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YAVIUNKO

世界と自分のアナロジー

地元は福岡だが一口に福岡といっても地域によって全然違う。住んでる場所は比較的田舎のベッドタウン的な場所だった。
福岡に住んでてよかったのは、飯が一番。
正直他の土地の料理にそんな惹かれない。
福岡住んでてよかったと思う。

あとちょうど良い都会感と田舎感。
東京やらにはかなわんが、遊ぶにも食べるにも飲むにも買うにも困らん場所に20分以内に行けるし、海にも1時間くらいで行けるし、山なんかすぐだし。九州旅行も行きやすいし。
治安が悪いところにさえ行かなければ楽しく過ごせる。

京都も悪くないけど、家族で暮らすのは向かないかも。生活の選択肢の少なさがネック。

大阪や東京は臭いしゴミゴミしてるからあまり好きではない。

名古屋はなんかあんまし惹かれない。方言が微妙なせいか?

福岡のよさを一言で言うなら「ちょうど良い」

博多弁も好評だしね。

アジアに近いから旅行客が少しうざいけど、まあそんくらいか。逆に言えば旅行しやすいし。空港まで車で10分くらいだし。

他の土地に住んでたら自分は今の自分ではないな!
昨日は親戚と焼き鳥たべた。
おば、おば、おばあちゃん、いとこ、はは、いもうと、いもうと、めい。全員女。
ものすごく居心地悪かった。
女ばっかで育ったから、女性に幻想持ってなくていいね、とか色々言われた。
あと、みんな頭悪いので、悲しいけどまともな会話にならない。残念。でもみんな楽しそうで何より。よかった。

今日は友人とひらやまのおみせ。
ひらやま愛嬌ある良い子でした。久しぶりに会ったやつらとのアホなわいだんも楽しかった。
就職やらでみんな人生の岐路に立ってることを再確認。めんどくさい。
そのあとはビールをいっぱい違うとこで飲んで解散。健全。

目の前の彼氏がすごく爽やかで、彼女も性格良さそう。応援したくなるカップル。

福岡のがオシャレな人多いね。

福岡帰ってもすることないし、さっさ京都戻りたい。
メンヘラはネットスラングで、正確に定義されているわけではないけど、一言で言えば「構ってちゃんが行き過ぎたとこ」とかそんな感じのイメージ。
最近はやりの他人から自分への承認欲求が凄く強いってことでしょう。
自己愛が欠如しているから他人からの愛ととれる行為/好意を欲してやまない、と。

チームスポーツって、勝利という一つの目標のために試合を戦うけど、その最中って味方を基本的に信頼しないと勝てないんだよね。お互い本気だったら。「スペースあるしお前が1on1したら点取れるかも」「お前がここで良いパスくれたら俺で点取れるかも」みたいな。
DFだったら「相手めっちゃキレるから、一人で止めようとせず、どっちかに流して後ろにカバーきてもらおう」「俺のマークマンは他の人がカバーしてくれるから俺はスライド飛ぼう」
そーいう細かい瞬間的な承認しあいが、真面目にスポーツしてたらあると思うので、
メンヘラ気質の人は本気でスポーツしたら少しはメンヘラ度も減ると思います。
ストレスも減るし。
逆に言えばスポーツ中にメンヘラ気質発揮しちゃう人はまだそこまで必死じゃないのではと思います。


ものすごく眠いです今。やばいです。どうしよう寝ようかな。

依存については結構前から考えていたので、書きやすいというか、考えがまとまっている。
環境ってのは一言でいうと、共依存の概念で説明できると思う。
共依存ってのは、誰かに依存してる人と、依存されることに依存してる人の関係性です。
つまり、依存を誘発する環境ってのは、依存されることに依存したい人のこと。
自己愛の未熟な人がなりやすいらしい。
承認欲求って概念とも関係してるか。結構最近出てきた単語だ。でもそんな新しいことは言ってないので割愛。
結局のところ自己愛の欠如を他人からの行為/好意で補うってことを短くした単語。


引用(cafe-counseling.com/knowledge/seikaku/renaiizon/post-6.html)

