不死物語【覚醒編】


【プロローグ】


年が改まり、正月三日。
雪はすでに止み、空気だけが澄み切った朝だった。


社の境内には人影もなく、正月特有の喧騒が嘘のように静まり返っている。その静寂を破ったのは、麗のスマートフォンの振動だった。 

画面に表示された文字を見た瞬間、麗の指がわずかに止まる。


――東京へ戻れ。


発信元は、神代家本家。
簡潔で、拒否の余地を一切与えない命令だった。
神代家には、正月に全国から一族を集め、神聖なる儀式を執り行う習わしがある。
表向きは「年始の集会」。だが実態は、血筋と力を確認し、序列を再定義する場だ。


今年は、すでに一族は集結している。
例年なら、麗もその場にいるはずだった。


だが――
大晦日の戦闘。
そして、その後始末。
すべてが重なり、麗の合流は遅れていた。


この集まりには、もう一つの意味がある。
神代本家の娘・神代麗を、一族に正式にお披露目すること。
それは、逃げ場のない役割だった。


本家棟梁・神代宗一郎。
神代家の頂点に立つ男であっても、この儀式だけは省略できない。麗を呼び寄せない、という選択肢は最初から存在しなかった。


スマホを握る麗の表情に、わずかな陰りが落ちる。脳裏に浮かぶのは、二人の姿だった。


ひとりは――凛。
まだ何も知らず、穏やかな日常に戻りつつある少女。


そして、もうひとり。
年末の戦闘で重傷を負い、今も病院のベッドに横たわる耕平。


「……」


麗は、小さく息を吐いた。
東京へ行けば、しばらく戻れない。
それが意味するものを、麗はよく理解している。だが、行かねばならない。


その前に――
麗は上着を羽織り、病院へ向かった。


病院
消毒薬の匂いが、鼻を突く。
廊下は静かで、正月休みのためか人影もまばらだった。
病室の前で、麗は一度だけ足を止める。
扉越しに、微かな機械音が聞こえる。
ノックをしてから、静かに扉を開けた。
ベッドに横たわる耕平は、眠っていた。
包帯と医療機器に囲まれ、その姿は戦いの痕跡を如実に物語っている。


麗は、そっとベッドの傍に近づいた。


「……無茶をする人」


声は小さく、責めるようでもあり、祈るようでもあった。


耕平の顔に、微かな苦悶の色が浮かぶ。
夢を見ているのか、それとも痛みか。
麗は、胸元で手を組み、静かに目を閉じる。


――必ず、戻ります。


それは誓いでもあり、願いでもあった。
東京へ戻れば、神代家の“現実”が待っている。
血、力、責任、そして逃れられない宿命。
だが、それでも。


「……凛のこと、頼んだよ」


誰にともなく、そう呟き、麗は病室を後にした。


麗と甚大が東京へ向かった、その日。
神社の空気は、目に見えないほど張り詰めていた。
境内に足を踏み入れた瞬間、**「違う」**と分かる気配があった。


それは敵意ではない。
だが、完全な警戒――
国家が人を守ると決めたときの、あの硬質な緊張だ。


社務所の前に、二人の男が立っていた。
ひとりは、年配の男。
背筋は自然体だが、視線は一切の隙を見せない。


公安所属。
階級は警部。

名前は後藤。
現場を踏み続けてきた人間特有の、「余計なことを言わない顔」をしていた。


「神代甚大殿が東京へ向かわれたと聞きました」


名乗りは簡潔だった。
肩書も、使命も、すでに互いに理解している。


「本日より、この神社および木原凛さんの身辺警護を、政府直轄で引き継ぎます」


その隣に立つ、もうひとり。
若い男だった。
年齢は二十代前半。
黒髪を短く整え、和装に近い動きやすい服装。
だが――
立ち姿だけで分かる。
剣士だ。
無駄な力が一切なく、
身体の中心が微動だにしていない。
陰陽術師ではない。
術式の気配も、結界の痕跡も持たない。
それでも、刃を持たせれば最上位と直感させる圧があった。


「こちらは――」


後藤警部が一拍置く。


「神代宗一郎殿の推薦により選ばれた剣士です」


その言葉だけで、十分だった。
宗一郎が名を出した。
それは、この配置が形式ではなく、覚悟の上である証拠だ。


境内の外周には、すでに人影が増えていた。
私服警官。
制服警官。
通信車両。
総勢十三名。


全員が、政府特別任務の警官だった。
監視、警護、即応。
役割は分かれているが、目的は一つ。


――木原凛を、絶対に奪わせない。


この配置は異例だった。
要人警護の基準で言えば、
総理大臣クラス。


それが、一人の少女に向けられている。


理由は明白だった。
年末の夜に、公にされなかった誘拐未遂事件。
説明のつかない現象。


そして――


「不死蝶」


という、報告書に書かれてはいけない名前。
政府は理解している。


凛はもう、「一般人」ではない。


だが同時に、「兵器」にもしてはならない。
だからこそ、この選択だった。


社の奥。
凛は、いつも通りに過ごしていた。
外の異変に気づいていないわけではない。
だが、何も言わない。
凛は、見られていることに慣れ始めていた。
それが何を意味するのか、本当のところまでは、まだ知らない。


