原初の星の物語

原初の星の物語

オリジナル作品「紺碧の採掘師」のブログ。更新情報など。

今から10年以上前、私は自分の作品を考える時に、キャラに対して「他人事」で

「凄い、このキャラこんな事を言ってるよー」とか

「このキャラ、物凄いネガだな」とか思ってて

んでチョビッとスピをかじっていたので

「このアイディアはガイドの声だ」とか

「ガイドがこういってるんだなー」とか「他人事的に」思ってたんですが

 

しかしある時、とある自己啓発系のセラピストが私に

「それは全て貴方自身ですよ」と言ってくれたんですね。

それは当時の私にとっては大ショックでありました。

つまりそれほど「自分が他人事」になってたんです。

自分から乖離していたとも言えますけど。自己否定、自己逃避というか。

 

 

私が「思考は現実化する」的な自己啓発セミナーに大金はたいて行った話は

かなり前のブログで書いた事あるけども

そこに行った唯一の成果は「全てを自分事にする」を叩き込まれた事だと思う。

 

だって「思考は現実化する」っていうメソッドは

その理論に忠実になるならば「全ての思考は現実化している」でなければならず、

そうでないと

「この思考は現実化しているが、他の思考は現実化していない」という事になる

ここが、様々な「思考現実化」の教えで色々異なるとこで

「叶わないのはこういう理由だ」と理屈をこじつける訳ですが

大体は「無意識下の思考だから」ってとこで

「自分の無意識を知ろう」となる訳ですけども

 

何はともあれ仕組み的に「全ての思考を自分のものとする」が前提です。

なぜならガイドの思考だとか、「何か別の存在の」思考だとしてしまえば

それは自分の制御下には無いという事になり「自分の望む思考現実化は無理」となるからです。

 

 

とにかく私はその「思考現実化」に行った事で

どんな思考も、どんな感情も、降って来たアイデアも降って来た何かも

全部、全て、例外なく、自分のものだ、となった訳です。

 

しかしそれは

「心理」においても「悟りの道」においても重要すぎるほど重要な事なんです。

 

なぜならば人は、苦しみとかネガな面から「逃避」するので

 

だからこそ、苦しいんですよ。

 

本当に「幸せ」になりたいならば

自分のネガティブな面を受け入れる事なんです。

 

だって「全てが自分」だからです。

 

 

「思考は現実化する」とか「自己啓発」とかは「成功」を「幸せ」とし

現実が思い通りになったら幸せだ=ネガな事は起こらないみたいな感じで

「スピ系」は大体「光」とか「愛」とかを重視しますが

 

それって実は「闇」とか「ネガ」の否定ですんで

 

「光」とか「成功」の裏には

抑圧された「闇」と「失敗」が絶対にあります。

 

片方だけ見ようとするから、苦しいんです。

光だけ見ようとして闇を否定するから苦しいんです。

「いつ闇が来るんだろう」と恐れるようになるからです。

 

「悟り」とは「全」として生きる事でして

「光も闇も全て受け入れる」から安心して生きられる訳ですが

 

とはいえ自分の「闇」を見るのは相当な勇気が要ったりするんで

そういう意味では「真我」とか「空」とか「源への信頼」が要ります。

 

私の場合、それは奇しくも「臨死体験談」を見る事で培われました。

 

このブログの過去記事みると分かりますけど

私は「悟り」に進む以前は海外の臨死体験動画を散々見てました。

過去記事に残ってるんで興味ある方は見てみて下さい。

あれが、「死」と「源」に対する信頼を培ったんです。

 

私のように幼少期にトラウマ受けて基本的信頼感が少ない人は

なかなか「源にゆだねる」が難しいと

真っ当な心理屋とか悟りの人は言ってますが

 

海外の真っ当な臨死体験はその「基本的信頼」を培うのに役立ちます。

実際、私がそうなんです。臨死体験談を見る事で「源への信頼」が出来て

そこから私は「悟り」へ進んでいきました…って私が選んだ訳では無く

なんかそういう事になったんですよ、勝手に進まされました。

それはこのブログの過去記事を見れば明白です。その軌跡が残ってます。

 

だから人生は完璧で無駄な事は一つも無いと断言できます。

 

 

 

私は若い頃、一番好きだった映画が

深作欣二監督の「バトル・ロワイアル」なんですが

あれは物凄い衝撃的で、当時は何回も映画館行ったしDVDも買いました。

あとプレステの「バイオハザード」とか「ダークメサイア」とか大好きで

 

