星が降る夜


僕達は恋人になった。


彼女はとても美しくて、僕は緊張のあまり上手く踊る事が出来なかったけれど、幸福とは、今のこの瞬間の事を呼ぶのだろう。


彼女はまさしく星空に輝く光であった。



それから星空 ひかり(ほしそら ひかり)は、吹奏楽部の練習に明け暮れる日々が続いた。コンクールまであと5日、ここが最後の追い込みである。


「コンクールが終わるまでは、ごめんね。」


彼女は申し訳なさそうに手を併せる。2人が付き合うようになってから、デートはおろか まともに話した事も無い。それでも僕は幸せだった。


「あと5日くらい何とも無いさ。コンクール頑張ってね!」


僕はそう言うと、いつものように一人で家路につく。彼女にとってコンクールはとても大切なもので、野球で言えば甲子園に行くようなものだろう。僕は自分の右肩に優しく触れた。


それでも本心では、僕は彼女に会いたくて仕方がない。一緒に帰り道で雑談したり、休みの日には映画を観たり、いや、彼女の事だからクラシックのコンサートにでも連れて行った方が良いだろう。他にはカラオケとか。そして……。


「………………。」


まるで夢のようだ。


学年一可愛い彼女と僕は恋人になった。僕なんかの何が良いのか自分でも分からないけれど、とにかくこれは夢ではない。


あと4日


雨上がりの空には虹が昇っていた。


あと3日


電話くらい掛けても良いだろう。そう思ってスマホを手に取り1時間が経過したが、やはり電話は出来なかった。


あと2日


親友の早瀬(はやせ)に遊びに行こうと誘われたが、とてもそんな気にはなれなかった。


「お前ら、本当に付き合ってんのか?話してるとこ見た事無いぞ?」


(放っておいてくれ。)


そして、あと1日


明日はいよいよコンクールである。ベットの上でスマホを見つめるのは既に日常に成りつつある。それでも僕は電話を掛ける事が出来ない。


(まぁ、あと一日の我慢だ………。)


そう言い聞かせて僕がスマホから目を離そうとした時、ポロンとチャットの音が鳴る。


星空 ひかり────


電話ではなくチャットによる伝言だ。


『今から会えるかな?』


(えぇぇ!?)


時計の針は夜の10時を回っていた。


『ええと!今どこ!?』


彼女が指定したのは街中から少し外れた所にある中島公園だった。自転車なら15分で行ける距離で、彼女がわざわざ僕の家の近くに来た事が伺える。


『待ってて、すぐに行く!』


僕はそう打ち込むと急いで自転車に飛び乗った。北海道の夏は短い。9月の終わりともなれば、この時間帯は少し肌寒いくらいだ。チャットの伝言を頼りに中島公園の中を彷徨っていると、白いワンピース姿の彼女が目に飛び込んで来た。


「神道君、早かったね。」


「うん。いや、こんな時間にどうしたの?」


「迷惑だった………かな?」


「迷惑だなんて、そんな事は無いけど!」


実際、僕は嬉しかった。彼女と付き合う事になった文化祭の最終日。二人で踊ったフォークダンスが彼女との最後の接点で、その後は二人きりで会う事は一度も無かったのだから。


それにしてもコンクールが終われば二人でデートをする約束もしているのに、急にどうしたのだろう。


「何かあった?」


僕が質問をすると、彼女は俯いて黙ってしまった。これは何を意味するのか?顔が見えないだけに反応に困る。


「私ね………。」


ようやく口を開いた彼女は思いもしなかった事を言い出した。


「吹奏楽部………。ううん。音楽を辞めようと思うの。」


「!?」


突然何を言い出したのか僕には全く分からない。


「音楽を辞めるって……。吹奏楽部!?」


「吹奏楽部もトランペットもピアノも………。」


「どうして………。」


「だって!」


それは、心の叫びであった。


「私、コンクールが終わったらオーストリアに留学するの!ウィーン交響楽団に入って、おそらく日本には帰って来れない!」


「な………!?」


「せっかく神道君とお付き合い出来たのに、このまま二度と会う事は出来ないかもしれない!」


このままでは、幸せになれない。

彼女の大きな瞳から涙が零れ落ちる。


彼女にとって僕は最後の望みであった。音楽なんて辞めて僕と一緒に行こう!僕が君を守って見せる!


そんな言葉を待っていたのかもしれない。


「夢を…………。」


しかし、僕は全く違う言葉を発していた。


「君は夢を諦めるのかい?」


「!?」


1年前のあの日、僕はマウンドに崩れ落ちた。


「僕ね、もう一度野球をやろうと思うんだ。」


「野球?」


「君には話した事が無かったかもしれないけど、僕は中学の時まで野球をやっていたんだ。」





神道 章(しんどう あきら)


それが彼の名前です。


彼は野球部のエースで、天才的なピッチャーでした。野球のあまり知らない私ですら彼の投球に夢中になった。そんな彼が右肩を故障したと聞いた時、私は自分の事のように絶望しました。


彼は私だった。


幼い頃から野球に明け暮れた毎日を過ごした彼は、いつしか天才と呼ばれるようになる。私と同じです。ですから彼なら私の気持ちを分かってくれると思いました。


それは大きな間違いでした。


なぜなら、彼は野球が好きだったのです。


それに、比べて私ときたら音楽を好きだと思った事は有りません。私にとっての音楽は地獄そのものでした。彼は私を救ってはくれません。むしろ、私を追い込もうとするのです。


「文化祭で聴いたトランペット。」


「……………。」


「とても素敵だった。」


「………………。」


「夢を諦めたらダメなんだと。僕は教わったんだ。」


「…………え?」


「一度は諦めた野球への夢を君が思い出させてくれた。」


だからと


「もう一度、やり直そうと思う。」


「だって…………。」


(その右肩は……………。)


「左腕がある。」


「!!」


「甲子園には行けないかもしれないけれど、どこまでやれるか分からないけれど、君が居るから…………。」


恋人となって最初で最後のデートはほろ苦い想い出となりました。


あの日、彼が居なければ、今の私は無かったと思います。



ウィーン交響楽団東京公演


研修生から正式な団員となった私は日本に戻って来ました。ここは故郷の札幌とは違いますので、もちろん彼が観に来るなんて事は無いでしょう。それでも、私は会場の中に彼の姿を探していました。


もしも彼に会う事があれば伝えなければならない事があります。


ありがとう


そして


私は幸せになりました。


幸福と不幸は表裏一体で、不幸だと思っていた環境は実は幸せだった事を知りました。


私は恵まれていたのです。


両親に恵まれ、幸運にも恵まれ、そして何よりも、神道君、彼氏にも恵まれました。


お付き合いをしてから、まともに会う事は無かったけれど、たった一度の夜のデートは忘れる事が出来ない想い出です。


あれから5年。


私も大人になりました。


どうかしら?


あの頃よりも美しくなったかな?


すると彼は笑って言うのです。


「馬鹿言っちゃいけないよ。君はあの頃から最高に美しい。」


「…………!」


振り向くと、彼が笑っていました。



──────お帰り






追伸


ヘレン・ケラーは言いました。


幸福とは身近に転がっているものです。人はそれに気付かないだけなのだと。