剣士は、遠くから凛を一瞥し、視線を外した。


「……守るだけ、です」


それが彼の役割。
問いも、判断も、彼の仕事ではない。
公安警部は、低く呟く。


「政府は、重く見ています。彼女は……今や、日本国における最高警護レベルの人材です」


“人材”。
その言葉が、
静かに、重く、境内に落ちた。


それは保護でもあり、同時に、国家の所有を示す言葉でもあった。


神社の上空を、冬の風が通り抜ける。
不死蝶は、まだ姿を見せない。


だが――
この国全体が、
凛という存在を中心に、静かに動き始めていた。



【剣士】


境内に差し込む冬の陽は、まだ低い。
凛は、いつものように社の縁側に座っていた。
正月飾りの名残が、風に揺れている。
その前に、足音が一つ。
重くもなく、軽すぎもしない。
凛は顔を上げた。
立っていたのは、あの若い剣士だった。
鋭さはある。
だが、近くで見ると不思議なほど穏やかな目をしている。


「……こんにちは」


凛が先に、そう言った。
剣士は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頭を下げた。 


「こんにちは」


声もまた、静かだった。
威圧も、媚びもない。
剣士は一歩だけ前に出て、距離を測るように立つ。


「改めまして」


腰を折り、深く礼をする。


「自分は――**名取 恒一(なとり こういち)**と申します」


名を告げるとき、剣士は目を逸らさなかった。
それは礼であり、覚悟の示し方でもあった。


「陰陽師ではありません。ですが、剣を振るうことだけは、生まれた時からやってきました」


凛は、その名を胸の中で反芻する。
名取。
聞き覚えのない姓だが、どこか古い響きがあった。


「……よろしくお願いします」


凛は、少しだけ迷ってから、そう答えた。
名取は、ほんのわずかに微笑んだ。
だがそれは笑顔ではない。
安心させるための、表情だった。


耕平は、まだ戻らない。
病院の白い天井。
機械音。
目を閉じたままの姿。
凛は何度も、その光景を思い出してしまう。
守ってくれる人はいる。
けれど、話せる相手は少ない。


――頼っていいのか。


そんな迷いを、名取は見抜いたわけではない。
だが、自然と口を開いた。


「……耕平さんが戻られるまで」


名取は、境内を一度見回し、静かに続けた。


「自分が、ここにいます」


それだけだった。
励ましでも、約束でもない。
ただの事実として告げられた言葉。
それが、今の凛には十分だった。


「……ありがとう」


小さくそう言うと、凛は少し肩の力を抜いた。
名取は、それ以上何も言わない。

剣士として、話しすぎない距離を守る。


その様子を、影から見ているものがいた。
人の形をしているが、人ではない。


グリフォン。


光の届かない木々の奥。
結界の外縁。
凛と剣士の二人を、無言で観測している。


(……新しい守り手か)


評価するような視線。
敵意はない。
だが、好意もない。


(剣士。術はないが、刃は本物)


グリフォンは理解する。
今の凛には、寄り添える存在が必要だということを。


耕平がいない。
麗もいない。
その空白を、国家が埋めようとしている。


(面白い)


グリフォンの影が、ゆっくりと溶ける。


(だが――それでも、守れるかどうかは別だ)


その視線が外れた瞬間、
境内の空気が、わずかに軽くなった。


凛は理由も分からないまま、空を見上げる。
冬の空は、澄んでいた。


【行動開始】


四国近郊。
光の届かない海の底。
潜水艦は、岩盤の影に身を伏せるように静止していた。
エンジン音は極限まで抑えられ、艦内は低い機械音だけが規則正しく響いている。


ルーリッド・ダンケルクは、作戦室の中央に立っていた。
短く整えられた、銀混じりの灰色の髪。
年齢を感じさせるその色は、彼が生き延びてきた回数の証でもあった。


彼の前には、複数のホログラムが浮かんでいる。

地形図。
警備配置。
行動予測。
そして――数値。


何百回と繰り返されたシミュレーション結果。
《誘拐成功確率:7.3%》
《誘拐成功確率:9.1%》
《誘拐成功確率:6.8%》
どの結果も、10%を超えない。


それでも、ルーリッドは苛立たない。
この数字が意味するものを、誰よりも理解しているからだ。


――失敗する作戦は、始めない。


それが彼の信条だった。
だが。
ホログラムが切り替わる。


《変数更新》
木原耕平:入院中(戦闘不能)
神代麗:東京滞在
神代甚大:同上
現地防衛:日本政府直轄警護部隊
数値が、静かに書き換えられる。


《誘拐成功確率:18.4%》
《条件付き成功確率:24.7%》


ルーリッドの視線が、わずかに細くなった。


「……上がったな」


独り言のように呟く。
この数字は、奇跡ではない。
人為的な空白が生まれた結果だ。


神代麗。
神代甚大。
得体の知れない術。
因果を歪める判断。
常識が通用しない存在。
彼らがいる限り、成功確率は上がらない。


(……やはり)


ルーリッドは内心で結論づける。


(不可解な存在ほど、戦場を壊す)


