映画ファンでも無く何かのオタクやマニアでも無い私の様な人間は好きな映画をDVD等で何度も観る事はあっても同じ映画を複数回も映画館に足を運んでまで観るなんてことは滅多にない。その私が生まれて初めて映画館で複数回(*2)観た映画が今回アカデミー視覚効果賞に輝いた「ゴジラ-1.0」だ。


前作となる庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」は日本の危機管理をリアルに描いた快作だったが、山崎貴監督の最新作は東宝が「ゴジラ生誕70周年通算30作目」と謳うだけあり傑作だ。原点である初代「ゴジラ」をオマージュしながらも最新のVFXを駆使したゴジラと人間ドラマを融合させている。


  【映画のポスター2種(ゴジラ-1.0公式サイトより)】
よくあるクイズで「初代ゴジラが東京タワーを壊さなかったのは何故?」正解は「まだ東京タワーが建ってなかったから」である。初代「ゴジラ」の公開は東京タワー完成(1958年/昭和33年)より4年も前、私も生まれる前の1954(昭和29年)。戦争の傷跡も核実験の恐怖も生々しい時代だった

その後、高度経済成長と共に怪獣の種類もアンギラス、キングコング、モスラ、ラドンとどんどん増えていき、こうした“怪獣映画”は若大将シリーズやクレイジーキャッツ映画と並んで家族で楽しむお正月の娯楽映画の王道として、東宝のドル箱ラインナップの一部となっていった

私が初めて観た怪獣映画は1964年(昭和39年)のゴジラ第5作目「地球最大の決戦」で、地球の3大怪獣ゴジラ、モスラ、ラドンが宇宙怪獣キングギドラと戦う。今や27歳になった次男が子供の頃にこの映画を観せたら「何が“地球最大の決戦”だよ、ただ石投げしてるだけじゃん」と笑っていた。

 【第1作目と第5作目の映画ポスター(映画.comより)】
そんな次男も初代「ゴジラ」のDVDを観せた時は「おお、怖ぇ~!」と慄いた。天才科学者が戦争で負傷し、恩師の娘である許婚者との結婚を諦め自ら開発した生物破壊兵器を抱えて核実験で蘇った古代怪獣と刺し違えるというエモい骨太の物語がモノクロ画像と相まってド迫力だったからだろう。

ゴジラは生物(怪獣)ではない。日本ではタブー視されてまともに議論もされない“核兵器”や“戦争”による“破壊“や“災厄”のメタファー(暗喩)なのだ(*1)。もし生物なら(米国版第1作目の様に)ミサイルで倒せるはずだが、ゴジラは通常兵器が効かないばかりか背ビレを光らせ口から放射熱線を吐く。

   【放射熱線を吐くゴジラ 映画.comより】
こんなあり得ない存在を当然のように受け容れてしまう日本人にとってゴジラとは人知を超えた“大自然の祟り”や“荒ぶる神“に等しい超自然的な存在と認識されている。つまり「被爆国なのに実質的に米国の核の傘で守られている日本」にとって核兵器も戦争もそういう存在なのかも知れない。

ただ今回のアカデミー受賞や海外での大ヒット&絶賛コメントを見ると上記の認識は我々日本人のみならず世界中の人類共通の認識なのかも?と思った。そして私が2回目に観たのはIMAX版だったが大画面の迫力よりも物語が心に刺さって不覚にも途中から涙が止まらなかった事を告白しておく。        

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*1:ゴジラの暗喩は佐藤健志の次の著作に詳しい。「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」(文芸春秋、1992年)、「震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する」(VNC、2013年)
*2:4/28に「ゴジラ-1.0/C」を日比谷で観たので、この映画は、通常版、IMAX版、モノクロ版と都合3回観たことになる。

Saigottimo