ああいうのを見る事で自分の中の何かを感じ取りたいというか

…だって当時の自分は、カウンセラーに

「怒りを感じ切れ」と言われて感じようとしたら

全身筋肉痛になって数日苦しんだという

それほどの怒りを持っていたにも関わらず

「イイコでいなければ」ってやってた訳ですんで

 

 

世の中には「幸せになろう」系統の色んなメソッドがあって

大体は「ポジでいよう」とか「愛と光と感謝で」とかですが

 

実は自分の闇とか怒りとかを自覚した方がスッキリして楽になったりしますんで

むしろゲームでバンバン敵をブッ倒すとかの方が良いような気はします。

 

ただし、そのネガティブ感情に「溺れる」のは本末転倒で

例えば「可哀想な主人公になって被害者になり切る」とかいうのはダメですが。

 

「自分の中にどういう感情があるのか」

「自分は本当はどう感じたいのか」

 

自分の本当の感情を感じる為に、やったらいいと思います。

 

 

…何回も書きますが、外側に見えるものに「幸せ」があるんではなく

「全ては自分自身の中にある」んですウインク

人と言うのは自分の持つ観念でもって物事を判断するもんですが

ウチのブログのアイコンはこんなで↓こんなイラストとか描いてるから
 
ブログ記事を書いてる人は「若い人」なのかと思うかもしれませんが
私は若くはありません!爆  笑それなりの歳の人ですウインク

ところで以前の記事で、

夢の中で「夢だ」と気づかないと夢だとワカランという事を書きましたが
「悟り」も全く同じ事です。

中野さんの本でこういう文章がありますが

目覚めた人と目覚めていない人がいるわけではなく、目覚めたと思っている人と目覚めていないと思っている人がいるだけなのです。

中野真作.癒しと目覚め Q&A. shibabukkusu. Kindle 版. 


夢の中で「夢だ」と気づいている人と気づいていない人が居るというのと全く同様で
その思考が来なければ「悟った」とは思わないんですよ。

夢の中で「夢だ」という思考(直感的理解)が来れば、
「夢だ」と気づきますけども、もしその思考が去ったなら(忘れてしまったなら)
「夢」に巻き込まれていく訳ですから。
以前の記事で書いた通りです。

私は「夢だ」の思考が無くなった途端に再び夢に巻き込まれていきました。

で、その「夢だ」という直感的理解は

自分で自己意志で(考えたりして)起こした訳では無く

「勝手に来た」訳です。
 

同様に「悟りだ」というのも同じ事です。

例えば、かなり前の過去記事で書いた事あるけど

殆どの臨死体験者は自分が「臨死体験した」なんて思ってないんですよ。
臨死する以前に何かの本で読んだり、人から聞いた話で
「こういうものが臨死体験と言われる体験だ」という知識・観念があったならば、
その体験をしたときに「臨死体験した」となりますが
そうではない、スピとか全く興味が無かった人々は「不思議な経験をした」になるんです。

ちなみに中野さんは一瞥体験をする以前に何かの本で読んだらしく?

「これが悟りの一瞥か」とかいう知識があったんで
自分が実際その経験をした時に「これがそうか」と思ったそうです。

しかしエックハルト・トールの場合はそんな知識とか無かったから

「自分の、この感覚は一体何なんだ?」となりました。

(そこから色々調べたり理解したりして行った訳です)

つまり「悟った」とかいうのは、自分の経験や理解を「これが悟りだ」と
合致させたというか定義しただけ、という事になるんです。


「悟った」「悟り」という事すら「観念物語である」という事なんですよ。

で、中野さんの本にあるこの文章ですが

(って勝手に中野さん応援フェア絶賛継続中だな)

 

 悟りや非二元に興味を持っている方に注意してほしいのは「あの人は悟っている人だ」という投影です。
 「悟っている」も「悟っていない」も思考が作り出した分離(ストーリー)にしかすぎません。悟りというのはすべての人の本性そのものです。

中野真作. 「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ~非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー~ . aoyamaraifushuppansibabukkusu. Kindle 版. 

 

『あの人は悟っている人だという投影』
…上記に書いたように、自分の中にそれが無ければ投影は起こらないんです。

貴方の中に「こういうものが悟りだ」とか「この理解が、悟ったという事だ」とか
何らかの「悟りへの理解」がある、「悟りを知っている部分がある」から
外にそれを見た時に「あの人は悟っている」という判断が起こるんです。
自分の中のものを相手に合致させたというか。

だけどそれが自分の中にあるとは気づいていないから、他人が持ってるように見える。

なぜかと言うと自分の事は自分では分からないからです。
自分の顔は、鏡を見ないと見れませんよね?