その点、今配置されているのは――
警官。
剣士。
軍属に近い人間たち。


「戦える相手だ」


ルーリッドは、断言する。
彼は異能を侮らない。
だが、恐れもしない。
恐れるべきは、予測不能なものだけだ。


日本政府の警護は厚い。
だが、論理で動く。
命令に従い、規則を守り、「守る」という役割に縛られている。


(……扱いやすい)


彼は冷酷な計算を、感情なしに行う。
凛の周囲に配置された十三人。
公安の警部。
剣士。


「――ミラ」 


低い声で呼ぶ。
ほどなく、金髪の女性が入室した。
二十歳。


美貌の奥に、異様な感覚器官を持つ少女。


「はい、隊長」


「結界の重なりを、もう一度洗い出せ」


ルーリッドは画面を操作しながら続ける。


「術者はいない。結界も無いわ」


ミラは、確信を持って答えた。

ルーリッドは、静かに頷く。


「十分だ」


再び、成功確率が更新される。 


《最適条件下成功確率:31.2%》


三割。
常人なら、躊躇する数字だ。


だが、ルーリッドにとっては――


「実行可能だ」


それだけで十分だった。


彼は最後に、凛のデータを見つめる。
木原凛。
少女。
国家最高警護対象。



正月三日。
深海で下された判断は、
やがて日本の静寂を切り裂く刃となる。


東京・神代本家夜の帳が降りる頃、神代本家の屋敷は、異様なほどの熱を帯びていた。

都心とは思えぬ広大な敷地。

結界は幾重にも張り巡らされ、門をくぐる者すべてが名と血を確かめられる。


――今宵は、特別だ。


麗と甚大が到着したのは、日が完全に落ちた直後だった。


「……やはり、重いな」


甚大が低く呟く。空気が違う。土地そのものが、神代の血を歓迎すると同時に試している。 


麗は何も言わず、背筋を伸ばして歩いた。

この場所に足を踏み入れた瞬間から、彼女は“個”ではない。神代の娘として、立つ必要があった。


儀式は、盛大だった。

神楽。祝詞。太鼓の音。火が焚かれ、陰と陽が厳密に整えられていく。

例年の倍――いや、それ以上の人間が集まっていた。分家の長老。政府関係者。裏の世界と繋がる観測者。彼らの目的は一つ。


――神代麗を、この目で見ること。


「……噂通りか」


「いや、それ以上だ」


ざわめきが、抑えきれずに広がる。

やがて、場の中央が開かれた。

宗一郎が、前に出る。神代本家棟梁。その存在だけで、空気が張り詰める。


「――これより」


低く、しかし通る声。


「本家の娘、神代麗を 一族にお披露目する」


麗が、一歩踏み出した。白と朱の装束。

簡素だが、隙がない。顔立ちは、噂に違わぬ美しさ。だが人々が息を呑んだのは――視線だった。媚びない。逃げない。測られることを、恐れていない。


「……若いのに」


「いや、あれは……」


囁きが、途切れる。宗一郎の合図で、麗は印を結んだ。――術式、展開。派手さはない。だが、空間が震える。陰陽が、正確に重なり合う。


「……完成度が高すぎる」


誰かが、思わず漏らす。神代の名に、恥じない。否、それ以上。麗は最後に、深く一礼した。それだけで、儀式は終わった。


拍手はない。代わりにあるのは――確信。


(本物だ)


その夜、神代一族は理解した。

次代の中核が、ここに立っていると。



四国・海上拠点同じ頃。四国近郊の暗い海。潜水艦の内部で、ランプが一つ、また一つと点灯していく。


「――行動開始」


ルーリッド・ダンケルクの声が、静かに響いた。兵士たちは無言で動く。


訓練された動線。感情は、排除されている。装備が配られ、最終確認が行われる。


「目標は、日本国内の少女一名。不死蝶。」


「接触は段階的。 決して正面衝突はするな」


ルーリッドの視線が、鋭くなる。


「これは戦争ではない。俺達は一方的に狩る側だ。こちらの行動を悟らせるな」


潜水艦の外で、小型艇が切り離されていく。

静かな波紋。誰にも気づかれぬまま、侵入は始まった。



最初に違和感を覚えたのは、公安所属の警部――後藤だった。


「……おい」


無線機を耳に当てたまま、後藤は眉をひそめる。


「応答しろ。持ち場を離れたのか?」


返事がない。
雑音すら入らない、完全な沈黙。


(……切れただけか?)


一瞬そう考えたが、胸の奥に引っかかるものがあった。
この警備体制で、通信断はあり得ない。


「……チッ」


後藤は小さく舌打ちをする。


(サボってやがるのか?)


