恋をしました。


あれは今から1年前の夏の日の出来事でした。


私達の中学校は地元では有名な野球の強豪校で、その年の大会も順調に決勝戦まで進んでいました。私は吹奏楽部に所属しておりましたので、試合の日は学校を休んで応援に駆け付けるのです。クラスメイトにはずるいと言われるけれど特別休暇は吹奏楽部の特権です。


決勝の相手は市内では無名の高校でしたが、その年の野球部は一味違っていました。札幌公立栄北中学校の野球部のエース、神道 章(しんどう あきら)は、まさに神童だったのです。中学生ながら多彩な変化球を使いこなし、速球のスピードは超高校級と呼ばれていました。現に私の学校の生徒達はボールをバットに当てる事が出来ません。


「あれは反則よね。何であんな子が中学校に居るのよ。」


親友の佳苗(かなえ)も不貞腐れています。そうは言っても相手は同じ中学生、負ける訳には行きません。幸い相手の中学はピッチャーだけで決勝まで勝ち残ったチームで、他の選手はあまり上手じゃないように見えます。


試合はゼロ対ゼロのまま延長戦に突入し、1回戦から投げ続けている彼は疲れているように見えました。


カキィーン!


わっ!


乾いた空気に響く打球音は、まるでフォルテシモのように大きく聴こえます。延長13回裏は私達の中学校の攻撃で、先頭バッターがセンター前ヒットを打つと続く打者は四球を選びます。併殺崩れでランナーが進むと、次の打者はまたしても四球で塁に進みます。ワンアウト満塁の大ピンチ。


(……………あれ?)


攻撃をしているのは私達の学校のはずなのに、ピンチとは変な話です。しかし、それでも私の脳裏を過ぎったのはピンチと言う単語でした。


彼の額からは大粒の汗が滴り落ちています。


(暑いだろうな…………。)


その日の札幌は気温が35℃にも達する真夏日で、とても北国の気温では有りません。私は地球温暖化を呪いました。


申し遅れましたが、私の名前は星空 ひかり(ほしそら ひかり)、市内の中学校へ通う14歳です。私が初めて彼の名前を知ったのは、昨日の準決勝の試合でした。


「北中に化物がいる。」


噂通りの彼は準決勝でも無得点に抑えて決勝に駒を進めたのです。それから私は彼の記事を探しました。一部の野球関係者からは知られた存在で、全国の高校野球部からも一目置かれているそうです。


カキィーン!


わっ!


我に返った私が目撃したのは左中間へ転がるボールです。吹奏楽部の皆は嬉しそうに飛び跳ねています。私がすぐにマウンドを見ると、炎天下のマウンドの中央に、彼が右肩を押さえてうずくまっているのが見えました。


後で聞いた話なのですが、彼は幼い頃からリトルリーグで活躍していた投手で、この日の決勝戦を最後に野球を辞めたそうです。右肩を酷使し過ぎたのが原因と聞きました。


私は彼を自分と重ね合わせました。


幼い頃からピアノの練習に励み、友達と遊ぶ事も許され無かった幼少時代。ピアノの腕前はみるみる上達しコンクールで優勝もしました。中学校に入学してからは吹奏楽部に入りました。楽器はトランペットです。それと言うのも私の父親はトランペットのジャズ奏者で母親はピアニストです。部活が終わった後も練習は続きます。もしも、私から音楽が無くなれば、私には何も残らない。


(それなら彼は…………。)


神道 章(しんどう あきら)君。彼には何が残るのだろう?


彼は未来の私かもしれない。



私は市内でも有名な進学校に入学しました。札幌市立東成高校は吹奏楽部の強豪校で2年連続で全国出場も果たしています。私は当然のように吹奏楽部に入部しました。


「ひかりは良いよね。音楽の天才だもんね。」


天才


私は天才なんかではない。幼少の頃から遊ぶ事も許されず練習に明け暮れた毎日。家族旅行に行った記憶も無ければ、友達の家にお泊りした経験も無い。これが天才ならば天才などにならなくても良い。


そんなある日、私が学校の廊下を歩いていると一人の男子生徒とすれ違いました。


(!)


神道 章(しんどう あきら)君、彼は本物の天才です。ピアノやトランペットなどは練習をすれば上手くなれます。しかし彼の投手としての実力は練習ではどうこう出来るレベルでは有りません。友達に聞く所によると彼は部活には入って居ないらしい。野球が出来なくなったと言う噂は本当のようでした。


それから私は彼の事を目で追うようになりました。


吹奏楽部の練習は厳しくて、休みなど全く無い状態が続いていました。それは吹奏楽部では普通の事で特に金管楽器は一日休めばそれを取り戻すのに3日は掛かると言う謎の伝統があります。一方の彼は帰宅部でしたので帰り道が偶然に一緒になるなんて奇跡は起こりません。


そして季節は夏になります。


我が吹奏楽部は夏休みなど無いかのように毎日練習が続きます。私は練習に手を抜く事は好きでは有りませんでしたから、一生懸命練習に励みました。夏休みも半ばとなり、いつものようにトランペットパートでの練習に励んでいた時、3階の窓の下に見えたのは神道 章(しんどう あきら)君でした。


(夏期講習が終わった?)