例えば酔っぱらってる人って自分が酔ってるとは思わないですよね!
私は酒を飲まんので、飲んで酔った人から「アンタ酔ってるねー」と言われて
「いや私、シラフなんですけど」って言っても「いやアンタ酔ってるよ!」
…いやいやそう言ってるアンタが泥酔してんですけど!っていう爆  笑

んで酔いが醒めると「自分、酔っぱらってたかな」とか言い出す!

つまり「離れて(対象化して)初めて気づく」んです。

だから、自分の中にあるものに気づかず他者に見て、対象化して気づくんだけども
自分の中にあると思っていないから、他者が持ってて自分には無いと思ってしまう。

(これは実は「空」と「現象」と「気づきの仕組み」そのものだったりもします。)


中野さんは悟りの知識があったんで、一瞥体験した時に「これがそうか」と思った。
しかしエックハルトは無かったから「ナンダコレ」になった。

貴方の中に「悟り」を知っている部分があるから、ウチのブログ見たりするんですよ。
そうでなかったら「なにこの怪しげな謎ブログ、おかしいんじゃない?」とかなります。

ウチのブログは単なる「鏡」です。

貴方の中に「知っている部分」があるなら「なるほど!」とかなるでしょう。

ただそれも「起こるがまま」で、

夢の中で「夢だ」という直感的理解が来ても来なくても「夢の中に居る事」は変わらないように、「悟った」と思っている人と、思ってない人がいるというだけの事なんです。ウインク
 

昨日の続きです。
昨日は「自我はネガティブだ」と書きました。
しかしそれは自我が最も認めたくないものだったりもします。
なぜならそれを感じるのは「苦しい」からです。

誰だって自分はイイヒトだと思いたい、
自分は正しいとか優しいとかポジだとか自信があるとか思いたい。

なぜなら「ネガな部分に気づく」のは苦しい(と信じている)から。
だからそこを見ないように必死に「偽っている」

逆に言うとそうやって「個であろう」とする。

しかし「本当の貴方」は「全」なんです。
昨日も書いたけど「個である」という事そのものが「全である」という厳然たる証拠なので。

「全」とは「受容」であり、それが本質的な「愛」です。

ニサルガダッタ・マハラジという人の本にこういう言葉があります。

 そこに苦しみがあり、世界は苦しんでいるということを知るだけで充分だ。快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。ただ理解だけがそれをもたらすのだ。ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。至福を通してだけでは、あなた自身を知ることはできない。あなたの本性そのものが至福だからだ。悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向きあわなければならないのだ。

 

スダカール・S・ディクシット; 福間巌; モーリス・フリードマン. アイ・アム・ザット 私は在る (pp.484-485). 株式会社ナチュラルスピリット. Kindle 版. 

 


『貴方の本性そのものが至福だからだ』

例えば暑い夏にキンキンに冷えたジュースを飲むと、冷たーい!ってなりますよね。
暑い夏に生ぬるいジュースを飲んでも「そんなに」って感じです。

つまり対極の両極端であればあるほどそれは際立ちます。

至福でいる時に至福はそれほど感じないんです。
至福から離れた時に、更には「苦」を感じている時にこそ、至福は感じやすいんです。

 

 衝撃を受けるような大きな一瞥体験が起こるのは、それまであまりにも強く自分自身を抑圧し、生きるエネルギーにふたをしていたからです。そのエネルギーが急に流れ出したときに、その反動で一瞥体験と言われるような体験が起こるだけなのです。

中野真作. 癒しと目覚め Q&A . shibabukkusu. Kindle 版. 

 

 

夢の中で夢だと気づいた瞬間に、夢から離れ夢と距離が出来た状態になるのと同様

自分が至福だと気づくには至福から離れなければならないという事なんです。

至福を「感じている」という事は、対象化した=離れた、という事なので。
それそのものになっている時には至福は感じません。

と同様に、実は「苦」そのものに同一化している時には「苦」は感じないんです。
 

だからある日突然、鬱になるとか、ある日突然、身体症状が出るとかになる訳で。

「自分は何も問題が無いよ」と思っているよりは
「自分には問題がある」と思っていた方がまだ気づいているだけマシという。

「自分はイイヒトだ」とか「自分は絶対悪くない」とか思っているよりは
「自分のネガティブさ」を直視して気づいていた方が悟りに近いという事になります。

とはいえ「人生は問答無用」ですので、世の中は色々な「ネガティブな」事象を起こして「ネガティブさ」に気づかせよう認識させようとします。

昨日書いたように、自分の「全て」を受容する=癒す事が「悟りへの道」だからです。
 

「名前の無いもの」は自ら目覚めよう、悟ろうとして、ネガティブな事を起こして貴方の闇に気づかせようとします。
例えばSNSとかで他者のネガティブ性=自分のネガティブ性を見せられたりする訳です。
他者の嫌なコメント見てムカッとしたり、インスタ見て嫉妬したりしますわな?