(

恋愛依存症者は次のことを学ぶ必要があります。

常に相手からの温かい態度を期待するのは無理
相手に完璧を期待するのは無理
相手に面倒をみてもらおうとするのは無理
親密さは相手からの束縛や侵入とは違う
相手の面倒をみることは、あなたの仕事ではない
助けを必要としている相手なら自分が主導権を握れると思うのは間違い
相手が弱いからといって、自分より劣っているわけではない

エリック・バーン博士の交流分析という論理の中に、人生脚本という理論があります。

自分の人生プランは5~6才のころ筋書きを書き、15才になるころにはその役割を演じているといいます。
しかし、幼かった頃の筋書きに、大人になった今も縛られる必要はありません。
自分の脚本に気が付いたのならば、子供時代の傷ついた思い出や、トラウマと向き合い、それらが自分にどんな影響を与えてきたのかを考えていきましょう。

)


弱い人間に強い人間が引っ張られている訳ではなく、類は友を呼ぶということでしょう。
依存されてる側にも問題があり、依存してる側にも問題はあり、
どちらかが成長しようとすると、その関係は崩れることが多いでしょう。
そんな感じだと思いまっす。

他に依存のことを考える概念あんまし知らないのでむしろ教えて欲しい。
義足の陸上選手がヨーロッパのある大会で優勝したことが話題になった。
より上の大会への切符を賭けた場だったらしく、その出場権に関する議論が起こった。
彼の義足が跳躍力を大幅に上げているという疑念が持ち上がり、
国の陸上競技連盟が、その選手の派遣を認めなかったのだ。

さて、こういった話はいつか出てくるだろうなと思っていたが、案外早かった。
従来の義体は健常者に近づけるという目的があるために、それをつけた人間の能力は一般人の範疇であった。
しかし、技術的にはそれ以上の能力を有することも可能だったということらしい。勝手にもっと先の話だと思っていたが、認識が間違っていたらしい。

問題は一義的ではないので、議論するのが難しい。
義体がただの道具であるとするなら、スパイクやスイムスーツ等と同じく、一定のルールのもとで、より身体を高める方向に進化していくだろう。そうでなければ、どこで線を引くかという話になる。
この話は今後も絶対に何度も出てくる。義体は近未来の科学技術の、大きな一角だからだ。

僕としては、ゲームに関連付けた義体の話を少し書いていて、タイムリーだなと。
近い将来、e-SPORTはより盛んになり、キーボードとマウスだけでなく、よりゲームの世界に使える感覚を増やす方向に進化すると思う。例えば、専用の器具を使って自分の身体を数値化して、全身が入るような機械の中で、ゲームの世界に入り込んだかのように、身体全体を使ってゲームができるようになると思う。
プロゲーマーは、身体を鍛え、日夜練習して連携を高めて、大会での優勝を目指し、その賞金と様々な企業の広告塔として活動することで生活するだろう。
その世界で問題になるのは、ゲーム上のチートではなく、身体的なチートである義体だ。
義体を使ってゲームの世界で圧倒的身体能力を獲得するのは果たして許されるのか否か。
みたいな。e-SPORTを真っ向から描いた作品って少ないと思うし、ゲームにのめりこむ青春的な話を主流に、義体の話とかも盛り込んで、ミステリ調に書いたら結構面白くなるんじゃないかなーとか。
どうも、ふとっちょ豚です。
眠れないので思い出のマーニーの感想書きます。
けっこーおもろかったです。

特に興味深かったのはミステリー的構造。叙述トリック。

まーにーは幽霊か妄想か
妄想ならなぜアンナはマーニーのことを知っていたのか
という二つの謎が主だと思います。

それに関する伏線も張られていて、好印象。伏線を確認するために2度観る価値はありそう。

マーニーが今まであった中で一番好きな女の子、というのは、他人から愛され、他人を愛することによって獲得できる自己愛の象徴ですね。
アンナの成長とは、まさにここ。

以下ネタバレ。

愛されていた経験を思い出すことで、自分を愛することが出来るようになり、それで社会にコミット出来るようになった、ということ。
前回書いた、日常/非日常のフレームで考えることもできると思います。日常で解けない問題は、非日常によって解決できる。

