原初の星の物語

原初の星の物語

オリジナル作品「紺碧の採掘師」のブログ。更新情報など。

さっきたまたまヤフーニュースを見てたらこういう記事がありまして。

 

 

 

この記事を読んで、ちと個人的視点からブログ書くかなと。

 

 

…実はエックハルト・トールが動画で言ってるんだけど

エックハルトの所には「成功者」とか「ハリウッドの俳優とか」も良く来るんで

エックハルトはそういう方々を沢山見て来たそうですが

何で彼らが「悟り」に興味を持つかと言うと

「成功しても幸せにならなかったから」なんです。

 

彼らもやはり「認められたら幸せになれる」とか

「有名になったら」「金持ちになったら」「豪邸があれば」「素敵な相手と出会えたら」

「華々しいキャリアがあれば」とか、つまり

「何かしら得られたら幸せになれる」と思って必死に頑張った訳です。

 

しかしそれらを手に入れても「幸せ」にはならないと実体験して絶望したと。

求めていたものを手に入れ、更にその上まで手に入れ高みに上り詰めたのに全く幸せではない、なぜだ、どうして、もうどうしたらいいのかわからない…と。

 

んでも、そもそもの話。

じゃあ「何でそれを求めたのか」という所を突き詰めると

「認められたい」=「自分には価値が無い」

「愛されたい」=「自分は愛されない」

「金持ちになりたい(力が欲しい)」=「自分には力が無い」

 

つまり「ポジな事を願う」原動力はその裏に「ネガ」があるからで

その「ネガティブ」を覆い隠す、否定する為に「ポジになろう」としたからです。

 

端的に言うと「自己否定を隠す為に、外側の何かを得ようとした」

しかしその「外側の何か」を得た所で「自己否定」は無くならないので絶望する。

それに「得る」という事には、同時に「失う」という不安も必ずセットになりますんで。

 

本当の幸せとは実はその、自分が見たくない「ネガ」を愛する(受容する)事なんです。

 

上記に挙げた記事の中では、それが端的に表現されています。

 

例えて言うなら

「失敗した」事を隠したり否定したり落ち込むのではなく

その「失敗した」自分を受け入れ愛する、という事なんですよ。

日本人ってその辺は下手ですよねウインク

 

中野さん(ってまた中野さんか!)の、最近の記事でこんなのがありますが

 

 

実は人は本当には、誰もが例外なく「本当の自分」に受容されているんですよ。

過去記事で何回か書いてきましたが、我々の本性は「至福」なんです。

本性が「至福」だから「至福ではないもの」を体験する事でしか「至福」に気づけません。

なぜなら「渦中に居る時は認識できない」からです。

「対象化」しないと認識できないので、一旦至福から離れる必要があります。

 

例として言うと、

夢の中で夢に没頭している時には「夢だ」とは気づかない。

「夢だ」と気づけば「夢だ」と分かりますが、それは

夢との同一化(没頭)から離れて、夢を「対象化」したという事なんです。

 

スヤスヤ寝ている時に「自分は寝ている」とは気づきませんよね?

朝、目覚めた時に「ああ、寝ていた」と気づきます。

つまり「眠り」から離れて「対象化」したからです。

 

同様に「至福」から離れて「対象化」しないと「至福」は分からないんです。

 

 

前回の記事にも書きましたが、人は「必要な事 しか していない」

という事は、全てが受容されているんです。

 

「悟ったら」幸せになるとか

「悟ったら」流れに乗れるとか

つまり「未来に」悟ったり、流れのままになったりありのままになったり幸せになったりするのではなく

 

貴方が生まれてからずーーっと、貴方は「あるがまま」なんです、本当は。

 

「個人の自己意志」=「本当の自分(神・全体)の意志」であり

「個人が選択できる自己意志も自由意志も無い」代わりに「全ては神・全体の意志」です。

 

ただそれを否定しているだけです。

 

過去記事に書いたけど、「悟り」っていうのは

悟っていると「思っている人と思っていない人がいる」だけで

つまり「その思考が来た人と来てない人がいる」ってだけで

人は例外なく全員が「流れのままに」生きてます。

 

例えるならエックハルトが「流れのままに行きましょう」と言い、それを聞いて

「よし流れのままに生きよう」と思って流れのままに生き始めて

「全てが上手く行き始めた」というのも全部、神のシナリオ通りです。

 

エックハルトが言うのもそれを聞くのもそのように生き始めるのも全部、流れでした。

 

