原初の星の物語

原初の星の物語

書こうと思った事を書いてます。

最近つくづく思うんですけど
「悟り」と言われるものは実際には非常にシンプルで、

思考の幻想性を完全に見抜けば、それがもう「悟り」と言われる状態で、人生は楽しくなります。

ケイティは「好奇心」という事を多々言うんですが、

ちょっと前に見たケイティの動画の話で、なんかケイティご自身が

生きるか死ぬかの重篤な状態になり、病院に担ぎ込まれたと。

そこで「これからどうなるんだろう!」とワクワクしてたまらなかったと。


もはや「死」の観念が無い、そもそも「私」という観念が無い、

全ての思考(観念)の幻想性を見抜いている。

全てはただ起こっていて、そこに神のシナリオ(思考・考え)が与えられている(ただし信じる訳では無い)、なんてありがたいのか。
全ては未知で、一瞬、一瞬、何が起こるか分からないからワクワクしている、好奇心。
散歩に行こうと右足を出したら、次に左足がどこに出るのか分からない。
本当に散歩に行くのだろうか? それは散歩に行った時に分かる。
「好奇心、好奇心、好奇心だけです」

…という事を現在もう80を過ぎたケイティが動画で力強く言ってました(爆笑)

「人生は贈り物です」


でも大半の人は、そう簡単に夢から醒められないのも事実ですが、それも含めて神のシナリオ。

ケイティは「ここは地球学校」と言うんですが、

人生が素晴らしい贈り物だと分かるまで、我々は色々学ばされると爆  笑


悟りの道は色々です。

エックハルト・トールの動画で、重いトラウマを持った人の「私は悟れますか」という質問に、エックハルトは「カウンセリングや心理療法を受けなさい」とアドバイスしてました。

ケイティの動画を見てても、なかなかワークに納得できない人も居ます。
「上司が俺の事を馬鹿にしたんです!」という人に対してケイティがワークしましたが、
その方は、どうやっても、「でも馬鹿にしてたんです!」から離れられませんでした。
しかしケイティは別に怒ったりせず、ただ静かに様々な見方(視点)を提示して
「上司は馬鹿にした、それは本当?」と問い掛けるんですが、

本人も、自分がその考えを信じているだけだと頭では分かっているんですけど、
(だって動画に撮られる事を了解の上で自らケイティのワークを受けている位なので)
感情が付いて行かず、納得できず、「でも!」と反論してしまう。


悟りには「沈黙を意識する」というのがありますが

観念(考え)の幻想性を見抜くとその観念が無くなるので自然と思考が減り、沈黙に在れるようになります。

逆に、自分の考えを信じ込んでいると、上記の「上司が!」という方のように
沈黙に在りましょう、ただその思考を見守りましょう、言わば「考えるな」と言っても
なかなか難しいです。なぜなら感情がバンバン沸くからです。

であれば、むしろ思考や感情に突っ込んで行けというのが「ワーク」です。
「ワーク」で最も重要なのは、「その場面を想像し、感情を感じつつワークする」事で
つまり上記のように「上司が!」と、その場面を思い出し、その時の感情を感じた状態で
「それは本当か?」と問うんですね。

そして「その考えを信じた時にどうなりますか」を問い、その後に
「その考えが、もしも無かったとしたら、どうなりますか」と問う訳です。

「ワーク」にはやり方、手順があります。再び思考の幻想ストーリーに戻らない為です。
「でも」という反論が、また思考ストーリーに戻って自己防御しようとする自我の抵抗で、
それを防ぐ為に「決められた質問」と「質問の順番」があるんです。

「ワーク」はなかなか勇気が要ります。例えば、誰かに酷い事をされ、それに対してワークするなら、その時の事を思い出さねばなりません。
その苦しみを感じている状態で「それは本当?」と問うんですから相当勇気が要るんです。

しかし、実はこの「その時の事を思い出し、本当か?と問い掛ける」というのは
悟りで言う「観照」と全く同じ事なんです。

「観照」とは、静寂に在る、

=意識の気づきとして思考をただ見ている、感情をただ感じている状態ですが

ワークの原則は「テーマとなる観念」を紙やPC等に書く事で、つまり「文字として物理的に固める」のが原則です。頭で考えているだけでは、逃避してしまう可能性があるからです。