この物語で出てくる、好きって言葉、別に同性愛じゃなくて自己愛、承認欲求なんだよね。
あくまでマーニーはアンナの頭の中に居たんだから、マーニーがしたことはアンナがして欲しかったこと。絵を褒めてもらいたい、誰かに愛されたい、無条件に認めてもらいたい。
再度書くけど、アンナがマーニーを想像できたのは、マーニーが昔アンナを愛して、小さい頃の話をおとぎ話として聞かせていたから。

つまり、ミステリーの解決編としては

第一幕
マーニーは誰か→アンナの妄想
なぜマーニーの幼い頃の話をアンナが知っていたか→ マーニーの日記を読んでいたから。だから日記を書いてない日にはマーニーは出てこない(初めて屋敷に行ったときに日記発見→マーニー出現。もちろん記憶は都合良く変わっている)

しかし途中で、アンナが日記では破られていた場面(サイロのはなし)まで知っていることを観客は理解する。ここで第二幕。

第二幕
なぜ日記にはなかったことまでアンナは知っていたのか、やはりマーニーは幽霊か?
→マーニーはアンナのお婆ちゃんで、昔にマーニーから小さい頃の話を聞いていたから知っていた。
なぜアンナはマーニーの小さい頃の姿を知っていたのか→マーニーは読み聞かせをするときにマーニー似の人形を与えていて、それを使って話していたと推測され、その時の記憶から?

という2段構造。
伏線としては、アンナの目の色、アンナが小さい頃持っていたマーニー似の人形、船が常にこちら岸にあったこと、アンナが療養先の家を思い出そうとするとマーニーが消えたこと、マーニーの頬の色、サイロにあった男物のコート、サイロでマーニーがカズヒコと呼んだことなどなど。

解決編はやや急ぎ足で、整合性をとるために父母の事故など色々説明が多かったが、許容範囲かな。

なぜアンナがマーニーの姿を知っていたのか、に関してはまだ考える必要がありそう。
もしくは第三幕の可能性。

第三幕
なぜアンナがマーニーの姿を知っていたのか→やはりマーニーは幽霊で、幼い頃のエピソードとしてのみ存在でき、どうにかしてアンナを輪の内側へ戻そうとした。

という大どんでん返しの可能性も否定は出来ないかも。弱いと思うけど。

観客に委ねます、というスタンスだろうなあ。どちらを選ぶにせよ、マーニーの愛を感じたアンナの成長、という構造は変わらず。

この解釈、結構自信あります。

そんなとこです。そろそろ寝よう。
愛されてた経験は強い。羨ましい。俺がこんだけ自己愛、自己評価が歪んでるのは愛されてこなかったせいなのかもしれないとはおもう。(あれ、愛されてこなかったっけ……?)
処方箋は、他人からの愛、ですかねぇ。
徒然なるままに書くと暗い話ばかりになるので、意図して明るい話を書こう。

『娘の家出』1巻を読んだ。

主題は題名にもあるように、思春期の「娘」の「家出」。ものすごいシンプルで過不足ないタイトル。

思春期の娘には様々な難題が降りかかってくる。
親の離婚、親の再婚、年上の男との不倫、などなど。
普通の女の子には、それら非日常な問題は家という日常では解決できないものなので、「家出」という非日常で解決しなくてはならない。

でもその非日常は、日常性の維持の上で成り立っているので、直ぐに彼女らは家出をやめて家に帰る。
そうしなければ、「家出」は非日常性が失われてしまい、ただの辛い放浪になってしまう。
例え数時間であろうと、「家出」したという非日常を乗り越えた経験こそが彼女らには必要だったのだ。
その経験が、非日常が解決可能であることを教えてくれる。
逆説的に、「家出」をすることの目的は「家に帰ること」によって達成される。
家出後の「運命は待つものじゃない 自分の手で切り開くこと」という回顧は、日常の中では得られなかっただろう。まさに、この文章こそ、この物語の主題だ。