「エックハルトの言う事聞いたから、そうなった」ではないんです。

 

 

だからどれだけ苦しもうとどれだけ自己否定しようとどれだけ悩もうと何があろうと

苦しみながら、悩みながら、「これでいいんだな」という自己肯定と自己受容がある状態が

「悟った状態」というか「気づいた状態」であり、それで「人生から深刻さが消える」

 

で、それが起こるには「源への信頼」が無いと無理なので

「本当の自分」に気づこう、という事になるんですが

(正しく表現するなら「気づきそのものが本当の自分だと気づこう」だな)

 

それが起こるかどうかも「流れのままに」です。

 

何でもかんでも全部「流れのまま」だと「自分」は何もできないじゃないか!

と思うかもしれませんが……だから「アンタは居ねぇ」という事なんです。

アンタもワタシも誰も居ねぇという……爆  笑

 

 

とりあえずシンプルに言うと

「全ての思考は神から与えられてるんだなぁ」と思い

何がどうでも「これでいいんだなぁ」と思ったらいいと思いますニコニコ

いつも謎めくこのブログ、今日も変な事を書きますよ!

 

私は以前、ちょこちょこと中野真作さんのライブ動画を見てたんだけど

その後あんまり見なくなって、たまたまさっき何となく最近の動画を見たら

こんなタイトルだったんですが

 

『あなたは絶対に大丈夫』

https://www.youtube.com/live/N70qVkpUdy4?feature=shared

 

この動画の中で…… 

 

 

ここで本題に入る前にひとつ。

アメブロって昔っから宣伝目的フォローが多くて多くて

特にスピとか心理とかの事を書いてると、そういう系の方々からフォロー来たり

相互フォローしないとフォロー外されたりするんですが

 

ハッキリ言いますが私は別に「中野さん」の信者でもなく爆  笑

別に何かの教義やらなんやらを押し付けてる訳でも無く

スピや心理のセラピーで商売しようとしてる訳でも無く

 

あくまで私の経験からの個人的理解を書いてるだけですので

そこんとこ宜しくです。

 

 

話を本題に戻して、上記の動画の中で、中野さんが 18:02 あたりで

 

『今この動画を見てくださっている貴方は

 自然とそういう本質的な変化に導かれている所だろうと思うんですね

 そうでなければ多分この動画あるいは私のエネルギーに

 引きつけられてこれを見ようとしていないはずですから』

 

というような事を仰ってるんですが、

貴方が今、私のこのブログを見てる事も同じようなもんで

(宣伝フォローに来る方は別ですけど。だって記事内容読んでない訳だし!爆  笑)

 

……貴方のアタマに「このブログ見よう」とか

「中野さんの本を読もう」「エックハルトの動画見よう」っていう思考が来たから

「さとり」とかいうモンに興味を持ってる訳です。

 

以前の記事に私の「明晰夢」の話を書きましたが

 

 夢の中で夢だと気づくには

 「あ、これは夢だ」という思考(または直感的理解)が来ないと

 「夢だ」とはならんのです。

 

「考えても」無理です。

なぜなら思考や理解は「気づいた(認識した)瞬間、既に過去」なので。

 

ここで「でもヘミシンクとかなら自分の意志で出来るんでは?」とか思うかもしれませんが、そもそも「ヘミシンクで明晰夢を見よう」とか「ヘミシンクって何だろう」という思考が来なければ「ヘミシンク」方面に行かないんですよ。

 

だって、ある人は「ヘミシンク?なにそれ美味しいの」でスルーするのに

なぜ貴方は「ヘミシンクをやってみよう」となったんでしょうか。

何でスルーしないんでしょうか。

 

「ヘミシンク?知らんわそんなん」でスルーする、という思考が来ないからですよね。

そして「ヘミシンクをやろう」という思考が二度と来ないから、忘れ去る訳です。

 

 

たまにアニメとかゲームとかで「記憶を保管する」とかいう設定ありますが、仮にその人格とか記憶とかを何かに保存したとしてその「整合性」はどうやって確かめるんか?という。

 

以前の記事で書いた事あるけど

例え10年前の写真があったとして、その写真を見た時に「これは自分の10年前の写真だ」という思考がその時に来なかったら「この写真は何?」となるんですよ。まぁ機械は「10年間データが変わっていません」と整合性チェックして証拠を出してはくれますが、しかしそれを認識する側の人間の思考(記憶)が無かったらねぇ……。

