YAVIUNKO

YAVIUNKO

世界と自分のアナロジー

Amebaでブログを始めよう!
何になりたいのかと聞かれたら小説家になりたいなあと思う。

何になれるのかと聞かれたら何にでもなれるんじゃないかと思う。

では何になるかと聞かれたら何になればいいんだろうと悩んでしまう。



人生の指針とは何ぞや。
「人生イージーモード」という言葉を、正確には覚えていないが高校生の頃から使い出したと思う。
座右の銘は何かと聞かれたら、本当のことを言えばこの言葉を言いたい。しかし、人受けが良くない気がして適当にお茶を濁すことが多い。

「人生イージーモード」とは何か説明したい。
一般的にネットで言われている意味では、金持ちや美人が人生そんな苦労せずに生きていけるんだろう、という妬みや憧れから発されている。
つまり、彼らの人生の困難さは、ゲームで言えば簡単にクリアできるよう調整されたイージーモード程度だ、ということだ。そういう意味に捉えられては、座右の銘として答えずらい。
確かにこの言い分は分かる。しかし、僕は少し違った意味を付加したい。
なぜなら、この言葉は、そんな単純な意味で語るには勿体無いくらい響きが良いと思うからだ。

「人生イージーモード」。
この言葉に込められた前提を確認すれば、僕が言葉の意味をどう広げようとしているのか、理解する助けになるだろう。
まず、イージーモードとはゲームの難易度のことなので、人生がゲームに例えられるということが前提になっているのが分かる。
次に、恵まれた人間の人生にも困難があることを前提にしているだろう。
なぜなら彼らの人生に困難がないと思っていたら、イージーモードではなく、チートやゴッドモードという言葉で例えられているだろうからだ。

さて、この二点を基に、僕が「人生イージーモード」という言葉を拡張して用いていることを示したい。

人生はゲームに例えられる。では、ゲームの必要条件はなんだろう、と考える。
単純に言えば、守るべきルールがあり、それに従いながらゴールを目指す、そして、ゴールは例えどんなに可能性が低かろうと達成可能である、ものがゲームなのだと僕は認識している。
どんな人生でも、生きているうちは続くというルールがある。どんな人生でも、目標を設定して、どんなに可能性が低かろうとそれを叶えることはできる。
そうことを、僕は「人生イージーモード」という言葉の意味に含めたい。

そして、こちらが本当に伝えたい意味なのだけれど、親の裕福さや遺伝子配列に関係なく、誰でも人生はイージーモードなのだということを、僕は言いたい。
どんな人生にも困難はあり、大きな困難も、小さな困難もあり、更に幾つもある。
そして、人生はイージーモードなのだから、その困難は自分で乗り越えることが出来るはずだと信じたい。
そう信じて、何度も呟くことで、本当にイージーモードなんだと思った方が、ゲームはクリアしやすいはずである。
これがベリーハードだと思っていたら、やる気をなくしてしまうだろう。
なんで俺はこんな難易度の高いゲームをしなくちゃならないんだ、設定を変えるには初めからやり直すしかないじゃないか、という風に。
人生というゲームはリセットが効かない。
自殺をしたり、何のやる気も起きずに堕落しきるのは、自らの人生の難易度を高く見積もっているからなのではないだろうか。

理想論かもしれないが、僕は以上の理由から、「人生イージーモード」という言葉をこれからも伝えていきたい。
人生はゲームであり、ゲームとは、ルールを守った方が面白く、困難は必ず乗り越えることが出来るように作られていて、クリアすると達成感がある。
だからこそ熱狂してプレイした方が絶対に楽しい。
そういうことを僕は言いたい。

おわり。

忙しいとどうしても書く時間が減ってしまう。
でもまあ、ESを書く練習とかしだすと思うし、今何でもいいから文章を書いてるのはそれにつながったらいいなあ。

アランの幸福論という本をちまちま読んでるが、これがなかなか面白い。
無数の短いエッセイで構成されており、今読んだ部分で言うと、感情とは身体的な所に原因があって、例えばイライラしてるのはお腹減ってるからだとか、そういうところに問題があるのであって、仕方ないのだということが書かれている。
悲しんでる人、恐怖を感じている人、不安がっている人に論理的に何かを説いたところで無駄であり、やり過ごすことを覚えるべきだと。

引用すると、「悲しみは病気にほかならず、だからこそあれこれ理屈や理由なぞ考えずに、病気としてがまんしなければならない」「道理を立てたがっているのは、おれの肉体だ。胃袋の意見とでもいったものだ」とまあ、ちょっと読んだだけでもこんな感じ。