この、「思考を書き留め、それをじっと見つめる」事そのものが「思考をただ見る」と同じ事です。

通常の状態では、その思考や感情を完全に信じて同一化し、それそのものになっているのを、

紙(PCやスマホ画面)の上に出して、じっと見つめるだけでもう客観視であり、同一化から少し離れます。

そしてその時の状況を思い出し、感情を感じながら「それは本当か」と疑いを掛けるのだから

「思考や感情を信じない」=客観的になり、「ただ見る、ただ感じる」事になります。


例えば上記の「上司は自分を馬鹿にした」というテーマなら、
それを書き留め、それを見ながら怒りを思い出し「本当か」と問う事そのものが、
その思考・観念に対しての強力な観照行為なんです。

上記のように、その時は納得できず怒りバンバンになったとしても、

紙やPCに書いた事は、捨てない限りは残ってますから、再びそれを見てワークし続ける、

つまり「疑いを掛け続ける」なら、いつかは解放出来る時が来ます。

そのテーマの軸から絶対にブレずに、その観念と向き合うからこそ、幻想性を見抜いて解放できるんですね。

とは言っても感情的になっている時や緊急事態にワークするのは難しいので
(慣れると一瞬で無意識にワークが展開するらしいですが汗)
なので日頃から「沈黙を意識する」とか「思考をただ見る」を日常的にやっていると
ワークもやりやすくなります。

なぜなら「思考をただ見る」という時点でもう思考を信じていない=「それは本当か」と問うているのと同じ事だからです。
きちんとワークしなくても、「それは本当?」と思うだけでも思考との同一化から少し離れます。
そもそもカウンセリングとか心理療法は、基本的には「信念・観念に問い掛ける」ものですので心理カウンセリングも悟りの一端なんですね。

何はともあれ、「ここは地球学校」、全ての道は悟りに向かってるんですよニコニコ

数年前の過去記事で書いた事ありますが

昔、私はとある自己啓発に傾倒してた事がありまして、
そこでは「思考は現実化する」を教えていて

つまり自分に起こる様々な事は全て自分の思考が起こしているから
思考を修正すれば望み通りの現実が起こせると。

という事は自分の思考が現実を起こしているのだから
全ての思考に気を付けなければならなくなります。
自分にとってネガティブな事が起これば

自分の思考がネガという事なので思考の修正をしたり。
常にポジティブ思考をしなければならない、何が起こっても自分の責任。


…あれは物凄く辛かったです(爆笑)

それで精神的にやられてトラウマ症状を酷くしたお陰で
私は「思考は現実化する」から離れて、心の治療をする為に
臨床心理のカウンセリングの方へ行ったんですが

そこで知ったのが大嶋信頼先生の「無意識さん」とか「ナラティブ」の手法です。

つまり「思考・考え」に対して「それは本当か」とダウトを掛ける(疑いをかける)
そして指を振ったり、身体の感覚でもって「無意識の本心」を信じてみる。
または「ナラティブ」によって

自分が信じている信念(思考)をリフレーミングする(変える)。

何にせよその根底にあるのは「思考(頭の考え)を妄信しない」なんです。
なぜなら思い込みの力によって、狭まった視点しか見えなくなるから。


で、私がその次に出会ったのがバイロン・ケイティの「ワーク」なんですけど
当初はそれが「悟り」だとは全く思っていませんでした。
そもそもケイティの「ワーク」は心理や自己啓発のジャンルになっていて

「ワーク」を教えるワークショップとかでも「悟り」的な事は殆ど言わないと思います。


だから私も最初「これは心理手法だ」と思っていたんです。

ところが私自身が悟りに向かい、悟りを理解し始めたら
ケイティが言ってるのは悟りそのものだと分かってきたんです。
そしてケイティの動画でケイティが言う事の深さに驚き
そこから「ワーク」がどのようなものかを理解し始めて、やっと、

「ワーク」は「リフレーミング」のような心理手法ではなく「悟りだ」と分かりました。

まぁそれが心理だろうが悟りだろうが、それは単なる意味づけであって、実際に「ワーク」をやって幸せになればそれでOKな訳ですが(笑)

…とまぁ、こういう流れがあるので、

このブログそのものが上記の流れの軌跡だったりします。
その時々で経験したり理解してきた事をブログに書いてる訳ですから。


ちなみに「思考は現実化する」ですけども

『自分に起こる様々な事は全て自分の思考が起こしているから
思考を修正すれば望み通りの現実が起こせる』…これは「自我主体の」考え方です。

それを以下のように変えると「心理」になり、「悟り」に近付きます。
『自分に起こる様々な事は全て自分の思考が解釈しているから
解釈を変えれば望み通りの現実となる』=現実を受け入れられる。