そう思おうとした。
だが、公安として長年生き残ってきた勘が、それを許さない。


「おい、二号配置の奴」


近くにいた警官に声をかける。


「裏手の様子を見てこい。連絡が取れない奴がいる」


「……え、俺がですか?」


若い警官は、露骨に嫌そうな顔をした。


「他に誰がいる」


後藤の低い声に、逆らえる者はいない。


「……了解です」


警官は懐中電灯を持ち、しぶしぶと夜の境内へ向かう。


冬の神社は、音が少ない。
足音だけが、やけに大きく響く。


(何もなきゃいいんだが……)


裏手の社務所近く。
光を当てた瞬間、
警官は息を呑んだ。


「……え?」


倒れている人影。
見覚えのある制服。


「おい……大丈夫か?」


駆け寄ろうとした、その瞬間。
――空気が、歪んだ。
目の前に、突然“現れた”。
軍服。
外国人。
迷いのない動き。


「――っ!」


声を上げる暇は、なかった。
一閃。
鈍い衝撃と共に、視界が回転する。
警官は、音もなく崩れ落ちた。
血が飛び散ることはない。
無駄な動作もない。
ただ、排除。


外国の軍人は、倒れた二人を一瞥すると、すぐに身を翻す。
闇に溶けるように、その姿は消えた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。


数分後。
後藤は、無線を強く握りしめていた。


「……おい?」


二人目からも、返答がない。
この時点で、確信に変わる。


(――来ている)


後藤は、即座に判断した。


「全員、警戒態勢に移れ」


声を落とし、しかし明確に告げる。


「これは不審者じゃない。侵入作戦だ」




【本格戦闘】


無線は、もはや沈黙の連鎖と化していた。

一人。

また一人。
応答が消えていく。
後藤は、端末を見つめたまま動けずにいた。


「……あり得ねぇ」


十三人。
精鋭。
国家最高警護。
それが、音もなく削られていく。
相手は不良外国人でも、単独犯でもない。


(……部隊だ)


背筋に、冷たいものが走る。
その時だった。


「――俺が見てこよう」


低く、しかしはっきりした声。
振り向くと、そこにいたのはグリフォンだった。
人ならざる存在。
だが、今この場で最も信頼できる“戦力”。


「空から偵察する。地上じゃ、もう見えない」


後藤は一瞬ためらったが、すぐに頷く。


「……頼む」


それ以上の言葉は不要だった。
グリフォンは、背中の大きな黒い羽根を広げる。羽根の一部は、まだ完全には癒えていない。年末の戦闘の爪痕。


(……完治じゃねぇな)


だが、彼は歯を食いしばる。


「飛ぶだけなら……問題ねぇ」


次の瞬間。


――羽ばたき。
重い風圧が境内を包み、グリフォンの身体が宙へと浮かぶ。
闇の空へ。
静かに、しかし確実に高度を取っていく。
その動きを、見上げる男がいた。
四国の夜。
照準器の奥。
ルーリッド・ダンケルク。


「……来たか」


呟きに、感情はない。
彼の目に映るのは、
かつての部下であり、
かつての兵器であり、
そして――今や最大の障害。


(生きていたか、グリフォン)


予想はしていた。
だが、実際に見ると別だ。
その存在感は、空気を変える。
空中で、グリフォンも気づいた。
視線。
殺気。


(……いる)


そして、確信に変わる。


「――ルーリッド!」


声が、夜空に響く。


「やはり……お前か!!」


怒りと、憎しみと、裏切りの記憶。
それらすべてを込めた叫び。
ルーリッドは、ただ静かに手を上げた。
それは、迷いのない動作。
攻撃開始の合図。
彼は理解している。
麗と甚大が不在の今、日本側最大の脅威は


――グリフォンただ一人。


だから、手加減はない。


「――撃て」


冷酷な命令。
次の瞬間。
夜空を切り裂く閃光。
放たれたのは、
最新鋭のロシア製ロケットランチャー。
尾を引く炎が、黒翼へと迫る。


同時に――


ダダダダダダッ!!


四方から、銃声。
雨のように降り注ぐ、銃弾の嵐。
曳光弾が、夜空に無数の線を描く。


「――チッ!」


グリフォンは急降下し、翼を畳む。
爆風が、背後を掠める。
衝撃波が、内臓を揺さぶる。


(……本気だな)


一発一発が、対人じゃない。
明確に、“殺す”弾幕。
翼に、衝撃。
羽根が、何枚も散る。


「ぐっ……!」


だが、まだ落ちない。
グリフォンは歯を食いしばり、夜空を翻る。


(落ちるな……!)


下では、神社。
凛がいる。
――ここで墜ちるわけにはいかない。
ルーリッドは、淡々と状況を見ている。


「……いい」


呟く。


「削れ。地に引きずり落とせ」


空と地上。
かつて同じ部隊にいた二人が、今、完全に敵として向かい合う。


この瞬間、
戦いは隠密作戦から――
本格的な武力衝突へと変わった。



爆音。
夜を引き裂く、明確な戦闘音。
凛は、はっと顔を上げた。
胸の奥が、嫌な形で跳ねる。


「……今の……」


遠い空。
閃光。
重なる銃声。


(まさか――)