 

つまり「記憶」も「今、起こった思考」なんです。

 

この理解が無いから、「記憶を保存しよう」とか「人格データだけで生きる」とかいう架空設定を考えてしまうんです。まぁ物語としてはオモロイけれども、「理解」があると「うーんでもなー」となってしまうんで「理解」が無い方が「儚い……」とか思って感情移入して楽しめます。私も昔はそうだった……今は理解があるんで「あらまぁ」ってなってしまうorz

 

まぁでもしゃーない、私にはそういう「理解」が来たので。

そして今このブログを読んでいるアナタにも来るかもしれません。

 

上に書いたように

 

 夢の中で夢だと気づくには

 「あ、これは夢だ」という思考(または直感的理解)が来ないと

 「夢だ」とはならんのです。

 

……逆に言えば、貴方にそれが必要だから、来る訳ですよ。

 

例えばですが、上記のような「記憶をサーバーに保管して生きる」みたいな物語作品を作る、という役割を担っている人には、「理解」は来ないしこのブログも見ないし中野さんの動画とか「悟り」についての事とかの思考は絶対に来ないと思いますし、他者から勧められたとしても見ない事になるでしょう。

 

なぜなら「今は、必要では無いから」です。

全体の、真我の望みではないからです。

 

しかし、その人がその物語作品を作り終えて役目を果たした後に、もしかしたら「理解」が来るかもしれません。

たまたまウチのブログ見て「中野さんの本を読んでみよう」という思考が来るかもしれないし、たまたまYouTubeのオススメにエックハルトの動画が出てきて何か知らんが見てみようと思うかもしれない。

 

つまり「今この瞬間」必要なものは与えられてるんですね。

 

それがどのような事であれ、「必要な事 しか させられていない」んです。

 

だから中野さんとかが「問題が無い事が分かりつつ、問題を解決しようとするのが一番効果がある」とかいうのを言ってた気がするんだがそんな感じです。

 

例え貴方が……というか全人類誰もが例外なく何かしらの「無意識のパターン」持ってて何かしらの「問題」とか「トラウマ」を大なり小なり持ってんですけども、それがあってもそれでOKなんです。

 

それでOKだと分かりつつ、トラウマを癒したり、無意識のパターンと向き合ったり「解決しようと」する訳です。

 

なぜならそれすらも全部「本当の自分(空とか真我とか言われる奴)」から与えられたシナリオ通りだからです。

 

だから例え貴方が今、どんなに絶望していても「大丈夫」だというのはそういう事なんです。

だって、それで良いからです(良くねぇよ!って思っててもそれで良いっていう!)ウインク

今から10年以上前、私は自分の作品を考える時に、キャラに対して「他人事」で

「凄い、このキャラこんな事を言ってるよー」とか

「このキャラ、物凄いネガだな」とか思ってて

んでチョビッとスピをかじっていたので

「このアイディアはガイドの声だ」とか

「ガイドがこういってるんだなー」とか「他人事的に」思ってたんですが

 

しかしある時、とある自己啓発系のセラピストが私に

「それは全て貴方自身ですよ」と言ってくれたんですね。

それは当時の私にとっては大ショックでありました。

つまりそれほど「自分が他人事」になってたんです。

自分から乖離していたとも言えますけど。自己否定、自己逃避というか。

 

 

私が「思考は現実化する」的な自己啓発セミナーに大金はたいて行った話は

かなり前のブログで書いた事あるけども

そこに行った唯一の成果は「全てを自分事にする」を叩き込まれた事だと思う。

 

だって「思考は現実化する」っていうメソッドは

その理論に忠実になるならば「全ての思考は現実化している」でなければならず、

そうでないと

「この思考は現実化しているが、他の思考は現実化していない」という事になる

ここが、様々な「思考現実化」の教えで色々異なるとこで

「叶わないのはこういう理由だ」と理屈をこじつける訳ですが

大体は「無意識下の思考だから」ってとこで

「自分の無意識を知ろう」となる訳ですけども

 

何はともあれ仕組み的に「全ての思考を自分のものとする」が前提です。

なぜならガイドの思考だとか、「何か別の存在の」思考だとしてしまえば

それは自分の制御下には無いという事になり「自分の望む思考現実化は無理」となるからです。

 

 

とにかく私はその「思考現実化」に行った事で

どんな思考も、どんな感情も、降って来たアイデアも降って来た何かも

全部、全て、例外なく、自分のものだ、となった訳です。

 