「困った人」の言動を見て怒りを感じたりしますわな?

でも、それはこういう事なんです↓

 しかし理解が深まってくると人間関係の見え方が変わってきます。実はすべての人が目覚めようとしてもがいているだけなのだ、ということが見えてきます。私たちが生きているのはお互いを目覚めさせるため、お互いに互いの目覚めていない部分を相手に見せるために生きているのだということがわかってきます。  私たちは目覚めるために生きているのです。すると、どんなことが起こってもそれは目覚めるきっかけなのだということがわかり、生きることが随分楽になってきます。

中野真作. 癒しと目覚め Q&A . shibabukkusu. Kindle 版. 

 

エックハルト先生が動画でチョロッと言ってましたけど

ネットの発展した時代になって「世界」が繋がるようになりSNSとかで「人々」の色んな面が見えるようになってきた、と言う事は全体の「ネガな面」も表出するようになってきた。

そのバランスを取る為に、「目覚める人も増える」

(逆に言うと目覚める為に、色々な事が起こる)

つまり宇宙が目覚めようとしているからなんです。自然現象なんです。ニコニコ

世の中見ると色んな出来事がありますよね。
そんな世の中を見ると「全てはありのまま」「起こるがまま」ってマジなの?と疑問に思うかもしれません。

前回書いた「真我」とか「空」とか「本当の自分」とか言われる「神のように凄い存在」が、何でそんな事を起こすのかと。
「真我」とか「空」とかは「愛」だというなら「愛と平和」みたいなポジな事ばかり起こす筈じゃないの?とか。

実は「ポジだけ」の世界は存在しません。

以前の記事に書きましたが長いんで端折って言うと

「色即是空 空即是色」というように「空」と「現象」はセットであり

「ワンネス」があるなら「二元性」も存在する事に必ずなる

「全(全て・全体)」があるから「個」がある。

「全」=「個」

という事はつまり、

「個人としての貴方」が存在する事そのものが「全である」という確実な証明なのです。

全ては対極で存在します。

だから「ポジ」と思われるものが存在するには「ネガ」が必然的に必要で
これは「ヒーロー」は「悪」が居ないと存在できないというのと全く同じです。

「全」=「個」で、人は通常「個」に同一化してますが、
「全」を知り「全と個を同時に生きる」のが「悟り」です。
「全」には「全て」が含まれます。

だから「全と個を同時に生きる」には
「ポジもネガも光も闇も全てを認識し受容する」事が必須となる訳です。
 

なので「癒しが必要だ」と言う事になります。

 

なぜなら「癒し」とは突き詰めると「受容」だからです。

とある感情や痛みを「受容された」から「解放される」ので。

貴方が自分のトラウマやネガ感情を認識し癒した(受容した)時、

それは「全体の一部」を癒した事になります。

しかしその前提として「ネガな事」が起こらなければ、認識されない(ネガな事が存在する、と気づかれない)ので「ネガな事」が起こる訳です。

全てはバランスであり、心理をかじった方ならよくご存知だと思うけど
100人の中で誰かが賛成すると必ず反対者が出る、絶対に100人全員賛成は無いというやつ。
全ては対極で存在し「光」によって「闇」が認識されるからです。
だから99人が賛成しても必ず1人は反対します。
それで「闇」が認識されます。

この世に「光」だけの人間(自我)なんて絶対にいません。
なぜなら「全」を否定しなければ「個」になれないからです。

「自分は他者とは違うんだ」…これが無いと「全」になってしまいます!