しかしこの悲しみ論は弱者の戦略と言ってもいいかもしれない。
感情は仕方がないから耐え忍べ、という。
これは共感しやすい。ぱっと見、か弱い者でも出来そうだから。
でも難しい。物凄い冷静な合理性を持たないといけないから。
悲しんでいる最中に、「これは病だから仕方がない我慢しよう」
何かに不安になっている時に、「これは肉体のせいであって仕方がない」
なんて思えるのは、実は合理性の強者であると主張したい。

『セックスと科学のイケない関係』という本の紹介をしてみる。

総評としては、しっかりした週刊誌といった感じ。
目次タイトルも派手だが、内容はそこまですごいとは思わない。
研究者に取材してその人とのやりとりを書いているのが、結構冗長に思える。
性科学者に興味があるなら面白いだろうが、性科学自体への興味でこの本を読み始めたのでそこが辛かった。
論文の引用元を付けている所はとても良い。

1章、2章でどうやって性科学研究がスタートしていったのかを記述している。
1940,50年台は性的なことへの風当たり強かったらしく、パイオニアたちは動物学者を隠れ蓑に、人間の性に迫ろうとしていたらしい。
しかしやはり外から見ているだけでは限界があるので、ペニス型のカメラを作ろうということになった。

3章は不感症の話。クリトリスが原因と目星をつけて、それを移植した人の話が出てくる。
位置が高いと性交中にオーガズムを感じられないとかなんとか。

4章は女性の外部から内部に話は移り、膣をどう研究してきたかが明らかにされている。
これもまた動物からのアプローチで、ぶたやら牛やらが出てくる。
まあそれは当然といえば当然で、家畜の赤ん坊を産む時に人間が手助けするわけで、膣について考える機会は多かっただろう。
オーガズムの効果は、膣が蠕動して精液を吸い上げるのだという説が出てくる。
結論付けるには、次の章に出てくるMRIの技術が不可欠だった。

5章は性交の3Dイメージによって色々なことが分かった、というお話。
しかしまあ、そんなの作り笑いならぬ作りセックスだよね、と筆者は言う。

あとはまあ、各地の性科学者を訪ねて行って何しているのかを聞きました、って感じ。
ED撲滅、睾丸を増やす、ペニスのインプラント、マスターベーションのやり方とかとか。

他にも究極のオーガズムやら女性は愛のないセックスでは感じないだとかより週刊誌っぽい話もある。

ホルモンの話は苦手だったらしく、あまり書かれていない。アカゲザルの性ホルモンを人間に試したけど無駄でしたーとかのエピソードが語られるだけ。少し物足りない。

んで、最後もまた、極楽セックス。結局そこかよ!ってズッコケ。

うーん。読みづらい本であった!
家に帰ってきて、空き巣に入られていたら悲しい。
もし悲しみの感情がなかったらどうなるか。
うーん、どうなるだろう。
取られた物の価値を考えたり、通報したり、冷静に行動できる気がする。
むしろない方が良さそうに思える。

と考えた所で、自分が悲しい出来事ばかり覚えていた事を思い出した。
そう、悲しみは、過ちや不利益を覚えて、次に活かすためにあるのではなかろうか。
悲しくなかったら空き巣に入られたって、そんなの無味乾燥な人生の1ページとなって直ぐに忘れちゃうんじゃないか。

しかし、忘れることは防衛本能だと言う話もある。

・忘れないために悲しみがある
・悲しいことは忘れないと生きられない

こうなると筋が通らない。
悲しみとは尺度であると定義すると、少しスッキリするかもしれない。
つまり、不利益を被った出来事に悲しみが付与される。
悲しみがある程度高い出来事は強く記憶され、同じ出来事が起こらないように学習が促される。
悲しみが閾値を超える出来事は強制的に忘れられて、記憶に悩まされることを防止する。

うーん、しっくりこない。
感情について生物学的に考えるのは楽しい気がする。
何かきちんと習慣がほしいと思うので、1日1回日記を書くことを習慣付けようと思いました。

1日1回書くとなると、題材不足が目に見えているので、上手いこと書けるネタを探さなくちゃいけない。

そこで思いついたのがTwitterのTLに現れるbotやニュースツイートに関することを書くということ。

TLをさらうきっかけになるし、日記も書けるしで一石二鳥だ。
早速やってみよう。

○

といってTLをさらっていると自分のツイートの方が目に止まった。
「自己欺瞞のせいで、予想通りだったのか、それ以上のことを予想していたけど忘れているのか判別がつかん」

