西本願寺では、食事の言葉として、食前・食後に称える言葉があります。
<食前の言葉>
(ひとりで)多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれまれました。
(みんなで)深くご恩をよろこび、ありがたくいただきます。
<食後の言葉>
(ひとりで)尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
(みんなで)おかげで、ごちそうさまでした。
これは本年の一月から、旧食事の言葉に代わって使用されているものです。
いろいろ賛否があると思いますが、
私のいのちを保たせていただいているのは、沢山の命のご恩によるものということを
強調した言葉であると思います。
私たちが食事をいただくというのは、とりもなおさず
多くの命の犠牲の上に生かされているということです。
一人で行ったラーメン屋さんで、食事の言葉を唱えるのは少し恥ずかしいでしょうから、
せめて合掌だけでもさせていただき、多くの命に感謝させていただきましょう。
さて、食事の言葉は時代とともに変遷され、現在の形になったわけですが、
最も古い、浄土真宗の食事の言葉をご存知でしょうか?
江戸時代、日溪法霖(にっけいほうりん)というお坊さんが作られた
「対食の偈(たいじきのげ)」が浄土真宗の食事の言葉の最初です。
この方は西本願寺において、第4代の「能化(のうけ)」と呼ばれる最高の地位にまでなられた方です。
※能化とは、現在で言うところの龍谷大学長・勧学寮頭・門主の顧問などを一手に任されていた
最高の学者さんです。
この日溪法霖和上が対食の偈を作られたエピソードに入る前に、
日溪法霖(1693~1741)とはどんな人であったのか、簡単に紹介させていただきます。
現在の和歌山県でお生まれになられた法霖和上は、
幼い頃から超がつくほどの天才と言われていました。
お父さんが、お坊さんになられたご縁で、ご自身も得度してお坊さんになります。
とにかくずば抜けた勉強家で、仏教内外の書物を離さず、
なんと19歳の時には法然聖人さまの『選択本願念仏集』を講義されるまでになりました。
なんでも、頭にくぼみがあり、そこを指で押すと、全くノートを取らずとも
スイスイとお経のご文などが出てきたそうです。
ですから、現在残る法霖和上の肖像画は、頭のくぼみを押さえているものです。

法霖和上27歳のいろんなご縁があり、滋賀県の正崇寺に住職として入られます。
さて、法霖和上39歳のころ、浄土真宗にとって大きな問題が生じました。
当代随一と言われた華厳宗の学僧・鳳潭僧濬(ほうたんそうしゅん)師が真宗批判の書、
『念仏往生明導箚(ねんぶつおうじょうみょうどうさつ)』二巻という書物を著したのです。
これは当時の仏教界全体に大きな問題を提起したのです。
真宗側も沢山の学僧が反論書を出すのですが、相手は当代随一の大学者、
なかなか論破の決め手がありません。
そこで、若き法霖和上は『浄土折衝篇(じょうどせっしょうへん)』をいう書物を書き、
鳳潭師の批判を見事に論破したのです。
しかしながら鳳潭師も黙っておられません。『雷斧(らいふ)』という本を書き反論します。
『雷斧』ですから「雷のオノ」。すさまじい反論書と言う意味でしょうね。
すかさず法霖和上は、たったの1ヶ月で
『笑螂斧(しょうろうひ)』五巻を書き上げ、鳳潭師の説を
「笑ろうて更に笑ろうべし」と完膚なきまで論破したのです。
つまり、鳳潭師の書いた『雷斧』は雷のオノではなくて、かまきりのオノのようなもので、
取るに足らない笑える書物ということでしょうか。
鳳潭師はこのとき73歳ですから、いささか失礼なタイトルですけれども、
それほどの自信と確信があったということでしょうね。
仏教にとどまらず、古今東西に亘る知識を詰め込んでいる法霖和上だからこそできた大偉業です。
この法霖和上の活躍で、浄土真宗のご法義が今に伝えられているのです。
それでも、当代随一の学僧として知られる鳳潭師のことを、
法霖和上は尊敬されておられたのでしょう、
また鳳潭師も浄土真宗に本物の学僧が出たと喜ばれたのでしょうか、
このお二人、この大論争の後は、親密な法友となられ、互いに認め合った関係となったのです。
さてさて、なかなか食事の言葉に入りませんが、ここから法霖和上が「対食の偈」を
作るに至るお話しとなってくるのですが、
ちょうど時間となりました。
この続きは次回で。
西法寺@芦屋