そもそも「思考現実化」と言いますが

「現実」に対して解釈(意味付け)しているのが、思考なんです。

現実が絶対的に先であり、思考が先ではありません。思考は後です。

例えば「雨が降っている」のは、雨が降って来て初めて「雨降った」となりますよね?
どんなに雨降れ雨降れと雨乞いしても降るかどうかは自然という神の意志です。

仮にそこで雨が降ってきたとします。
「思考が現実化した!」という解釈(思考)が、起こりました。

逆に雨が降らなかった場合にも、色んな解釈(思考)が起こります。
例えば「思考が足りないから雨が降らないんだ」とか
「ハイヤーセルフとか本当の自分が望んでいないから雨が降らないんだ」とか

とりあえず思考というのは「辻褄合わせ」をする天才なので

何かしら「自分が納得する解釈」を出してきます。

なぜかというと、そうでないと納得できずに苦しいからです

何にせよ「現実」に意味づけ、解釈しているのが思考であって
思考が全く無いならば意味付けも消え、単に「現象・現実」だけがあります。
「雨」という単語も無く「水」という単語も無く「降る」という単語も無く

単に「・・・・・・・・・」だけです。(その光景があるだけ)

 


「自分が現実を創っている」と信じるなら自分が全ての事象において責任を負うべきです。
「自分が現実を創っていない」ならそんな責任は無くなります、が、

「自分の思考が現実に意味づけ(解釈)していて、それによって自分が苦しむ」ならば
その自分の思考を 信じるか 信じないか という選択と責任が自分にあります。
 

つまり「苦しむか・苦しまないか」という選択です。

苦しんでいるのは自分な訳ですから、自分がどうしたいかだけで他人や世界は関係無いです。
「貴方の世界には貴方しかいない」


ただ、それが例えば「雨降るのは嫌だ」とかいう簡単な事ならいいですが
酷いトラウマや心の深い傷などは、なかなか難しい。

 

ここに「心理」の出番があります。

トラウマや心の傷とは、「心の奥底まで深く信じ込んだ根深い信念」なので

それを手放すのは容易な事ではありません。
その信念が引き起こす感情には絶大な威力があり、身体症状を起こします。

同様に「死」の観念もそうです。
自我にとって「死」についての観念は相当根深く、簡単には変えたり手放せないのと同様に
トラウマや心の傷も、その「死」の観念と絡むので非常に難しい。

ただ、本人が決意し、ケイティのような、ある意味では「プロ」と一緒に「ワーク」をすれば、

それは解放され、もしかしたら一気に深い悟りまで到達する事もあるかもしれません。

実際それで悟った人も居るらしいです。

が、あくまで私の場合で言えば、

私は心理療法で地道に地道に信念を解放し、それから地道にワークに入って行ったので、
そういうパターンもあります。劇的な変化ではなく何年も掛かる地道な地道な道ですが、

どっちみち、行き着く所は「悟り」です。


という訳で今日は、今まで私が「思考」とどのように関わってきたかという経緯を書いてみました。
何はどうあれ、どんな道であれ、行き着く所は「悟り」=「幸せ」なんですねニコニコ

「自他の境界」とは、自分が心理的自立する為に必要な、

自分と他人は違う、自分は自分、他人は他人という事で
これは「二元性」の世界です。

赤ん坊の時にはまだ「私」が無く自他同一視している、

つまりそれが「一つ」=「非二元」であり
赤ん坊が成長して「私」という自我を持った時に自他分離し、

さらに成長して自他の境界が出来て「二元」となります。

で、バイロン・ケイティは、「現実には『三つの領域』がある」と言っていて
それは「私の領域」「他人の領域」そして「神の領域」です。

これを私は、以前は、「自他の境界」と同じ事を言ってるんだろうと解釈していて
ブログの過去記事でもそういう事を書いたんですが
何かの動画を見た時に、ケイティが「境界ではない」と言ったので驚き、

そこから色々考察したり実践したりしてやっと分かった事を今日は書こうと思います。

ちなみにこの「三つの領域」は「ワーク」をする上で知っておくべき基本事項で、
ワークを続けると非二元に至る、とケイティは言う訳ですが

確かにケイティが言う事をよくよく理解すると、
この「三つの領域」を遵守していくと「非二元」に近付いて行くんです。

どういう事かと言うと


まず「自他の境界」とは上記に書いた心理理論の「自分と他人」の区別で二元性ですね。
ケイティの言う「三つの領域」とは「私の領域」、「他人の領域」、「神の領域」ですが
この「神の領域」とは自然現象や生死など、人の意志とは無関係に起こっている「現実」の事です。

例えで説明すると分かり易いので例で言うと

 

「親が私の事を理解してくれない」という苦しみがあったとします。

つまり「親は私の事を理解すべきだ!」という信念(思い込み)があるという事です。

では「親が理解するかどうか」は、誰の領域でしょうか?

