原初の星の物語

原初の星の物語

書こうと思った事を書いてます。

いつも変な事を書いてますが今日も変なことを書きますよ。

悟り系ではよく「思考を無くそう」とか「エゴはダメだ」とか「思考を止めよう」とか言って
言わば「思考」を悪いもののように表現する事がありますが、


ここでまず以下の文章を読んでみて下さい。

例として自分の作品からカルロスと護というキャラを使います。
 

カルロス「今日は何か仕事する気が無いなぁ」


護「天気悪いもんねぇ。んでもバイロン・ケイティっていう人がさ『現実は優しい』って言ってたよ」
 

カルロス「なんだそいつは」


護「え、カルさんバイロン・ケイティ知らないの? エックハルト・トールは?」
 

カルロス「知らんな」


護「ダメダメじゃん!」
 

カルロス「なにぃ!」

カルロスは護に対してムカついた。
コイツにダメな奴と言われると超ムカつくし、自分がそれを知らないという事にズドンと落ち込む。

これは完全に架空の文章で、実際の作品ではカルロスと護は上記のような会話はしませんが

貴方の頭の中には「カルロス」と「護」というキャラが居たと思います。

では上記の文章を以下に変えます。

今日は何か仕事する気が無いなぁ。天気悪いもんねぇ。んでもバイロン・ケイティっていう人がさ『現実は優しい』って言ってたよ。なんだそいつは。え、カルさんバイロン・ケイティ知らないの? エックハルト・トールは?知らんな。ダメダメじゃん!なにぃ!カルロスは護に対してムカついた。コイツにダメな奴と言われると超ムカつくし、自分がそれを知らないという事にズドンと落ち込む。

 

人の頭の中に浮かぶ思考を『そのまま』文字にすると上記になります。

それを、自我(思考)が勝手に分離させて、

これはカルロスだ、これは護だ、となっている訳です。

同様に「これは私の思考だ」「これは他人の思考だ」となっている訳です。



悟り系で「全ては自分」と言いますが、

「これはカーテン」「これは机」「これは身体」「これは足」「これは床」と

ラベリングして分離させているのは「思考」ですが、

思考そのものも同様だという事なんです。


上記で「コイツにダメな奴と言われると超ムカつくし、自分がそれを知らないという事にズドンと落ち込む」という文章がありますが

それを「カルロスというキャラの想い」と思っているから普通に読んで楽しめる訳です。

でも「自分がそれを知らないという事にズドンと落ち込む」が

「自分の思考だ」と思って居れば、自分がズドンと落ち込みます。


世の中には「鬱ゲー」という、物凄くネガティブ的な物語のゲームがあって、ゲームすると暗い気持ちになったりしますが、んでも作中のキャラがどんなに悲惨でも、それを楽しんでますよね?

であれば自分の鬱な気持ちも楽しめるんじゃないかと思いますが、でもなかなかできません。
なぜならそれを「自分の気持ち」だと思っているからです、…って別に楽しめと言っている訳じゃないです。
鬱な気持ちはそのまま感じるべきなので楽しんではダメですが単に説明する為の例です。

感情はそのまま感じる事が重要です。が、「それを本当だとは信じない」のがポイントです。


で、思考が無いとどうなるかというと、上記全部が無くなります。

つまり「世界という物語」が消えます。

「カルロス」も「エックハルト」も「パソコン」も「机」も「手」も「身体」も無いです。


物体(現象)としては存在しますが「分離させる為の名前が消える」という事です。

 逆に言うと

 

 思考があるお陰で、豊かな世界がある、という事なんです。

だから思考は決して悪いものではありませんし、無くすものでもありません。


そしてそれは全て、貴方の中にあります。

貴方だけに与えられている「ストーリー」言わば「貴方の世界」があります。

素晴らしい事だと思いませんか?



貴方の頭の中には、このブログを読んで色んな思考が流れてると思います。
「変なことばっかり書くブログだ」とか、または「この人は、どんな人なんだろう」とか
それと同時に例えば「これホントなのかな、スピ系のAさんはこう言ってた」とか

「Bさんのブログだとこう書いてる」とか。

 

「Aさん」の言っていた言葉が浮かんだり、Bさんのブログの文章が浮かんだりするかもしれません。Aさんの言葉も、Bさんの文章も、自分の思考も全て全部

 

「貴方の中に浮かんだ思考」です。

 

世界には、貴方しか居ないんです。

 

