今から79年前の1945年(昭和20年)8月15日に日本は連合国に無条件降伏した。従って来年2025年8月15日はちょうど80回目の「終戦記念日」となるため、きっと大きな話題になることだろう。しかし、その戦争は遡ること4年8か月前の1941年(昭和16年)のまさに今日12月8日に始まったのだ。


   【真珠湾攻撃(写真はwikipediaより)】
敗けた戦争だから「開戦記念日」とは称さないまでも、戦争をすること自体が「悪」であり「愚」であり、特に対米戦など「無謀」でもあったと考えるなら、我々日本人は自国が開戦に至った過程や事情や理由を省みるために、戦争が終わった日よりも戦争を始めた日を記憶に留めるべきではないか。

戦後教育を受けた我々の世代を含めて、現在の日本の「常識」では、太平洋戦争とは下記のようなことになるだろう。つまり戦争を始めたのは(今は無き)軍部で、国内では誰も軍部の暴走を止められなかった。なので日本はその反省から戦争を放棄し軍隊を保有しない平和国家になったのだ、と。

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日清日露戦の勝利に勢いを得た軍部が暴走し“大東亜共栄圏建設”という大義名分の下に中国やアジア諸国を侵略した日本は、同じファッショ(全体主義)国家のドイツやイタリアと三国同盟を締結して米英蘭等の連合国に戦争を仕掛けた。緒戦は勝利したが最終的には物量等の国力で劣る日本は敗れた。
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しかし上記は「自虐史観」または戦勝国側に立った「東京裁判史観」との指摘もある。一方で米国は開戦前から日本の外交暗号通信を傍受・解読していた事や、ハルノートが米国議会にも承認されてなかったこと等が戦後明らかになり、最近では下記のような見方もかなり一般的になってきたようだ。

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原油の8割を米国に依存していた日本は、大陸からの撤兵を要求して禁輸&資産凍結を行った米国に対し自存自衛のために対米(英蘭)戦に追い込まれた。英国から参戦を切望されていた米国は、日本に自国領土を攻撃させることで国内世論を得て参戦し、資源量と工業生産力で日本を圧倒し勝利した。

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とはいえ上記は米国のルーズベルト大統領や英国のチャーチル首相の「陰謀説」または日本の旧体制側や軍部の正統性を擁護する「歴史修正主義」とも呼ばれている。裁判での証言録や当事者達の日記や回顧録やインタビュー録等もあるが、どれも真実をそのまま語っているかどうか定かではない。

これら思惑を含めた「真実」はどこまで行っても推測の域を出ないものだし、いつの時代でも歴史ミステリ―やロマンとして歴史研究者や愛好家に任せておけばよいだろう。でも我々が忘れてはならないのは国などの組織の意思決定プロセスや結論、そしてその結果起きた「事実」の総括である。

当時日本の最高意思決定機関は天皇が臨席する「御前会議」だが、そこで天皇は私見を述べられないそうなので、日本の対米(英蘭)開戦を実質的に決めたのは昭和16年11月1日の「大本営政府連絡会議」だった。11月5日の「御前会議」はその結論を承認するセレモニーの場に過ぎなかったという。


実質的に日米開戦を決した11月1日の会議は17時間に及んだ。政府のトップは首相で配下には陸相、海相も居るが彼らは「軍政」(軍の予算&人事)は司るが「軍令」(指揮命令)は「統帥権」という天皇の大権であって首相さえも不可侵。といっても天皇は私見を述べてはいけないことになっている。

従って実質的に統帥権を行使するのは大本営(=陸軍参謀本部+海軍軍令部)で、大本営は政府と対等だから、この会議は「全員一致」でしか収束しない。そうなると主戦派と和平派が居る中で①和平譲歩、②開戦、③開戦準備しつつ和平交渉、の3案に絞れば結論は必然的に案③になってしまう

かくして日本はギリギリまで和平交渉継続しつつ(和平成立時は引返す含みで)真珠湾攻撃を敢行し交渉打切通知の手交が遅れて“騙し討ち“となり米国世論を奮い立たせ敗戦に至った。我が国のこの“実質決裁者不在の無責任主義“は今も変わらない。“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”のにである。

Saigottimo