親が貴方を理解するかしないか、理解したとしてどのような理解をするかは、

 

「親の」領域ですね?

そこに貴方が「私の事をこのように理解しろ」というのは、親の領域への侵害ですね?

心理で言うなら「境界線侵害」です。

そもそも「親は私の事を理解すべきだ」というなら「私は親の事を理解すべきだ」も無ければ対等ではありません。
親が私の事を理解するのは簡単だろう」と思うならば「私が親の事を理解するのも簡単だ」という事になりますが、では本当に親の事を理解できるのか?

もしかしたら親は「貴方は私の事を分かっていない」と怒るかもしれません。


とにかく「親が理解するかどうか」は、誰の領域か?

 

それが「親の領域だ」と分かれば「親が理解するかどうか」等を考える事が止まります。

つまり「現実として」、

親は理解しなかったり理解したり誤解したりします、それが「現実」です。
その「現実」に対して、

自分はどのような解釈をし、どのようにするかという「自分の領域」に留まる事が出来ます。

……こういう事なんです。

更に例えて言うならば、
「親が理解するかどうか」は、例えば「雨が降っている」とか「今日は寒い」等と同じです。
雨が降っているのに対して「雨は止むべきだ」と言ったら雨という他者に対して侵害しています。
雨が降っている「現実」に対して、では自分はどのように解釈し対処するかが「自分の領域に留まる」です。

となると実は三つの領域ではなく「自分の領域」と、「『他者+神』という領域」しかありませんね? そして「他者+神」を侵害せず、「自分の領域」に留まるなら、自分の領域だけなので「非二元」になります。

「現実をあるがまま受け入れれば非二元」という事です。



言葉的に、「自他の境界」とか「自立」という言葉は

「自分と他人を完全に区分けする」という感じになりますが
実際には「投影」の原理があるので分離する事は出来ません。

ケイティが言っているのは、

境界があるからと言って相手を否定したり「来るな」と拒絶したりするのではなく

「自分の領域に留まる」事なんです。
 

 

 

もう一つ、例を挙げると例えば
「他人は私を馬鹿にした」とか「嫌ったかも」とか「良く思って欲しい」「認めろ」等々

「他人」がどう思うかは、誰の領域か? 他人ですね。

もし貴方が、他人から「私の事を良く思え」とか「嫌うな」とか要求されたらウザイですよね。

他人がどう思うかは他人の領域ですが
自分が他人をどのように思うか、他人の言をどう解釈するか、受け入れる(信じる)かは自分の領域であり、自分の自由であり、自分の責任です。

自分の領域から出なければ、自由なんです。

 

 

いやもぅ、私はこれを理解するまでに相当、年月が掛かりました(笑)
散々ケイティの本や動画を見て考察し自分で色々実践してやっと上記の理解に至りました。

ただし、ですよ。

私は好きで「紺碧の採掘師」という物語を書いてますけど

悟りとは全然関係無い、読んで楽しむエンターティメント作品なので

登場人物達は悩み苦しみ戦ったり敵だ味方だ事件だ何だと大騒ぎしますが仕方が無い!爆  笑

だってそうしないと、

皆が悟って何の問題も無いならハラハラドキドキも無いんですよ爆  笑爆  笑

 

…という事を考えると、我々に自我が与えられて、こうして生きているのは

「人生」という夢物語を楽しむ為なんじゃないかなぁと痛感する訳です。

どんなに悩み苦しんでいたとしても。

ともかく最近つくづく思うのは、私にとっては、

悟りの理解を深めるのに最も役に立ったのはケイティの本と動画、そしてワークなんです。

その威力は凄い(汗) と言っても私は「ワーク」を完全にできる訳では無いんですが(汗)

それでもワークの片鱗をやるだけでも絶大な効果がありました。

実際、生きる事がとても楽になりましたし。 

 

マジでケイティは深すぎる(汗)

