です。

でも、ケイティは、以前と同じ事をされても全く苦では無かったんですね。

つまり「現実」は変わっていないが「自分が」変わったので「同じ現実でも苦ではない」訳です。

 

以前であれば「夫は自分を傷つけようとしている」という思考を信じて「傷つき」、「夫は変わるべきだ」とか「夫は私を傷つけるべきではない」と

「現実はこうだ・このように変わるべきだ」という思考を信じて苦しんだ訳ですが

 

悟った後はその思考が幻想であると完全に分かっているので信じる事が出来ない、なので夫の怒声が気にならない。

 

「現実は、今、夫は怒鳴っている(大きな声を出している)」ただそれだけ。


…問題が、無いんです。

「現実」は変わっていないが「自分が」変わったので「同じ現実でも苦ではない」。
何が変わったかと言うと「観念が」変わった、そもそもその思考を信じていない。
 

本当の「癒し」というのは、自分の観念が変わる事であり、
感情だけをどんだけ癒しても観念がそのままなら何度でも同じ感情が起こります。



…で、一番最初に書いた『ある時点で「癒し」は手放す必要がある』というのは、
つまり世にある殆どの癒しは未来志向だからなんです。
この治療や、このセラピーをしたら、未来に、治るだろう、という。

でも世の中には、どんだけやっても無理な事はあります。
例えば老化。誰もが絶対的に老化していきます。いつまでも若くありたいと思ったら苦です。
そして生死。

肉体の事以外にも、例えば天気や地震など自然のあれこれを何とかしようったって無理です。


ちなみに、ちょっと例えがアレですが、世の中で嫌われているG(ゴキ)という黒い虫。
Gを嫌いな方は多々居ますが、もしも「絶対にGは嫌だ、何が何でも見たくない」となったら物凄い苦です。
ありとあらゆる隙間を塞ぎ、ありとあらゆる薬剤を使い、日々ビクビクする事になります。

でも、Gは出るかもしれないし、まぁ仕方ない!と諦めて受け入れたら、上記よりは楽ですね?
「まぁ出たら出たで何とかすりゃいいや」と。これが「現実をあるがまま受け入れる」って事です。

「悟り」もそれと似ています。

以前、YouTubeにあったインタビュー動画でケイティが「(肉体的な)痛みすら、魅了される」と言ったので私はビックリしたんですけど

つまり「苦を無くそう」ではなく「苦はあるものだ」なんです。
色んなネガ思考は浮かびますし、苦しい事も多々ありますが、それを完全に受け入れる。

しかしそこに到達するのは並大抵ではないというのも一面の真実としてあります。

なのでケイティが10年だったかの壮絶な鬱の末に悟ったというのが納得できるんです。
自我が完全降伏しないとそこまで行かないんですよ。

ただ、どういう事情というか、どういうルートで自我が降伏するかは人によって全く違うので一概に鬱が、とか言えませんが。あと自我って再生(再誕生)したりしますんで、「自分は悟った!」なんて思ってたら実は爆誕してたってのもあったりします(汗)

 

 


ちなみに私は自分のトラウマ症状の苦しみを何とかしようと数十年、散々藻掻いて色々やって、
それでもダメだ、もうどうにもならん、となった時に「もういいや」と楽になりました。
その経験が上記の理解に繋がっています。

しかしそこまで到達するには散々「失敗する」「失望する」事が必要でした。

なので逆説めきますが、とことんやって、行く所まで行くというか、
「癒し」は必要ではあるんですが、ある地点で「癒しを手放す」事も必要になります。
それは貴方が「それを癒す事に苦を感じた時」だと思います。

このことは癒しのみならず、全てに言えて、

全ての事は、やりたいならやる、でもその後にどうなるかは分かりません。

「幸せになりたい」ともがいてもがいて、「これで幸せになれるだろう」という事を色々やって、それで上手く行ったり行かなかったり、その内、何をやっても上手く行かず苦で苦で、どうにもならなくて、という事が起こり、もう駄目だ、自分は幸せにはならなくてもいい、となった時にもしかしたら「これでいいんだ…」と楽になる、かもしれない、という事です。

結局は、未来の事は分からない、しかし何にせよ悟りに向かって進まされている訳で、それが分かれば「流れのままに」=「今している事がそれでOK」という事になるんです。表面的な結果がどうであれ。

シンプルに言えば「苦しんでもいいんだよ」という事になるかなぁ(汗)
いつもながら分かりにくい記事ですが仕方ない(苦笑)ウインク

前回も書きましたがウチのブログは私の個人的体験と解釈・考察を

好き放題に書いているだけですので適当に読んで下さいね(笑)

 

最近、言葉のトリック、というのをつくづく思うんですが

 

例えば「自分を愛しましょう」って言う言葉がありますけども

 

さて、一体、誰が、「自分」を、愛するんでしょう?