ここ最近たまたま「書こう」と思う日が続き、記事を続けて書いてましたが、

そしたらなんか、ふと見たら物凄いアクセスがあってちょっとビックリしたんですけど

前にも書きましたがこのブログは私自身の経験と、

経験から自分的に理解した事を書いてるだけなので参考程度に読んで下さい。

 

そもそも「誰かの言う事を鵜呑みにする」のはあまり良くないです。

特に悟りの道においては「信者」になってはダメです。

なぜなら「悟り」とは「全てが自分である」事が分かる事だからです。

 

この「全てが自分である」ってのは心理の面から説明出来る事で

かなり前の記事に書いた事があるけど心理で言う「投影」です。

 

全て自分が持っている観念による解釈の投影である、という事なんです。

 

…例えばYouTubeの動画には色んなコメントが付きますね?

同じ物を見ても解釈は人によって全く違う訳です。

そしてそれは「その人だけの」解釈です。

誰もが「自分の信じたい世界を自分が見たいように」見ています。

 

例えば自分が味わっている「味」は自分だけのものです。

同じ物を食べても他人がどんな味を味わっているかは絶対に分かりません。

仮に他人の身体の中に入ったとしても、その時に解釈するのは「自分」だからです。

 

例えば「寒さ」も、他人の感じている「寒さ」がどんなであるか

自分と同じ寒さなのかは分かりません。

例え「温度計の数字」が同じであっても感じ方は違うからです。

 

つまり誰もが「自分の世界を体験しているのは自分だけ」なので

もし仮に他の人になってもその解釈は「自分」の解釈となるから「自分しかいない」という事になって、まぁ「ワンネス」とかいう言葉があったりしますが、それはともかく。

 

ちなみに「悟り」についてもその表現は人によって全く違います。

同じ事を言っていても

例えばマハラジとアジャシャンティとエックハルトとケイティと中野さんでは表現が違います。

だから「違う事を言っているのでは」とか「誰の言う事が正しいのか」と思ったりするんですが、悟りについての理解が深まると「表現が違うだけで誰もが同じ事を言っている」と分かるようになります。

 

あくまで私の個人的な経験で言うと、

とにかく色んなものを読んだり見たり聞いたりした方がいいです。

このブログがその軌跡です(汗)

最初の方から見ると、まぁ色んな事をやってますから(爆笑)

その時々で色んなものに傾倒して「その時の」理解をしている訳です。

現在になってやっと理解が落ち着いたというかまとまって来ましたが

多分、今後も理解はもっともっと深まるだろうと思います。未来の事は分かりませんが。

 

なので「悟り」のみならず、スピ系、心理系、自己啓発など色々とやってみて

「その中に一貫して共通しているもの」を見るようにすると、理解が深まるかもしれません。

 

という事で、このブログに書いてる事は参考程度にして下さいねウインク

今日は「気づきを深める」実践的な事を書こうと思います。
興味があれば実際にやって体験してみて下さい。


 …夜寝る時、布団に横になって部屋を真っ暗にします。


 真っ暗にしたくない人は、掛布団を頭まで掛けるとか布団の中に潜るとか
 とにかく「目を開けた状態で、薄暗い」状態にして下さい。

 真っ暗な中で(または薄暗い中で)、目を閉じます。

 目を閉じると、その暗闇の中に色んな思考やイメージが浮かぶと思いますが
 その考えやイメージに没頭するのではなく、
 考えやイメージが、暗闇に「浮かんでいる」事に気づきます。
 その「気づいている」のは誰でしょうか?…勿論、自分ですね?

 その「気づいている」状態のまま、

 周囲の匂いを嗅いでみると、布団とか何かの匂いに気づきます。
 同様に、何かを聞こうとすると、周囲の音に気付きます。
 同様に、口の中に意識を向けると唾液の味というか、口の中の味に気づきます。
 同様に、身体全体に意識を向けると、パジャマの感覚、布団に触っている感覚、触れられている感覚に気づきます。呼吸に気づきます。心臓の心拍に気づきます。温かさや冷たさに気づきます。身体を動かすと、動く感覚に気づきます。

 その触感や、音や、匂いは、思考と同じように、「暗闇に浮かんでいます」よね?
 