あれほど悟っているのに「悟り」を表に出さない人は凄いなと思います。

私は「紺碧の採掘師」という小説を好きで書いてますけども
つくづく「小説」ってのは思考そのものですよね。

だって実際には存在しない人々や、存在しない世界を、文字だけで表現する訳ですから。

つまり文字、言葉だけで、とある人が本当に実在するように感じたり、とある世界が実在するように感じる。
文字だけで、様々な人が居て喜怒哀楽があるように感じ、文字だけで色んな事件が起こっているように感じる。

これが分かると、リアル世界が全てそうだという事が分かります。

文字、言葉だけで「誰かが存在する」ように感じ、「世界が」あると感じる。

ならば一切の思考が止まるとどうなるか。

物語が消えます。

本を閉じて、その小説の事を一切考えていない時、登場人物も、その世界もありませんよね?
それと同様に、リアル現実でも、他者の事を一切考えていない時は、その人は貴方の世界に存在していません。見知らぬ土地や国の事は、知らないのだから存在しないと同じです。

つまり「信じていなかったらそれは無い」んです。
逆に「信じていればそれはある」

今はAIが進化してフェイク画像や動画も結構ありますが
それがフェイクと知らずに信じたら、それは貴方の中では「リアル」になります。

AIで作った実際には存在しない人の動画を見て「この人は生きてる」と信じ、
「いやそれフェイクだよ、そんな人いないよ」と言われて驚く。

人というのは、肉体的に一緒に居ても、その人と心が通じていない、理解し合えないなら
一緒に居ても辛く苦しいですが
例え相手がゲームのキャラとかAIとか架空の存在であっても

自分にとって心理的に好ましい存在なら好きになる事が出来ます。
ある意味、肉体の有る無しは関係無いんです。

人が、他者と関わった時、例えその相手が家族や兄弟であっても、毎日一緒に居たとしても
完全に100%、相手を理解する事など出来ませんよね。
その相手が何を考え、何を感じているかは、本人にならないとわからない。

つまり「他者」というのは、
「この人はこういう人だろう、と自分が勝手に想像したキャラ」なんです。

貴方にとってはその人は、そういう人かもしれません。
けれども他者にとっては、その人は全く違う解釈になるかもしれません。

小説やゲームの架空キャラを「まるで実在するかのように」感じられるのと同様
貴方が他者に対して「この人はこんな人」と思うのも、全く同じ事なんです。

もし貴方が、ある人の事を完全に誤解曲解し「この人はこんな素晴らしい人」と思ったとして
それはその人が生きていようが死んでいようが貴方の中では「あの人は素晴らしい人」として

貴方の中に、貴方が思い出す限りは存在し続けます。
でも本人は「自分は極悪人だ」と信じて苦しんでいたとする。
さて一体、どれが「真実」なのでしょうか。

「素晴らしい人」や「極悪人」という考え、架空物語を取っ払えば、
「素晴らしい人」も「極悪人」も消えて「そんな人いなかった」となり
「では一体、本当はどんな人なのだろうか?」と全く違った視点が出てきますが
実は「本当はどんな人?」というのはどんなに突き詰めても分かりません。

貴方がその人に対してどう解釈し、信じるか、しか無いんです。

そもそも、自分自身も「キャラ」です。

 

今、思い出す「過去の自分」と

今、想像する「未来の自分」というのは架空キャラです。

過去の自分はこうだった、という考えを信じ

未来の自分はこうだろう、という考えを信じているだけで、

それは今、実際に存在してはいません。

今、存在しているのは今この瞬間の自分です。

ちなみに「過去の自分」と言っても、

思い出すのは思い出せる記憶だけですし、それが本当かどうか検証のしようもありません。

つまり「思い出したもの」に対して「思い出したのだからこれが過去の記憶だ」と信じているという事です。



「貴方がそこにあると信じたもの以外は存在しない」とは

バイロン・ケイティが動画で言ってた言葉ですが、

世界は、貴方が「ある」と信じたものしかありません。

今この瞬間の現実から「物語」が無くなれば、そこには何も意味付けされていない「あるがまま」があります。


さて、貴方は何を「ある」と信じ、何を「ない」と信じているでしょうか。
 

前回の記事で、バイロン・ケイティは目覚めた時に

「悟り」なんて全く知らなかったと書いたけども
…だから「エゴは悪いものだ」とか「思考は無くすべき」とかいうのも

全く知らなかったんですよ。

つまり「悟り系」で良く言われる「エゴや思考は悪いもの」という観念が無かったんです。

 