この巻のなかには、ただ一人、駆け落ちという「家出」をしてしまう娘がいる。
それは非日常に身を投じるのではなく、新しい日常への移行だ。
その娘の抱える問題は、親の過保護という日常的なものであり、それは非日常では解決できなかったのだろう。
そして彼女には新しい日常へ移行する力があったので、駆け落ちという選択肢を取ることが出来た。
その物語では、ストーリーテラーである別の女の子が駆け落ちを羨ましがって終わるのも、一般人の目線に立っていて良い。

普通の女の子には、そんなこと出来ないよね、ちょっとした非日常でなんとか気持ちをやりくりするしかないよね、というメッセージがあるような気がする。

デブ専だとか、ゲイカップルだとかはエッセンスにすぎないので、あまり気にしなくて良い。

まあまあ面白いし、ぜひ思春期の女の子、そして、思春期の女の子に接するであろう男の子たちに読んでもらいたい。だからこそこの物語は『ジャンプ改』という雑誌で連載されているんだろう。
『ジャンプ改』のキャッチフレーズは「大切なことは、いつもマンガが教えてくれる」。
まさに。

おわり。
4年間部活しててどんだけしょぼいプレイしてもここまで自分にイラつきはせーへんかったやろうなって思う。
目標がなくなったせいか、心を乱されることが本当に多い。もしくは今まで運良く巡り会えていた、頼れる人が今いないせいかもしれない。

最近の癒しはグラウンドに行って部員と話すこと。って書いて気付いたが、癒しが欲しいんやなーと。
癒しなど卑しい考えやと昔の俺なら言ってるんやろう。
おっさんがキャバクラ行く理由、少し分かった気がする。

こんな文章書いてる時点でお察しですわ。
あー恥ずかし。
利害関係のない人のいうことは、素直に信じる方が理に適ってる。
では利害関係にある人のいうことをどう信じるのが正解なのか。

まず、相手が嘘をついてるかを見抜こうとすべきだと思う。
それで見抜けなくても、どの程度の信ぴょう性があるかの判断ができる。
次に、そうやって判断した、
・嘘をついている/ついてない可能性
・嘘をついた/ついてない時の相手の利益
・信じた/信じない時の自分の利益
を判断して一番期待値が高い行動を選ぶのが良いのではないか。
相手が嘘をついた時の利益が大きければ大きいほど、信じない時の自分の利益も大きくなるのがやっかい。

そういう理屈で考えると、自分とあまり深い関係ではない、利害関係になりにくい人の方が信じやすい。
深い関係になっちゃうと、その分相手が嘘をついた時の利益が増えるし、信じた時の利益は減ると思うんだよね。
そこらへん、ジレンマよね。
トレーナーのことが今日話題の一端を担ったので、それについて書こう。
怪我が多かった俺はトレーナーに感謝しっぱなしだったし、親しい人が多かった。マネージャーより思い入れがある。

知り合いでトレーナーって職業についた人は少ないけど、数少ないトレーナー、アイスホッケーの代表チームに帯同した人の話聞いてたり、同期トレーナーからプロトレーナーの話聞いてると、結局のところ、知識とか技術なんてプレーヤー側はあんま分かんないし、信用できるか、ってとこが一番大事なんやなと思う。

整骨院行っても下手な人は痛いだけだし、全く治った気がしない人いるし、整形外科行ってもものすごい誤診する人はいるし、それで金稼いでるからといって信用できない。

だから話して信用できそうかがポイントになってくるんだろうけど、それをトレーナー側も分かってて、信用されようと自信たっぷりな振る舞いするし、親身な素振りもする。でもそういう人らの文章からは胡散臭さが漂ってくる。

どんだけすごかろうが、その胡散臭さが信用できない理由。
金儲けのために人集めなきゃいけないし、仕方ないんだろうけどね。
結局部活のトレーナーが一番信用できたなあ。

ていうかやっぱコンサル風の胡散臭さのせいか。
マッサージやストレッチに興味あるし、トレーナー自体は好きだもん。