「思考を含めた全てが暗闇に浮かんでいます」
 そして貴方はその「浮かんでいるもの」に気づいています。

 その「気づいている」感覚を保持したまま、目を開けます。
 貴方は暗闇、または薄暗い光景に気づきます。
 

「見ている」感じに気づきます。
 

 ここで思考を含めた五感全てに気づいている感じになると思います。
 思考も、布団の感覚も、身体を動かす感覚も、全てが暗闇に浮かんでいます。

 そしてその浮かんでいるものに気づいているのが自分だという感覚になると思います。

 この「気づきに留まる」事を毎日続けて慣れていくと
 明かりを点けていても、周囲の光景を見ている事に気づいている感覚になります。
 

「思考を含めた全ての感覚に気づいている」感じになります。
 

 更に、起きて行動している時も、上記の「全てに気づいている感覚」を思い出すようにすれば
 行動しながら「思考を含めた全ての感覚に気づいていられる」ようになります。


…私がいつからこれをやっていたのか分かりませんが、いつの頃からかやっていて、気づいたら気づきが深まっていました。
エックハルト・トールが言う「インナーボディを感じる」とはやり方が違いますが
原理は同じというか、基本的に同じ事です。
 

これを実践し続けると「全ては意識の上に浮かんでいる」という意味が本当に分かって来ます。
「見る者と見られるものは一つ」という言葉がありますが、つまり「気づく者と気づかれるものは一つ」って事も分かって来ます。だって全部が自分の中に浮かんでいるからです。


ただ、もしかしたら中には上記の方法をやっても「何にも気づけない」とか「気づいたけど、だから何なの?」とか思う方も居るかもしれません。

正直、「気づき」を深めても何かしら大きな変化がある訳ではないです。

変化は、むしろ「観念の変化」によって変わるので。

なぜなら世界に意味づけしている、その投影元は自分の観念だからです。

なので「観念」に対してのアプローチが必要になります。

究極的には全ての観念(思考)に対して「それは本当?」と疑いを掛けるという事です。

ただ人は莫大な観念を保持しているので、それは一生の仕事で

だからケイティは「ワーク」と名付けたらしいですが(笑)

 

 

「観念へのアプローチ」に関連して、最後に一つ。

例えば「梅干し」という言葉を聞くと「梅干し」のイメージと共に「酸っぱい」感覚が身体に起こりますよね。
身体は思考を反映します。つまり「過去の記憶・経験を」反映(再現)するんです。


…貴方が真っ暗な中で布団に横たわり、暗闇の中で全ての五感に気づいている時。
目を閉じていて、見ていないのに、貴方はこの五感によって「身体がある」と疑い無く信じています。
でも五感とは「過去の経験の再現」です。

 

そして自我は過去の経験の集合体です。


例え仮に、いまこの瞬間もう体が無いとしても、自我が自動的に五感のイメージを思い出す(保持している)ので貴方は「身体がある」と思うんです。
だから夢の中でも身体と五感がある訳ですし、臨死体験で「自分の肉体から離れても」身体があると感じる訳です。

 

自我が無いと過去の経験も出て来ないので、だから一瞥体験した人々が「あれっ、自分には身体があったんだ!」と驚いたりする訳です。

今日は、前回の記事で書いた

「人は自分では気づかず変わる」という事についての補足的な事です。


端的に言うと、人は…というか全てのものは常に変化してるんですが

人はそれに気づいていない、というだけの話なんですけども
なんでかと言うと (以前の記事で書いたような気もするけど)

自我は過去の記憶(観念・思考)の集合体だからです。

例えば貴方が朝、鏡を見て、それから3日間鏡を見ないとします。
次に鏡を見る時まで、貴方の自己イメージは「3日前に鏡を見た時の姿」です。
だから3日後に鏡を見て「あれ、白髪がある!」とかなったりする訳です(爆笑)

もしも貴方が1分毎に鏡を見ていたら、タイムラプスのように徐々に白髪が出来ていく変化を見られるので驚きはしません。

人が保持している「自己イメージ」は全て過去の記憶(思考)であり

それを「未来に」投影するので「自分はずっと変わらない」と思ったりする訳です。

変化に気づくには、例えば日記や写真を見て比較するとか、または周囲の人がいつもとは違う反応をするとか、何かしらの「過去と今の比較」でもって気づかされる訳ですが
 

ちなみに、例えば一瞥体験などで思考が完全に止まってしまうと「全てが新鮮に」なります。
なぜなら思考が無い=過去の記憶が出て来ないので完全に「今この瞬間」を新しく体験するからです。

過去の記憶という「参照するもの」が無いので、未来を予期する事(未来の予測)も起こりません。過去も未来も無い「時間が無い」状態=「瞬間瞬間のいま」だけになるんです。
何がどうなるか全くわからない完全なる「未知」の中にドボンです(笑)

とは言っても思考が完全に止まり続けるような体験は自分では起こせません。
これは生死と同様に本当に神の領域です。

 

でも神は優しいんですよ。

 

だって皆さん、必ず目覚める保証も無いのに毎晩スヤスヤと眠りに落ちるでしょう?