「グリフォンさん……!」


凛は、考えるより先に身体が動いていた。
社の外へ、グリフォンが飛び去った方向へ。
だが。


「――待ってください」


低く、鋭い声。
次の瞬間、凛の手首が掴まれた。
振り向くと、名取恒一がいた。
穏やかな目は、もうない。
そこにあるのは――剣士の眼。


「行ってはいけません」


凛は思わず声を上げる。


「でも、グリフォンさんが……!」


名取は、凛を真正面から見据える。


「分かっています」


それでも、手は離さない。


「――奴等の狙いは、凛さんです」


その言葉が、凛の動きを止めた。
名取は、静かに、しかしはっきりと続ける。


「グリフォンは“戦力”。凛さんは“目的”です」


凛の喉が、ひくりと鳴る。


「だから」


名取は、凛を自分の背後へ下がらせる。


「僕の側を、離れないでください」


それは命令ではない。
だが、拒否できない重さがあった。
時間が、異様に引き延ばされる。


一秒。
また一秒。
遠くで、爆音。
近くで、足音。
闇が、人の形を取って滲み出す。
境内の影から、ぬっと現れたのは――
黒い装備に身を包んだ、外国の兵士。
銃口が、一直線に凛を捉える。
無線が、短く鳴った。


「――目的発見」


冷たい声。


「コードネーム『不死蝶』、視認」


その瞬間。
名取恒一が、前に出た。
一切の逡巡もなく。


「……」


鞘が、鳴る。


次の瞬間――


ズバッ!!


空気が裂ける音。
名取の日本刀が、横一文字に閃いた。
速すぎて、兵士は反応できない。


首元。
急所。
迷いのない、完成された斬撃。
兵士は声すら上げられず、崩れ落ちた。
血が、夜の地面に吸い込まれる。
静寂。
名取は、刃を振り、血を落とす。
呼吸は乱れていない。


「……来ます」


凛を振り返らずに告げる。


「一人では、終わりません」 


凛は、震えながらも、その背中を見つめる。
今、はっきりと理解した。


この人は――
守るために斬る人間だと。



【剣士の戦い】


「……聞きましたか、隊長」 


銃声と爆発音が遠くで重なる中、ミラは静かに告げた。


彼女の目は閉じられている。


だが、意識は戦場の“裏側”をなぞっていた。


「通信が途切れた地点……そこです」 


ミラの能力は、異形の力を感じ取ること。
歪み。
違和感。
人ならざる“重さ”。
そして、この一帯でそれを持つ存在は――


「木原凛、ただ一人」


断定だった。
ミラは目を開き、指先で地図をなぞる。


「ここ。通信遮断地点と、感知反応が一致します」


ルーリッドは一瞬も迷わなかった。


「……よし」


即断。


「他の者は、引き続きグリフォンを攻撃しろ」


無線に、冷たい命令が流れる。


「グリフォンはお前達に任せる」

(目的は、凛だ)


ルーリッドは、ミラを見る。


「行くぞ」


「はい」


二人は、影のように走り出した。
その動きを、空から捉えた存在がいた。


グリフォンだ。


「逃げるか!ルーリッド!俺はここだ!」


翼を翻し、追おうとした瞬間――


ダダダダダッ!!
四方から、再び銃弾の嵐。
空間が、鉛で埋め尽くされる。


「――くっ!」


回避。
急旋回。
だが、身体が言うことをきかない。
年末の戦闘で負った傷。
癒えきらぬ肉体。
そこへ、直撃。
翼。
脇腹。
背中。


「がっ……!」


視界が、揺れる。


(……死なねぇのが、不思議なくらいだな……)


自嘲気味に、そう思う。
それでも、落ちない。
落ちるわけにはいかない。


下には――
凛がいる。


「……凛!!」


喉が裂けるほど、叫ぶ。
だが。
爆音。
銃声。
風切り音。
すべてが、その声をかき消す。
凛には、届かない。
グリフォンは歯を食いしばる。


(……追わせてたまるか)


だが、弾幕がそれを許さない。
彼は、空中で強引に方向を変え、
地上へと降下する。
追撃を避けるため。


そして――
まだ、戦うため。



一方。
夜の闇を切り裂き、
ルーリッドとミラは凛の元へと近づいていた。
ミラの表情が、わずかに変わる。


「……近いです」


ルーリッドの目が、細くなる。


「……ああ」


彼の脳裏には、すでに次の段階が描かれている。


交戦。
制圧。
確保。
感情は、必要ない。


(君を連れていく、木原凛)


それが、王子を救う唯一の手段なのだから。
同じ夜空の下。
叫ぶ者と、奪いに行く者。
守る者と、追われる者。
それぞれの想いは、まだ――交わらない。
だが、距離はもう、僅かだった。



最初に凛を視認したのは、ルーリッドだった。
境内の灯り。
守るように立つ一人の男。


――名取恒一。


一見すれば、ただの若い剣士。
だが、ルーリッドの背筋に即座に警鐘が走った。


(……危険だ)


理由は、理屈ではない。
戦場を生き抜いてきた者だけが持つ直感。


「ミラ、下がれ」


短く告げ、機関銃に手をかける。
引き金に指が――


その瞬間。
キンッ!!


金属が断ち切られる乾いた音。
ルーリッドの視界で、機関銃の銃身が、斜めに落ちた。


「……!」


速い。
あまりにも。
名取恒一は、すでに間合いの内にいた。
刀は、振り抜かれた後。
躊躇も、助走もない。


(銃を……斬った?)