しかしそれは

「心理」においても「悟りの道」においても重要すぎるほど重要な事なんです。

 

なぜならば人は、苦しみとかネガな面から「逃避」するので

 

だからこそ、苦しいんですよ。

 

本当に「幸せ」になりたいならば

自分のネガティブな面を受け入れる事なんです。

 

だって「全てが自分」だからです。

 

 

「思考は現実化する」とか「自己啓発」とかは「成功」を「幸せ」とし

現実が思い通りになったら幸せだ=ネガな事は起こらないみたいな感じで

「スピ系」は大体「光」とか「愛」とかを重視しますが

 

それって実は「闇」とか「ネガ」の否定ですんで

 

「光」とか「成功」の裏には

抑圧された「闇」と「失敗」が絶対にあります。

 

片方だけ見ようとするから、苦しいんです。

光だけ見ようとして闇を否定するから苦しいんです。

「いつ闇が来るんだろう」と恐れるようになるからです。

 

「悟り」とは「全」として生きる事でして

「光も闇も全て受け入れる」から安心して生きられる訳ですが

 

とはいえ自分の「闇」を見るのは相当な勇気が要ったりするんで

そういう意味では「真我」とか「空」とか「源への信頼」が要ります。

 

私の場合、それは奇しくも「臨死体験談」を見る事で培われました。

 

このブログの過去記事みると分かりますけど

私は「悟り」に進む以前は海外の臨死体験動画を散々見てました。

過去記事に残ってるんで興味ある方は見てみて下さい。

あれが、「死」と「源」に対する信頼を培ったんです。

 

私のように幼少期にトラウマ受けて基本的信頼感が少ない人は

なかなか「源にゆだねる」が難しいと

真っ当な心理屋とか悟りの人は言ってますが

 

海外の真っ当な臨死体験はその「基本的信頼」を培うのに役立ちます。

実際、私がそうなんです。臨死体験談を見る事で「源への信頼」が出来て

そこから私は「悟り」へ進んでいきました…って私が選んだ訳では無く

なんかそういう事になったんですよ、勝手に進まされました。

それはこのブログの過去記事を見れば明白です。その軌跡が残ってます。

 

だから人生は完璧で無駄な事は一つも無いと断言できます。

 

 

 

私は若い頃、一番好きだった映画が

深作欣二監督の「バトル・ロワイアル」なんですが

あれは物凄い衝撃的で、当時は何回も映画館行ったしDVDも買いました。

あとプレステの「バイオハザード」とか「ダークメサイア」とか大好きで

 

ああいうのを見る事で自分の中の何かを感じ取りたいというか

…だって当時の自分は、カウンセラーに

「怒りを感じ切れ」と言われて感じようとしたら

全身筋肉痛になって数日苦しんだという

それほどの怒りを持っていたにも関わらず

「イイコでいなければ」ってやってた訳ですんで

 

 

世の中には「幸せになろう」系統の色んなメソッドがあって

大体は「ポジでいよう」とか「愛と光と感謝で」とかですが

 

実は自分の闇とか怒りとかを自覚した方がスッキリして楽になったりしますんで

むしろゲームでバンバン敵をブッ倒すとかの方が良いような気はします。

 

ただし、そのネガティブ感情に「溺れる」のは本末転倒で

例えば「可哀想な主人公になって被害者になり切る」とかいうのはダメですが。

 

「自分の中にどういう感情があるのか」

「自分は本当はどう感じたいのか」

 

自分の本当の感情を感じる為に、やったらいいと思います。

 

 

…何回も書きますが、外側に見えるものに「幸せ」があるんではなく

「全ては自分自身の中にある」んですウインク

人と言うのは自分の持つ観念でもって物事を判断するもんですが

ウチのブログのアイコンはこんなで↓こんなイラストとか描いてるから
 
ブログ記事を書いてる人は「若い人」なのかと思うかもしれませんが
私は若くはありません!爆  笑それなりの歳の人ですウインク

ところで以前の記事で、

夢の中で「夢だ」と気づかないと夢だとワカランという事を書きましたが
「悟り」も全く同じ事です。

中野さんの本でこういう文章がありますが

目覚めた人と目覚めていない人がいるわけではなく、目覚めたと思っている人と目覚めていないと思っている人がいるだけなのです。

中野真作.癒しと目覚め Q&A. shibabukkusu. Kindle 版. 