まぁ自我が「明日も目覚める」と未来を予期して信じて寝ている訳ですが。

しかし起こすのは自我では無く、「意識」という神ですよ。


…何はともあれ

自我とは過去の経験の集合体ですから「今の現実」とは合致しない事も出てきます。

すると「苦しみ」を感じる訳ですね。

「いまの現実」への抵抗が苦しみなので、過去を捨てて「いま」を受け入れたら幸せになる、という事ですが…、…自我とは過去の記憶の集合体な訳ですよ。

悟りで言う自我の死とはこういう事な訳です。

しかしそれを起こすのは、自我では無く、「意識」という神です。

だって自分で自分を…というのは、難易度高すぎるからです(汗)

今日はちょっと思い出話を書こうかなと思います。

 

さっきふと思ったんだけど
…思い返せば10年前の私は凄まじい恐怖の中に居たなぁと。
根深いトラウマによる身体症状と共に起きる恐怖なんですが

まぁ世の中には「感情は感じ切れば流れる」と仰る方も居ますけど
私の場合はもう否が応でも問答無用で感じさせられるので
…だって自分の意志とは無関係に四六時中起こる凄まじい恐怖ですよ。
立っていられないから横になって耐えるしかない。

いつ、どんな時に起こるか全く予想できないので
恐怖が無い時も「いつあの恐怖が来るか」と不安で
つまり365日24時間、恐怖と不安と共に居たので
どんだけ「あるがまま」感じても、軽減される事はありませんでした。
とにかく収まるまで耐えるしかないっていう。

それが何回も、何年も、繰り返された訳です。

その経験から、感情解放だけではトラウマは癒されず

その感情を起こす原因、根っこを何とかする必要があると私は思う訳です。

でないと何度でも生えて来ますんで


ちなみに私が最初にこのトラウマ恐怖の症状を発症したのは…
おっと年齢がバレてしまうので伏せとこ(笑)

…ぶっちゃけ私は30年以上、色んなカウンセリングやらセラピーやら何やらかんやらやってきて、2017年にやっと、とあるカウンセリングに出会い、継続して治療を受ける内に徐々に恐怖が無くなって行った訳ですが(すぐに良くなった訳ではなく1歩進んで2歩下がるような地道な歩みでした)、今でも若干残っているので、そのカウンセリングは受けています。受ける頻度は減りましたけど。


そう言えば昔、「悟ったらこのトラウマの恐怖も無くなるのに」と思って「悟りたい」と切望してた時期があったな…。

世の中にはアニータ・ムアジャーニさんのように臨死体験で病が完治するような人も居ますし、バイロン・ケイティみたいに突然目覚めて幸せになる人も居て、つまり「根深い観念が根こそぎ無くなった、または変えられた」という事ですが

んでもそんなの「自力」で起こす事は出来ないし、もしも「自力で成し遂げたと信じている」なら「私が達成したんだ!」という観念物語にハマっているという事になってしまう(爆笑)

まぁ「自力」では到底無理な訳です。 

私がこの長年に渡るトラウマの恐怖から学ばされたのは
「自力ではどうにもならない」って事です。

もう流れに任せる以外に無い、と諦めさせられる事が多々多々ありました。

その時はガックリしたりしたんですけど、その苦しみのお陰で「悟りの理解」が深まり

平安というか「幸せ」に感じる事が増えてきました。

ちなみに人は、「自分では全く気付かず」変わります。

その変化が分かるのは、同じものを見て違った感想を持った時などです。
例えば同じエックハルトの本や文章でも、以前とは全く違った理解が起こったり
昔は分からなかった事がハッキリ理解出来たり

…自分の作品もそうなんです。
「紺碧の採掘師」っていう自分の作品、数年経って読むと全く違った感じになってて
「自分は何が表現したかったの?」って分からなくなったり(汗)

それでリニューアルする訳ですけど(爆笑)

このブログもね…理解が深まる程に書く事も深くなっていくという。

何でこのブログを書いてるのか全く分かりませんが、

「書きたいな」という思いが浮かぶ限りは書くんだと思います。

正直、私も何を書くのか書くまでは全くワカランという(爆笑)

だから「未知」はエキサイティングなんですよウインク

 

以上、思い出話でした。