ミラが、一瞬だけ動揺する。


あり得ない。
だが、現実だ。
ルーリッドは一歩も退かない。
表情すら、変わらない。


「……なるほど」


静かに息を吐く。


「剣士か」


ならば。

彼は、背負っていた長剣を引き抜いた。
秘剣――キングダムソード。
西洋剣としては異様なほど細身で、
刃には幾重もの刻印。
王国の秘術と血を重ねて鍛えられた、“国家そのもの”を象徴する剣。


「相手にとって、不足はない」


ルーリッドは、剣を構える。
名取も、刀を構え直す。
二人の戦場の向こう側に、凛がいる。


だが、今この瞬間――


彼女の存在は、世界から切り離された。
剣士同士の、領域。


最初に動いたのは、ルーリッド。
踏み込み。
一直線の突き。
速い。
重い。
殺すためだけの剣。


だが――
名取は、半歩ずらした。
刃が、紙一重で頬を掠める。
次の瞬間。
カンッ!!
刀が、キングダムソードの腹を叩く。
衝撃が、互いの腕に走る。


(……重い)


名取は即座に理解する。

この剣は、技ではなく――国家の重みを乗せている。


ルーリッドは、驚かない。
剣を返し、横薙ぎ。
名取は跳ぶ。
空中で体を捻り、着地と同時に斬り返す。
火花。
刃と刃が、夜を裂く。
西洋剣術。
東洋剣術。
力で押し潰す剣。
理で斬り落とす剣。


「……いい剣だ」


ルーリッドが、初めて言葉を発した。


「だが、甘い」


踏み込み、連撃。
重い一撃一撃が、名取を押す。
名取は後退しながらも、呼吸を乱さない。


「……あなたも」


低く答える。


「剣を、信じている」


次の瞬間。
名取の刀が、軌道を消した。


見えない。
否――
見せない剣。
ルーリッドの目が、わずかに見開かれる。 


(――これは)


ガンッ!!
肩口で、刃が弾かれる。
致命傷ではない。
だが、確実に“通された”。
ミラが息を呑む。


「……隊長……!」


「黙れ」


ルーリッドは、笑う。
ほんの、僅かに。


「……いい」


血が、服を染める。


「久しぶりだ。剣で“殺されかける”のは」


二人の剣士が、再び構える。
夜の境内で、世界は今、二つの剣だけで成り立っていた。


凛は、ただ息を呑み、
その背中を見つめる。


名取恒一。
守るために立つ剣。
そして――
ルーリッド・ダンケルク。
奪うために振るう剣。

【ミラ】


それは、まだ潜水艦が動き出す前。
艦内は静かで、出撃前特有の緊張だけが漂っていた。
ミラは、壁にもたれながら
装備を最終確認しているルーリッドを見つめていた。


「……隊長」


彼女は、少しだけ躊躇してから口を開く。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


ルーリッドは、手を止めずに答える。


「許可する」


「なぜ、そこまで木原凛を欲しがるのですか」


ミラの声は、静かだった。


「成功確率は高くない。それは、隊長自身が一番理解しているはずです」


ルーリッドは、装備を締め終えると、ようやくミラの方を見た。


その目は、冷静で、揺れていない。


「……理由は単純だ」


短く答える。


「私は、ルミラテンシュタイン王国の兵士だ」


それ以上でも、それ以下でもない。


「王子の命を救える可能性があるなら、命を投げ出すのは当然だ」


まるで、疑問自体が理解できないかのように。
ミラは、思わず肩をすくめる。


「……呆れますね」


ため息混じりの言葉。


「国のため、王子のため。そんな理由で、ここまでやるなんて」


だが、その表情に本当の軽蔑はなかった。
むしろ――


「……でも」


ミラは、視線を逸らす。


「隊長がそういう人だってことは、最初から分かっていました」


ルーリッドは、何も言わない。
ただ、黙って聞いている。


「計算より先に、覚悟を選ぶ」


ミラは、微かに笑う。


「……馬鹿ですよね」


だが、その声は柔らかい。


「でも」


一歩、近づく。


「そんなルーリッドだからこそ……私は、ついてきたんです」


ルーリッドの表情が、ほんの僅かに動く。
驚きでも、照れでもない。
ただ、理解。


「私一人なら、命を賭ける価値なんて考えません」


ミラは、まっすぐに言う。


「でも、あなたと一緒なら――賭ける価値は、あります」


それは告白でも、忠誠でもない。
選択だった。


ルーリッドは、しばらく沈黙した後、
低く答える。


「……感謝する」


それ以上の言葉は、彼には不要だった。
潜水艦の出航を告げるアラートが鳴る。
二人は、それぞれの持ち場へ向かう。
やがて、艦は静かに沈み始めた。
深海へ。
戻れない賭けへ。
ミラは、心の中で呟く。


(……あなたとなら)


(どんな結果でも、後悔しない)


その想いが、今、凛を封じる決断へと繋がっている。


名取恒一とルーリッドの戦闘は続いている。しかし、ミラは戦闘の結果を待つつもりは無い。


ミラにはやるべき事が――


ミラの術式が、完全に展開されていく。
淡い光の紋様が、凛の足元から立ち上り、螺旋を描くように空間を満たしていく。


凛は、その中心に立ったまま――動けなかった。


(……避けなきゃ)


頭では、分かっている。
本来の凛なら、この程度の結界術式は、一歩で間合いを外し、あるいは力でねじ伏せられた。


だが。


(お兄ちゃんが……いない)