夢の中で「夢だ」と気づいている人と気づいていない人が居るというのと全く同様で
その思考が来なければ「悟った」とは思わないんですよ。

夢の中で「夢だ」という思考(直感的理解)が来れば、
「夢だ」と気づきますけども、もしその思考が去ったなら(忘れてしまったなら)
「夢」に巻き込まれていく訳ですから。
以前の記事で書いた通りです。

私は「夢だ」の思考が無くなった途端に再び夢に巻き込まれていきました。

で、その「夢だ」という直感的理解は

自分で自己意志で(考えたりして)起こした訳では無く

「勝手に来た」訳です。
 

同様に「悟りだ」というのも同じ事です。

例えば、かなり前の過去記事で書いた事あるけど

殆どの臨死体験者は自分が「臨死体験した」なんて思ってないんですよ。
臨死する以前に何かの本で読んだり、人から聞いた話で
「こういうものが臨死体験と言われる体験だ」という知識・観念があったならば、
その体験をしたときに「臨死体験した」となりますが
そうではない、スピとか全く興味が無かった人々は「不思議な経験をした」になるんです。

ちなみに中野さんは一瞥体験をする以前に何かの本で読んだらしく?

「これが悟りの一瞥か」とかいう知識があったんで
自分が実際その経験をした時に「これがそうか」と思ったそうです。

しかしエックハルト・トールの場合はそんな知識とか無かったから

「自分の、この感覚は一体何なんだ?」となりました。

(そこから色々調べたり理解したりして行った訳です)

つまり「悟った」とかいうのは、自分の経験や理解を「これが悟りだ」と
合致させたというか定義しただけ、という事になるんです。


「悟った」「悟り」という事すら「観念物語である」という事なんですよ。

で、中野さんの本にあるこの文章ですが

(って勝手に中野さん応援フェア絶賛継続中だな)

 

 悟りや非二元に興味を持っている方に注意してほしいのは「あの人は悟っている人だ」という投影です。
 「悟っている」も「悟っていない」も思考が作り出した分離(ストーリー)にしかすぎません。悟りというのはすべての人の本性そのものです。

中野真作. 「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ~非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー~ . aoyamaraifushuppansibabukkusu. Kindle 版. 

 

『あの人は悟っている人だという投影』
…上記に書いたように、自分の中にそれが無ければ投影は起こらないんです。

貴方の中に「こういうものが悟りだ」とか「この理解が、悟ったという事だ」とか
何らかの「悟りへの理解」がある、「悟りを知っている部分がある」から
外にそれを見た時に「あの人は悟っている」という判断が起こるんです。
自分の中のものを相手に合致させたというか。

だけどそれが自分の中にあるとは気づいていないから、他人が持ってるように見える。

なぜかと言うと自分の事は自分では分からないからです。
自分の顔は、鏡を見ないと見れませんよね?

例えば酔っぱらってる人って自分が酔ってるとは思わないですよね!
私は酒を飲まんので、飲んで酔った人から「アンタ酔ってるねー」と言われて
「いや私、シラフなんですけど」って言っても「いやアンタ酔ってるよ!」
…いやいやそう言ってるアンタが泥酔してんですけど!っていう爆  笑

んで酔いが醒めると「自分、酔っぱらってたかな」とか言い出す!

つまり「離れて(対象化して)初めて気づく」んです。

だから、自分の中にあるものに気づかず他者に見て、対象化して気づくんだけども
自分の中にあると思っていないから、他者が持ってて自分には無いと思ってしまう。

(これは実は「空」と「現象」と「気づきの仕組み」そのものだったりもします。)


中野さんは悟りの知識があったんで、一瞥体験した時に「これがそうか」と思った。
しかしエックハルトは無かったから「ナンダコレ」になった。

貴方の中に「悟り」を知っている部分があるから、ウチのブログ見たりするんですよ。
そうでなかったら「なにこの怪しげな謎ブログ、おかしいんじゃない?」とかなります。

ウチのブログは単なる「鏡」です。

貴方の中に「知っている部分」があるなら「なるほど!」とかなるでしょう。

ただそれも「起こるがまま」で、

夢の中で「夢だ」という直感的理解が来ても来なくても「夢の中に居る事」は変わらないように、「悟った」と思っている人と、思ってない人がいるというだけの事なんです。ウインク
 

昨日の続きです。
昨日は「自我はネガティブだ」と書きました。
しかしそれは自我が最も認めたくないものだったりもします。
なぜならそれを感じるのは「苦しい」からです。