時計の針は午後3時を指しています。今日の練習は午後3時までですが大抵は4時頃まで練習するのが吹奏楽部の日課です。


「先輩!今日は用事がありますのでお先に失礼します!」


そう言って私は教室を飛び出しました。部活に入ってからこんな事は初めてです。私は急いで彼の後を追い掛けます。ようやく見つけた彼は駅前の商店の前のベンチでスポーツ飲料水を飲んでいました。

 

とても蒸し暑い夏の日の出来事です。


私は同じ商店でアイスキャンデーを買うと彼の座っているベンチに腰掛けます。


「今日は暑いね。」


今まで話した事も無い男子に話し掛けるのは非常に勇気がいる事で、私はベタな天気ネタで話し掛けます。すると彼は困ったような顔をしました。


(あちゃあ………。変な人だと思われたかな。)


それでも私はめげずに話を続けます。


「その制服、同じ学校よね?夏期講習?」


何と言うあからさまな嘘でしょう。彼が同じ学校だと言う事も、夏期講習の帰りだと言う事も私は知っていました。だって他に話題が無いのですもの。それから沈黙が続きます。とても気まずい雰囲気です。


私は急いでアイスキャンデーを食べ干すと、最後にもう一度勇気を振り絞りました。


「またね。」


ここで繋いで置かないと、彼とは二度と話す事が出来なくなりそうで、自然と思い浮かんだ言葉がまたねです。彼は少し戸惑った様子でしたが、最後はニコリと笑って言いました。


「あぁ、またな。」


それは、再開の約束の言葉でした。


その日の家での練習は全く集中出来ずに父に怒られた事を覚えています。


幸福


それは日常の中に潜んでいる些細なものなのでしょう。私の憧れは普通の生活です。友達と遊び、友達と出掛け、そして恋をする。中学生の時も何度か告白された事はあるけれど、その全てを断りました。私には音楽に費やす以外の時間が有りません。自由が無かったのです。


自由


なんて魅惑的な言葉なのでしょう。このまま音楽を続けていれば私には自由は訪れない。コンクールが終わったら私は吹奏楽部を辞めよう。そして音楽からも開放されて自由に生きよう。そんな願望が持ち上がったのはこの日からです。それからと言うもの。私の頭の中は彼の事でいっぱいになりました。


文化祭


札幌市立東成高校の行事の中でも大規模イベントとして有名は行事です。我が吹奏楽部もステージで楽曲を披露するのですが、私はトランペットパートのソロを任されました。1年生としは異例の事です。当然に先輩からは嫌味を言われたり、時には嫌がらせも受けましたけれど、それほど気になりませんでした。コンクールが終われば自由になれる。先輩から嫌がらせを受ける事も無くなるでしょう。 


体育館での演奏はクライマックスを迎え、いよいよ私のソロパートの時間がやって来ました。フィガロの結婚。とりわけ私はスザンナである。伯爵を始めとする幾多の妨害を乗り越えてフィガロとの結婚を目指す少女は、その想いを音に乗せるのです。トランペットの奏でる音は体育館中に響き渡り、赤裸々に恋を語ります。もちろんその相手は神道君、その人です。父や母がこの音を聴いたら怒るに違い有りません。




♬♪


届け!私の音!


届け!私の想い!


私は幼少の頃から培った音楽の奏でる音に全ての想いを乗せました。


奇跡


私はこの日ほど神様の存在を信じた事が有りません。体育館での演奏が終わり音楽室でのミーティングを終えた私を待ち受けていたのは彼でした。彼は一言も喋らずに白い封筒を私に手渡しました。柄の何も無いシンプルな封筒です。私は驚いて、嬉しくて、そして何よりも戸惑ってしまい何も言えませんでした。


その日の夕食はとても豪華なものでした。


「わぁ!すごい!ママどうしたの?」


母は嬉しそうに豪華な食事を食卓に並べます。何か良い事でもあったのかしら?私はそう思いましたがそれどころでは有りません。


彼からの手紙は何度も読み返しました。とてもシンプルな文章で彼らしいと思いました。そして、どこからどう読んでも愛の告白なんです。


フォークダンス


文化祭の最後を飾る一大イベントです。私はそこで彼と踊る事になるでしょう。全校生徒が居る前で?恥ずかしくて顔から火が飛び出そうです。


「ひかり。」


母の呼び掛けにもすぐには反応出来ません。心は上の空で意識は明日の事ばかり考えています。


「ウィーン交響楽団の研修生に合格したわ。」


「……………え?」


「オーストリアへの留学が決まったのよ。おめでとう!」


この時



私の時が────


─────────止まりました。