木原耕平がいない。
凛の力を“人の形”に留めてくれる、
唯一の存在が。
力を使えば、壊れる。
使わなければ、捕まる。
その狭間で、凛の意識は躊躇に縛られた。


(……私は……)


怖い。
人でなくなるのが。
戻れなくなるのが。
その一瞬の迷いを、
術式は逃さない。
渦巻く光が、凛の周囲を取り囲む。


「……っ!」


空気が、固まる。
外界との感覚が、遮断されていく。
結界、完成。
凛は、透明な壁の内側に閉じ込められた。


「しまった……!」


名取恒一が、初めて声を荒げる。
凛を振り返った、その一瞬。
意識が、戦場から逸れた。


それを――
ルーリッド・ダンケルクは、見逃さない。


(今だ)


踏み込み。
ためらいはない。
キングダムソードが、
一直線に振り抜かれる。
重い衝撃。
次の瞬間、
恒一の身体が大きく揺れた。


「――っ……!」


刃が、深く入る。
守りの構えでは、間に合わなかった。
致命的な一撃。
恒一は、数歩よろめき、
それでも倒れずに立とうとする。


だが――
血が、静かに地面へ落ちた。
呼吸が、乱れる。


「名取さん!」


振り返る。
結界の向こうにいる凛と、目が合う。


「……大丈夫、です」


それは、剣士としてではない。
一人の人間としての言葉だった。
ルーリッドは、剣を構え直す。


「……見事だ」


それは、敵への敬意。


「だが、ここまでだ」


ミラは、結界の維持に集中している。
凛は、叫ぼうとする。


だが、声は――
結界に遮られ、外へ届かない。


奪取作戦は――成功の目前にあった。


――その瞬間まで、ルーリッドは完全な勝利を疑っていなかった。


グリフォンは、地に伏し、もはや動かない。
致命傷を負った東洋の剣士も、戦線から脱落した。日本側の警官、警護要員――生存反応は、ほぼ消失。


(終わった)


何百、何千と繰り返したシミュレーション。
成功率一桁台の作戦。
その中で、最も理想的な分岐が、今、現実になっている。
部下たちが次々と集まってくる。


「隊長!」 「制圧完了です」 「周辺、完全に沈黙しました」


ルーリッドは、ゆっくりと視線を凛へ向けた。


――これが、不死蝶。


ミラの術式に拘束され、
光の枠の中に立つ少女。
小柄で、華奢で、とても“国家を揺るがす存在”には見えない。


「……これが」


低く、確かめるように呟く。


「この少女が、王子を救う力か」


ミラが、一歩踏み出す。
そして、また一歩。
術式は安定している。
凛は、もう抵抗していない。
ミラの顔に、安堵が浮かんだ。


(成功した……)


心臓の奥に溜まっていた緊張が、
ゆっくりと溶けていく。 


(国に帰ったら……)


この戦争のような任務が終わったら。
ルーリッドと共に、静かな場所で、生きよう。

そう――思った、その刹那。

音がした。
ぱきり、というあまりにも軽い、乾いた音。


次の瞬間。
ミラの視界が、上下にずれた。
理解が、追いつかない。
自分の身体が、
なぜか下にある。
赤い霧が舞い、世界が、回転する。
ミラの首から上が、宙を舞った。


――斬撃ではない。
――銃でもない。


凛の手刀は、誰の目にも負えない速度であった。

兵士たちは、言葉を失う。
ルーリッドの瞳が、見開かれた。


結界が――消えている。
そこに立っていたのは、
もう、“木原凛という少女”ではなかった。


背後に、黒い影が揺らめく。
無数の、蝶の羽音。
夜よりも深い闇が、
人の形を成している。
顔立ちは、確かに凛のものだ。


だが、その瞳は――
人間の光を、宿していない。


「……あ、……」


兵士の一人が、震えた声を漏らす。
目の前に立つ存在。
それは、木原凛だった少女の面影を残した、不死蝶の化身。


「ミラァ!!」


ルーリッドの叫びが、虚しく戦場に響き渡る。

 


【覚醒】


不死蝶の化身となった凛の背後で、闇色の羽根が大きく脈動した。
羽ばたきではない。ただ“存在する”だけで、周囲の空間が軋み、兵士たちの呼吸が乱れる。


「ば、化け物……」


誰かがそう呟いた瞬間だった。
凛の姿が、掻き消える。
次の刹那、兵士の背後に“現れていた”。
首が、腕が、胴が――音もなく分断される。血が噴き出すより早く、肉体は黒い蝶の鱗粉に呑まれ、消失していく。