自己欺瞞の存在が広く認められているということは、自分に嘘をつくことが適応的だったのだと予想がつく。人間が生きていくための知恵と言い換えてもよい。
その自己欺瞞のせいで、何かについて頑張ってその結果が出た時に、それが予想通りのものだったのか、本当はそれ以上を期待していたけれど、期待を裏切られたくないために自分に嘘をついて、予想通りだったと思ってしまっているのかが判断できないってことを言いたい。
この場合、自己欺瞞は自分が悲しまないために作用している。

じゃあなんで悲しいという感情があるのだろう。
ちらっと調べたら、悲しみは活動量を減らして次に備えるためだとかなんだとか書かれていたがとても眉唾である。
ので、自分で思考実験してみて、悲しみがなぜ必要なのかを考えてみよう。

明日に続く。
朝10時起床。初め7時に起きて練習に参加しようと思ったけど眠くて断念。
本当に朝起きるのが苦手になってきた気がする。

起きてPCで動画確認したりネットサーフィンしてたら11時過ぎ。
シャワーを浴びてケニアへ向かう。1時間強飯を食べながらジャンプを読む。
ジュウドウズが刃牙の柔道特化っぽい展開な気がする。
コンドルは打ち切り特有の唐突さに笑う。NARUTOも終わるし、銀魂もそろそろだろうし、
なんか隠し球有るんだろうか。

その後、研究室へ。科学哲学の本を読んだり、性的二型の本読んだり。
科学哲学は研究してて感じていた違和感が哲学的にも問題になっていたことを知ってスッキリ。
野生動物についての行動観察に関する問題についてのほんも読みたい。あるんかしらんけど。
性的二型は結構よく分からない話で、メスの選好によってオスのどんな形質が残るのかって話は分かりやすいが、それだけじゃないということがあまり議論されていない気がする。
群間競争が強かったら性的二型が大きくなるんじゃなかろうか。群内競争だけで終わらせて良い話ではないでしょう。
もしくはメスがオスより小さい方が適応的だった可能性はあるかもしれない。

ニホンザルに関しては、小さな島の方がオスが他群に移籍するのは本土より難しいから、大きいオスの方が残りやすいのかもしれない。
けど島に移入したのは結構最近らしいので、それは間違っているか。

そんなこんな勉強してたら夕方になったのでグレースへ寄って帰る。
白ネギと白菜1/4とえのきとうどんと肉340gでお腹いっぱい。
ネギがいつも余るのはどうにかならんものか。

スピッツ聞きながら本読むのが最近のブーム。
いくら疲れてても悲しいことがあっても苛立つことがあっても、「俺」は明るくて賑やかだった。
いままで基本的に上手く世渡りするために、キャラ設定を確立させる戦略をとってきて、それはまあまあ成功しているのだけど、弊害もある。結構大きい。

まず、僕を「俺」だと思ってより深く知ろうとしてくること。
僕の全てがそうではないので、本当に深い仲になればボロが出る。それを騙していたと言われるとつらい。まあそんな人殆どいなかったけど。

次に、自分自身として他者とうまく付き合うことができない。研究室でも最初自分のままで生きようかと思ったが、どだい無理であった。
と言うと、まあみんな仮面を付けて生きてるのさと言われるが、もちろん多かれ少なかれ少し頭よければ、みんな仮面を使い分けて生きているだろう。

そもそも外して生きるというのは幻想なのか、というのが本題だ。
何でも許される仲だから最も自分が楽な仮面を付けているだけなのかもしれないが、それは仮面を外しているのと一緒なのかどうか。

もし仮面というものが取り外し不可ならば、少なくとも誰かといる時は、誰かに配慮した仮面を付けるべきだろう。
そうでなければ、いま自分自身と向き合ってこなかったつけを払っていることになる。

この議論はとても難しいので保留にし、それでも進歩的な結論をだすならば、親しき中にも礼儀ありということに落ち着くのが良いかもしれない。

仮面が外せようが外せまいが、どれだけ親しかろうと、他人と付き合う際には相手に応じた仮面を付けているべきである。
彼氏彼女の関係がどれほど赤裸々なものなのかを自分の中で考える必要がある。つまり、彼女が他人なのかどうか。
今の僕は他人ではないと思っていて彼女を悲しませているという現状がある。
とすると、他人だと思って接した方が、関係が円滑にはなるだろう。

二者関係なので、一人では結論は出せない。

悲しませるのはとても悲しい。
同じ過ちを繰り返し過ぎている。

おわり。
息子には共学、娘には女子校に通わせたいと思っていたが、残念ながら男女別学は時代の流れに反しているらしく、減少の一途を辿っている。
理由は簡単で、少子化のせいで受験者、生徒の数が減ることへの対策が大きい。
まあ他にも男女別学は差別だなんだとうるさい輩が多いのもあるそうだが。