 

「自分大好き」「自分なんて嫌いだ」「こんな自分はダメだ」と

 

「対象化」してますけど

 

「自分を愛する」だと、「誰か」が「自分」を愛さないといけませんね?

 

一体誰が、「自分」を愛するんでしょう?

 

そもそも例えば何かいいことがあって

「自分大好きーっ!」って幸せな気持ちになっている時は、

言葉が全く無くても「愛」の感覚が全身に溢れてますね?

逆にショックな事があったり嫌な事があった時には

言葉が無くても重たい気持ちになります。

つまり、「それそのものになっている」って事です。

それそのものだから言葉が要らないんです。分離していないので。

 

 

 

世の中にはアファメーションというものがあって

「自分大好き」と毎日言っていると自分が好きになるらしいですが

逆に「自分なんかキライだ」と毎日言っていれば自分が嫌になります。

 

何でかと言うと、貴方がその言葉を信じたからです。

 

 

 

さて、「自分大好き」とは「自分の事が大好きです」と言ってる訳ですが

誰が、「自分」を、好きなんでしょうか(笑)

 

もうここまで書いて来ると、一般的には

「アンタ何を書いてんだ、馬鹿じゃないのか」と思われそうですが!爆  笑

 

「悟り」に興味のある方は、上記の事を考えてみて下さいニコニコ

まず最初に、
ウチのブログは別に、他者を「悟らせよう」とするものではなく
このブログ読んだからって「悟る」訳でも無いですのでそこはご理解下さい。

ここではただ、自分の経験と理解を書いているだけです。
何で書いてるのかは知りません! 単に書いてるだけです。

ちなみに、悟りの理解が本当に深まって来ると
こういった悟りのブログや本を「あまり真剣に読まない方がいい」という事が分かって来ます。
真剣にというと言葉がアレなんで…「妄信」と言った方がいいかな。

なぜかと言うと「全ては観念」だからです。

他者の言、それがエックハルト・トールだろうがケイティだろうが

マハラジだろうが中野さんだろうが誰かのブログだろうが
全て「言葉は観念」です。

誰かの言う事に「傾倒」すればそれは観念となって自分を縛ります。

全ての観念からの解放、というか

観念の幻想性を見るのが「悟り」と言われるものなので

 

ではなぜこのような「悟りの知識」や「悟り本」が存在するのか
それは「道標」というだけです。単なる参考書です。

「月を指す指は月そのものではないが、月を指す指は要る」という事で

その使い方は「貴方が、それそのものを生きる、実践する、そうなる」以外にありません。

知識的な理解(頭での理解)ではダメで、むしろそれは「観念世界」=夢の世界に居ます。

例えば貴方が車を運転したいとして、どんだけ運転方法や車の知識を頭で理解した所で
自分が実際に車を運転できなかったら意味が無いのと全く同じ事です。

どんなものでも、誰の言う事でも、悟り系の知識は、あくまで「参考書」です。
自分が実際にそれを実践し「そうなる」=体現しないと意味が無いんです。

ちなみに「体現する」とは、一瞥体験する事ではありません。

 

体験したからとてそれを理解し、それを生きられるようになる訳ではありません。


体験はただの体験であって、その解釈がどのようであるかは

その時のその人の「理解度」によるからです。

 

例えばスピ系を色々やってきた人が一瞥体験するのと

全く何も知らん人が一瞥体験するのでは、その体験の「解釈」が変わります。


 