つまり「他者を否定する」が「個」には絶対必要なんですね。

と言う事は、どんな自我でも必ずネガな面があるという事なんです。


他者と比較して「どうせ自分なんかダメだ」と思ってみたり
「ネガティブ」になる事で「自分は他者とは違う」となるんですが
そうやって「個」を維持します。

これが「悟り」に近付くとどうなるかというと

上記の理解(ネガティブ性は「個」である為に必須だ)が生まれるので
その「個」のネガティブさそのものすら

「個人のものではなく、自然に生まれたものだ」という理解になるので

そのネガティブ性を受容するから「全」に近付く訳です


つまり「ネガティブ性を否定したり無くそうとする」のではなく
「光も闇も全てを受容する」になるので「愛しかない」という事なんです。
 

「全」は「受容」=「愛」なので。

それは別に「怒らない人になる」とかではなく
「あるがまま受容する」という事なんです。

仮に激怒したとしても「自分が怒っている」とかいう感覚が無くなって行き
「全てはただ起こっている」となって行くんです、が、ただし
これを自我が意志でやろうとすると

「激怒するけど気にしない」とか抑圧になる場合があるので
怒りが収まらんとかいう場合にはカウンセリングとか「癒し」をしよう!ウインク
 

 

余談ですが「紺碧の採掘師リニューアル版」の掲載が遅れまくっていますが

なんか色々と手直ししたくなって直してるんで止まっております。

まぁ時機が来たら掲載再開されるはず(笑)!ニコニコ

…最近なんか色々見てて思ったんだけど

「悟り」って、実はシンプルそのものなんだけども

シンプルがゆえに、難解になってしまうという部分もあり

なぜなら「それ」に名前が無いからなんだな。

 

「真我」とか「無意識」とか「潜在意識」とか「存在」とか「プレゼンス」とか「空」とか「大いなるもの」とか「スピリット」とか「生命」とか「宇宙」とか「本当の自分」とか個々人により、場合により、色んな表現しますんで。

だって「名前が無い」から!

 

しかし「悟り」というのは実にシンプルです。

前からずっと書いてるけど単純に言えば「全てを完全受容する」です。

 

だから「凄い自分になる」とか「成功する」とか全く関係ないです。

「努力して悟った凄い自分になろう」とか

「何事にも動じない人になろう」とか

「どんなことがあってもニコニコしてる人に」とか

「愛と感謝の人に」とか全く全然関係無いです。

「トラウマの無い人に」とか「苦しみの無い幸せだけの人に」とか関係無いです。

 

その真逆で

 

「いま現在の自分を受け入れよう」ってのが「悟り」です。

 

だからどんなに貴方が悩んでいても苦しんでいても

「こんな自分ダメだ」と思っても、そのあるがままでOKだというのが悟りです。

中野さんの本にも書いてたと思うけど

「悟ってないのに悟ったふりをするのではなく

悟ってないなら悟っていないと認めるのがあるがままで、悟っている」

 

(なんか最近ブログで中野さんばっか出してるが当面このまま中野さん勝手に応援フェアを続けます)

 

つまり悟っている自分に「なる」のではなく

今、悟って無いし一瞥体験も無いし悟りとか理解できんしという

あるがままそのままを認めているのが実は悟っているという事で

それが「自己受容」=「自己愛」です。

 

……しかしですよ。

 

前の明晰夢の記事で

「これは夢だ」と気づかないと、夢だとは気づかないが

「これは夢だ」という 思考が来なければ 夢だとは気づかない と書きました。

 

思考というかまぁ「直感的理解」というか何というかですけども

それが 来ないと 夢だとは気づけない

 

逆に言うと それが来たから夢だと気づく訳ですよ。

 

 

 

……貴方は何でこんな謎ブログを見ているんでしょうね?

どうやってここに辿り着きましたか?

なぜ、ここまで読んでるんでしょうか。

 

……そういう思考が起こったから、そうなってる訳ですよね?

 

真実を言えば、「貴方」をこのブログに誘導したのも

このブログを読ませているのも上記に書いた「名前の無いもの」です。

 

「真我」とか「無意識」とか「潜在意識」とか「存在」とか「プレゼンス」とか「空」とか「大いなるもの」とか「スピリット」とか「生命」とか「宇宙」とか「本当の自分」とか言われる「名前の無いもの」が、貴方をここまで導きました。

 

それと同様に「エゴ」を作っているのも「名前の無いもの」ですんで

「努力して悟った凄い自分になろう」とか

「何事にも動じない人になろう」とか

「どんなことがあってもニコニコしてる人に」とか

「愛と感謝の人に」とか

「トラウマの無い人に」とか「苦しみの無い幸せだけの人に」とかも

 

全部、「名前の無いもの」がそうさせています。

 

「悟ろう」としているのは「名前の無いもの」そのものなんです。

エックハルトとかが「宇宙が目覚めようとしている」と言うのはそういう事です。

 

だからドンブラコと流れましょうという事なんですが、実は「流れしかない」ので

誰もが問答無用でドンブラコと流れているっていう!ウインク