男女別学を過ごしてきた(つもり)の僕は、結構擁護派だ。
理由は幾つかあるが、生徒の観点に立って話すと、一番は人間関係の簡単さだ。
友人か知人かそれ以外かという関係性が殆どで、面倒なゴタゴタが共学より少なくて済む気がする。
異性交遊する時間を他のことに時間を使えるのはかなりのメリットだ。恋愛は大学入ってからでも遅くない。

デメリットは、女性とのうまい付き合い方を学べないことだろう。
しかし共学にいたらモテるやつはどうせ大学でモテて付き合い方を学べるし、もともとモテないやつは共学だろうと女と触れ合えないだろう。
一番割を食うのは自分のことをフツメンだと思ってる層だろう。
共学だったらおこぼれにあずかれる所を、別学だから触れ合えてないんだ、と屈折した思いを抱えて大学に入学したら十中八九悲しい大学デビューが待っている。

となると、男女別学のデメリットは人次第ということになるので、そんなに考慮しない。

そうすると男女別学の方が生徒にとってメリットが大きいように思う。
少なくとも自分は男女別学でよかった。

じゃあなんで息子には共学に通わせたいのかと言うと、自分の憧れを託したい思いがあるからだ。
制服デート、放課後の教室、文化祭、等々、共学には夢が詰まっている。
というような話を小学生の頃に聞かせて、どちらを選ぶかは彼に任せたい。
イケメンに育ってたら共学、残念ながらぶちゃいくだったら別学を勧めよう。

娘には共学のアホ男どもと付き合わせたくないので断固別学だ。
男を見る目を付けさせるために、兄が欲しいな。
娘には清い人生を送って欲しい。
うちの部活では毎年スローガン(正確に言うならキャッチコピーらしいが)を作って、それを錦の旗にシーズンを戦っていく。
目標は日本一なので、日本一になれなければそのスローガンを貫き通せなかった、ということになる。
今まで貫いたことはない。

毎年のスローガンの変遷を思い返すと、結局のところうちは「どうにかせにゃ」勝てないのだなあと気付かされる。
分かりやすく、うちの対比として、早稲田や慶応を見てみよう。
早稲田2014『To be ONE』2013『Beat』2012『挑戦』
慶応2014『DEFEAT』2013『Beyond』2012『Prove』
もともとが強いチームは、「(過去やクラブチームに)打ち勝ったり、越えたりしなきゃなあ」という意気込みをスローガンに込めている。過程ではなくどういう結果を目指すのかを表現している。

翻って、うちは基本的に過程をスローガンにしてきた。今年も去年も、その前もそうだ。
「なんとかせにゃ」の“なんとか”が毎年違うだけなのだ。
でも、いつもなんとかならなかった。
方向性が間違っていることもあったかもしれないが、結局は才能を超える努力が足りなかったのだと思う。なぜなら、毎年いいところまで行っては、同じように負けるから。

●

どんな規模のスポーツの世界でもトップレベルは、その規模に見合った運動能力を持った人間たちがちゃんと努力しているだろう。
ではその運動能力を持ち、努力もしている人間の集まりに、運動能力を持たない人間たちが勝つためにはどうすればいいのか。
個人では、より効率良く努力して相手を上回る成長曲線で上手くなる。
チームでは、相手を徹底的に研究して、地力の差を戦術でカバーできるようにする。
正攻法を書けばそうなるだろう。

彼らに勝つのは果てしなく遠い道のりに思える。
ユースや代表の集まるチームが毎年優勝する関西・関東クラブリーグを見たら分かる。
彼らは持って生まれたものが違う。圧倒的に。
彼らに勝つには、彼らよりも圧倒的な質/量の努力が必要だ。

●

努力の源は、熱意だと思う。
好きなゲームなら何時間でもやれる。本当に行きたいところがあれば、そこに行くための労力は惜しまない。

一度やろうとした努力を続けさせるのは、他人と、仕組みだと思う。
他人との約束は破れない。朝猛烈に眠くても、みんなとの約束があるからきちんと起きて練習に行く。もしくは遅刻したらペナルティがあったとしたら、頑張ってでも間に合わせるだろう。

●

では、努力の量で勝つには、彼らより熱意を持ち、努力するための仕組みとチームの結束を盤石にするしかない。
うちのチームには全部足りない。
熱意がある人は、勝手に努力してうまくなる。仲の良い人らは誘いあって自主練をする。
だが、仕組みはまだまだ足りない。
熱意のない人間はあまり努力しないし、他の人と仲良くない部員もあまり積極的に自主練をしない。そこをもっともっと変えて、より皆が練習して上手くなるチームにならないといけないと思う。

●

量だけでは勝てない。質を高めないと、もともと上手くなりやすい人たちには勝てない。
続く。