誰だって自分はイイヒトだと思いたい、
自分は正しいとか優しいとかポジだとか自信があるとか思いたい。

なぜなら「ネガな部分に気づく」のは苦しい(と信じている)から。
だからそこを見ないように必死に「偽っている」

逆に言うとそうやって「個であろう」とする。

しかし「本当の貴方」は「全」なんです。
昨日も書いたけど「個である」という事そのものが「全である」という厳然たる証拠なので。

「全」とは「受容」であり、それが本質的な「愛」です。

ニサルガダッタ・マハラジという人の本にこういう言葉があります。

 そこに苦しみがあり、世界は苦しんでいるということを知るだけで充分だ。快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。ただ理解だけがそれをもたらすのだ。ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。至福を通してだけでは、あなた自身を知ることはできない。あなたの本性そのものが至福だからだ。悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向きあわなければならないのだ。

 

スダカール・S・ディクシット; 福間巌; モーリス・フリードマン. アイ・アム・ザット 私は在る (pp.484-485). 株式会社ナチュラルスピリット. Kindle 版. 

 


『貴方の本性そのものが至福だからだ』

例えば暑い夏にキンキンに冷えたジュースを飲むと、冷たーい!ってなりますよね。
暑い夏に生ぬるいジュースを飲んでも「そんなに」って感じです。

つまり対極の両極端であればあるほどそれは際立ちます。

至福でいる時に至福はそれほど感じないんです。
至福から離れた時に、更には「苦」を感じている時にこそ、至福は感じやすいんです。

 

 衝撃を受けるような大きな一瞥体験が起こるのは、それまであまりにも強く自分自身を抑圧し、生きるエネルギーにふたをしていたからです。そのエネルギーが急に流れ出したときに、その反動で一瞥体験と言われるような体験が起こるだけなのです。

中野真作. 癒しと目覚め Q&A . shibabukkusu. Kindle 版. 

 

 

夢の中で夢だと気づいた瞬間に、夢から離れ夢と距離が出来た状態になるのと同様

自分が至福だと気づくには至福から離れなければならないという事なんです。

至福を「感じている」という事は、対象化した=離れた、という事なので。
それそのものになっている時には至福は感じません。

と同様に、実は「苦」そのものに同一化している時には「苦」は感じないんです。
 

だからある日突然、鬱になるとか、ある日突然、身体症状が出るとかになる訳で。

「自分は何も問題が無いよ」と思っているよりは
「自分には問題がある」と思っていた方がまだ気づいているだけマシという。

「自分はイイヒトだ」とか「自分は絶対悪くない」とか思っているよりは
「自分のネガティブさ」を直視して気づいていた方が悟りに近いという事になります。

とはいえ「人生は問答無用」ですので、世の中は色々な「ネガティブな」事象を起こして「ネガティブさ」に気づかせよう認識させようとします。

昨日書いたように、自分の「全て」を受容する=癒す事が「悟りへの道」だからです。
 

「名前の無いもの」は自ら目覚めよう、悟ろうとして、ネガティブな事を起こして貴方の闇に気づかせようとします。
例えばSNSとかで他者のネガティブ性=自分のネガティブ性を見せられたりする訳です。
他者の嫌なコメント見てムカッとしたり、インスタ見て嫉妬したりしますわな?

「困った人」の言動を見て怒りを感じたりしますわな?

でも、それはこういう事なんです↓

 しかし理解が深まってくると人間関係の見え方が変わってきます。実はすべての人が目覚めようとしてもがいているだけなのだ、ということが見えてきます。私たちが生きているのはお互いを目覚めさせるため、お互いに互いの目覚めていない部分を相手に見せるために生きているのだということがわかってきます。  私たちは目覚めるために生きているのです。すると、どんなことが起こってもそれは目覚めるきっかけなのだということがわかり、生きることが随分楽になってきます。

中野真作. 癒しと目覚め Q&A . shibabukkusu. Kindle 版. 

 

エックハルト先生が動画でチョロッと言ってましたけど

ネットの発展した時代になって「世界」が繋がるようになりSNSとかで「人々」の色んな面が見えるようになってきた、と言う事は全体の「ネガな面」も表出するようになってきた。

そのバランスを取る為に、「目覚める人も増える」

(逆に言うと目覚める為に、色々な事が起こる)

つまり宇宙が目覚めようとしているからなんです。自然現象なんです。ニコニコ