でもケイティ自身はもう思考を信じる事が出来なくなっていたので

(だって思考の幻想性を見ているから)
どんな思考が浮かんでも信じられない。

それを言葉で言えば、どんな思考でも「それは本当?(笑)」となる訳です。
それが後に「ワーク(4つの質問)」となりました。

ともかく「思考」は、信じなかったら意味が無いですよね。

仮に「明日ゴジラが遊びに来る」という思考が浮かんでも

信じなかったら何も意味は無いです(笑)

でもフェイクニュースでも、信じてしまえば不安になります。

そのくらい、「信じる力」というのは凄いんです。


だって、以前書いたけどアファメーションってありますよね、

「自分大好き」と毎日言っていると自分が好きになり

「自分なんかキライだ」と毎日言っていれば自分が嫌になる。

何でかと言うと、その言葉を信じたからです。

 

ちなみにこれ「誰が」愛してるのかと記事で書いたけども、答えを言えば

「考え(思考)」が「自分」を愛してるんですよ。

「自分の事が大好きだ」という「思考、考え」が、「自分」の事を大好き…って

言葉で書くとワケワカランなる(爆笑)
まぁとにかく「世界はアファメーションで出来ている」という


話を戻して
ここからはケイティの話ではなく私の理解ですけども

そもそも貴方に自我を与えたのは誰なんでしょうか。
ケイティは「悟り」なんて全く知らんのに目覚めました。

誰が目覚めさせたのか?
表現する為の単語が無いので、仮に『神』としときます。あくまで「たとえ」です。
『神』がケイティを目覚めさせた訳ですね。

で、貴方に命を与えたのも、貴方が今、生きているのも『神』がやってる事ですね。
生老病死は自我ではなく『神』という「現実」が司ってますね。
という事は、貴方に自我を与えているのも『神』なんですよ。

時に悟り本では

「目覚めると正しい選択が出来るようになる」と、エックハルトとか書いてますけど
確かにそれはそうなんです、目覚めると、思考の幻想性を見抜けるので

直観的に(考えなくても)「正しい選択」が起こるようにはなりますが、

 

だからといって「悟っていない状態」で

「自我が間違えた選択をする」のは「悪い事」「間違い」なのだろうか? という事です。


だってそれも『神』が起こしてるんですよ?

もしも生老病死を司り全てを生かしている『神』が、間違いを望まないなら

既に人類全員が悟っていて、自我は消滅している筈です。しかしそれは起こっていない。

つまり自我があって、「愚かな事」も起こるのが、「今の現実」な訳です。

さてここで、ワークです(笑)

「私は間違った選択をすべきでない」

1・それは本当でしょうか?
2・それは絶対に、本当だと言えますか?
3・その考えを信じると、貴方はどう反応しますか?
4・もしもその考えが、全く無かったとしたら、貴方はどうなりますか?

上記を熟考したら、ひっくり返してみましょう。

「私は間違った選択をすべきでない」→「私は間違った選択をすべきだ」

「私は間違った選択をすべきだ」それはなぜでしょうか?

…というのがワークなんですけど(凄いザックリ書いてます)

この「ひっくり返し」をなぜやるかと言うと、
自我は、自分が信じたものの証明を集めようとするからです。

例えば「あの人は嫌な人」と思った瞬間、嫌な部分ばかりが目に付く事ってありますよね。
「この人は間違った事を言う」と信じた瞬間、その人の間違いばっかり見つけてしまうとか。

それが「思い込み」の力で、それを信じるとその部分ばかり見てしまうんです。

でも「現実」はあるがままです。

つまり「現実」に何の意味も付けないなら、何の意味も無いという事です。
そこに、自我が勝手に「悪い」とか「良い」とか付けてる訳で。


その、自分が信じた「勝手な判断」が

自分にとって苦ではないならそれでいいですが、
その判断が苦ならば、それは手放した方がいいですね?

苦しみたくないならば。
 


ともかく単純に言えば

「私は間違った選択をすべきでない」も

「私は間違った選択をすべきだ」も、同等だという事です。

両方信じたら打ち消されて何も無いですし

両方信じなくても何も無いです。


…という事です(笑)
 

ちなみに以前の記事で私が「悟りのブログとか本をあまり真剣に読まない方がいい」とか

「妄信しない方がいい」と書いたのは、上記のようにどんな言葉も一面の真実だからなんです。

それを読む側の解釈も色々な上、信じてしまうとそこしか見えなくなる事もある。

 

とはいっても言葉以外では伝達できませんし、

全部『神』がやっている事で、「起こるがまま」だからOKなんです、はい爆  笑