悟りとというのは「一瞥体験したら終わり」じゃないです。
一気に悟り切って悟りだけを生き続ける人はまず居ません。

…とは言っても、全てには時機があり、
理解する時じゃないと理解できないんですよ。

だって「それそのものが、悟ろうとしている」訳ですので。
全ては「それ」が司っています。

悟ろうとしているのは「誰か」ではなく
「それ自身が悟ろうとしている」訳ですから、それは流れのままに起こって行きます。

逆に言うと「それ自身が悟ろうとしている」事が分かれば、
…ラメッシ・バルセカールの本に「誰が構うもんか」っていうタイトルの本がありますけど
確かに「誰が構うもんか」になって行くんです。


…貴方がこのブログを見ているのは偶然ではないんですよ。

もしかしたら貴方の部屋の本棚には「悟り本」があるかもしれませんが

 

つまり「悟り本」の方から、貴方に来た、という事なんです。

貴方の為に悟り本が来た、そしてこのブログは、貴方の為に書かれたんです。

だからこうして貴方の目の前に現れている訳なんです。

って事は別にシャカリキになって悟ろうとしなくってもいいって事なんです。

 

いつも変な事を書いてますが今日も変な事を書きますよ(笑)

 

冒頭のタイトルですけど

「私」はいつ生まれたのか?というお話です。

「私」すなわち「自我」ですね。

 

貴方が「自分」だと思っている、この「自我」です。

 

結論から先に言うと

 

自我は肉体より後に生まれます。

 

だって赤ん坊には自我がありませんね?

確か自我形成は5歳とかなのかな何歳なのか知りませんが

とにかく肉体がある程度成長した時に自我が出来るのと言うのは心理学の常識です。

心理で「赤ん坊に自我がある」という人はまず居ないと思います。

 

そもそも「言葉」が無ければ自我は生まれません。

例えば、貴方が全く知らない言語を考えてみて下さい。

例えば「今、エスペラント語で何か考えて下さい」とか言われても無理ですね?

言語が無いと思考が出来ないんです。

 

言語の無い赤ん坊には自我がありません。

「でも前世の記憶が」とか「胎内時の記憶が」とかいうのは

 

 、貴方が、習得言語でもって考えた思考であり

 、貴方に来た思考です。記憶は思考ですんで。

 

しかしそれによって、例えば前世療法や、胎内時のトラウマの癒しなどでも

癒しは起こります。なぜならトラウマというものは「観念」だからです。

全てが観念ですから、苦しい観念、無意識に信じ込んだ観念への執着が

何かしらの手法で持って変わる、または消滅するのが「癒し」であり

だから「前世療法」や「胎内時の癒し」等も、効果がある人には効果がある。

 

で、話を戻して

 

赤ん坊には自我がありません。

つまり「私」が居ないのです。

にもかかわらず、赤ん坊は生きています!!(笑)

腹減ったとか、不快だとか、泣いたり笑ったり色々なものに反応を起こしています。

 

つまり「意識が」あります。

 

そしてその意識がある事に「気づいている存在」があります。

これを細かく言うと

スヤスヤ寝ていて起きた時、というか起きる瞬間。

「寝ていた」事と「起きた」事に気づきますよね?

言わば「意識がある」事と「意識が無かった」事に気づきますよね?

 

ということは「意識そのものではない何か」がそれに気づいているという事です。

 

もし貴方が意識そのものであるなら、意識が無かった時を絶対に認識できないので

意識がある時しか、分からない筈なんですよ。ちょっと分かりにくい説明かもですが(汗)

例えば目は目そのものを見る事が出来ないので鏡を見ないと目を見れないというのと同じです。

 

意識が無い(無かった)事に気づけるのは、意識が有ると無い、を認識できる他の存在が必要なんです。それが「気づき」と言われるものです。

 

 

…ともかく赤ん坊には自我がありません。

つまり「私」が居ないのです。

にもかかわらず、赤ん坊は生きています!!(笑)

腹減ったとか、不快だとか、泣いたり笑ったり色々なものに反応を起こしています。

 

つまり「自我より先に肉体が生まれ、生きている」という事です。

 

では誰がその肉体に居るのか? →「意識」ですね?

 

その意識がある事に気づいているのは誰でしょう?

それは「肉体が生まれる前」から現在もずっと、気づいていますね?

だからこうしてブログ見たり出来てる訳なんで(笑)

 

何はともあれ、上記の説明で

「自我」は自分ではない、という事が分かるんじゃないかと思いますニコニコ

 

 

そういや以前、「自我の死とはどういうものか」という記事書いたんで

もし良ければ参考程度に読んでみて下さい。