銃声が響く。
しかし弾丸は凛に触れる前に砕け、刃のような鱗粉となって周囲に散った。その鱗粉に触れた兵士は、悲鳴を上げる暇すらなく崩れ落ちる。


「落ち着け!隊形を保て!!」


ルーリッドは叫び、剣を構え直す。
キングダムソードに王国秘伝の術式を最大出力で展開する。剣身が眩い光を放ち、対異形戦を想定した“最後の一撃”。


――だが。
凛は、避けなかった。
剣は確かに凛の身体を貫いた。
しかし次の瞬間、剣身を中心に凛の肉体が“ほどける”ように分解し、無数の黒蝶へと変わる。


「な……っ」


蝶は再び集まり、凛の姿を形作る。
そこには傷一つない、不死蝶の化身。
凛は首を傾げ、楽しげに微笑んだ。


「――――」


言葉にならない声。
それは笑いであり、悲鳴であり、祝福だった。
その瞬間、凛の背後に巨大な蝶の幻影が広がる。


夜空を覆い尽くすほどの、不死蝶の本体。
兵士たちは悟った。
これは戦いではない。処刑ですらない。


災厄だ。


次々と命が刈り取られ、最後に残ったのは、血と沈黙、そして――


剣を握ったまま、立ち尽くすルーリッド・ダンケルク。


「……これが、不死蝶……」


誇りも忠誠も、王子を救うという信念すら、この光景の前では色褪せていく。


凛は、ゆっくりとルーリッドに歩み寄る。
金色に輝く瞳が、まっすぐに彼を射抜いた。
もはやそこに、少女・木原凛はいない。
人を救う理由も、守る理由も、失われている。


あるのはただ――
終わらぬ死を与える存在。
不死蝶は、最後の獲物を前に、羽根を大きく広げた。


【終局】


京都、神代一族が主催する儀式とお披露目が終わったのは、すでに深夜に差しかかっていた。
広間には、つい先ほどまで張り詰めていた緊張の名残がまだ漂っている。


結界の残光が空気に淡く滲み、燭台の火だけが静かに揺れていた。


「……さすがは、本家の姫君だ」 


「若くして、あの完成度とは」


 「次代は安泰だな」


抑えた声で交わされる賛辞が、障子の向こうから微かに聞こえてくる。
麗の評判は上々――いや、それ以上だった。


儀式において披露された術式は正確無比。
力を誇示することなく、しかし一切の隙もない構成。
神代の血を正統に継ぐ者として、誰一人異を唱える者はいなかった。
お披露目は、成功だった。


だが――
部屋へ戻る廊下を歩く麗の背は、わずかに揺れていた。
華やかな場で見せていた凛とした表情は影を潜め、肩から力が抜けている。
足取りは重く、草履が畳を擦る音だけが、やけに大きく響いた。


(……終わった、のね)


そう思った瞬間、張り詰めていた糸が切れたかのように、全身に疲労が押し寄せる。


大晦日の戦闘。
年明けから続く緊張。
そして今夜の儀式。
心も身体も、限界に近かった。  


部屋に入り、障子を閉める。
そのまま柱に手をつき、深く息を吐いた。


「……凛……」


無意識に零れた名。
四国に残してきた、あの少女。
嫌な胸騒ぎが、儀式の最中から消えなかった。
着物の袖を握りしめた、その時だった。


――控えめな、しかし迷いのないノック。


「麗」


父の声。
そして、もう一人の気配。
障子が開いた瞬間、麗は悟った。

二人の表情から、これがただ事ではないと。
血の気の失せた父の顔。


歯を食いしばり、怒りと悔恨を押し殺す甚大。


深夜。
障子越しに差し込む灯りが、静まり返った部屋を淡く照らしていた。


麗は畳に座り、帯を緩めることも忘れたまま、父と甚大の言葉を聞いていた。


耳に入ってくる一つ一つの情報が、現実感を伴わず、胸の奥に重く沈んでいく。


四国。
甚大の神社。
襲撃。
多数の警官の死亡。
外国人部隊。
そして


――遺体は全て壊滅状態。


「……獣、ですか」


震えを抑えながら、麗はそう口にした。


「いや……獣という言葉すら、正確ではない」


父は低く、絞り出すように言う。


「まるで“何か”が、怒りに任せて引き裂いたような痕跡だ。理性も目的もなく、ただ……壊すために」


甚大は何も言わず、拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込み、血が滲んでいることにも気づいていない。


「……グリフォンは?」


「生きてはいる。しかし……」


甚大は首を横に振る。


「心を閉ざしている。問いかけても、こちらを見ない。まるで――自分が見たものを、二度と思い出したくないかのようだ」


その沈黙が、何よりも雄弁だった。
麗の喉が、ひくりと鳴る。


「……凛は」


その名を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。


父は、わずかに目を伏せる。


「――行方不明だ」


その一言で、麗の中の何かが、音を立てて崩れ落ちた。


(間に合わなかった……)


自分が東京へ戻り、儀式に出るという“役目”を優先した結果。


四国に、凛を残した結果。


「……不死蝶」


ぽつりと、麗は呟く。

 

誰も否定しなかった。


「もし凛が――もし、不死蝶が顕現したのだとすれば……」


「不確かな事は口にするな」


父が麗の言葉を遮る。


可能性は2つ


凛は外国人部隊に連れ去られたか、外国人を壊滅させたのか。



――耕平。
その頃、四国の病院。
白い天井の下で、耕平は静かに眠っていた。
点滴の音だけが、規則正しく響く病室。


彼は何も知らない。
凛が連れ去られたことも。
神社が血に染まったことも。 


そして――
自分の妹が、
人ではない何かへと堕ちたかもしれないことも。


夢の中で、耕平は誰かの名を呼んでいた。


「……凛……」


その声は、誰にも届かない。