第51回中央社会保障学校 第1講座 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

8月31日から9月1日にかけて、第51回中央社会保障学校にオンライン参加しました。

まずは第1講座「災害復興政策の根本問題」の概要をまとめます。講師は追手門学院大学の田中正人教授でした。

 

田中先生はまず、台風の被災者へのお見舞いを述べました。

神戸大学大学院2年生の時、阪神・淡路大震災を経験し、災害復興現場で仕事をするようになり、生活再建に格差が生じることに気付いたそうです。そした、亡くなった人、助かった人の間にも格差があるのではないかと考えるようになったそうです。

そこで、過去100年に渡って地震の検討を行なうとしました。

1923年の関東大震災は、M7.9、最大震度7で、多くの人が火災で亡くなり、復興政策にも大きな格差があったそうです。この頃、1919年から1930年の間の災害の犠牲者数は、1年あたり9,093人だったそうです。

1931年から1945年の戦時下では、自然災害は少なく、犠牲者が1年あたり1,101人だったそうです。

1945年から1959年の戦後復興期は、伊勢湾台風などの気象災害が猛威を振るい、1年あたりの犠牲者は2,013人に増えたそうです。

1960年から1969年の高度経済成長期は災害が減少し、1年あたりの犠牲者は248人だったそうです。

1970年から1985年の経済停滞気も災害が少なく、1年あたりの犠牲者は101人だったそうです。そのため、「日本は自然災害を克服した」という雰囲気がありましたが、それは勘違いだったと指摘しました。

1986年から1994年のバブル期は1年あたりの犠牲者は26人でしたが、1995年から2010年にポストバブル期には阪神・淡路大震災や新潟県中越地震が起こり、1年あたりの犠牲者は429人に増加したそうです。また、この時期から「災害関連死」が注目されるようになったそうです。

2011年から2020年は、東日本大震災をはじめとして様々な自然災害が発生し、1年あたりの犠牲者は2,078人に増加したそうです。再び災害多発期に入ったと言えます。

自然災害の大きさを決める要素には、自然現象による外力の大きさを意味する「ハザード」、人・地盤・構造物などの脆さを意味する「脆弱性」、自然現象にさらされる空間や時間の量を意味する「暴露性」があるそうです。

今後30年間の自然災害の推移がどうなるかというと、「ハザード」については気候危機に極端現象の像じゃ、台風の大型化、巨大地震の切迫があり、「脆弱性」については単身化・超高齢化、避難弱者の増加、インフラの老朽化、ITへの高依存があり、「暴露性」については首都圏への人口一極集中、政治・経済機能の集積、大規模住宅地造成エリア、超高層建築、地下空間があり、被害の大きさは想定を超過するだろうと指摘しました。

 

最近、「南海トラフ地震臨時情報」が出されましたが、南海トラフ地震に前兆現象があるかどうかは不明だそうです。

過去の南海トラフ地震は100~150年周期で起こっていて、最後は1946年の南海地震なので、起こる可能性は高いと指摘しました。

南海トラフ地震の想定死者数は、合計32.3万人とされていますが、内訳は地震による死者が約3.8万人から約5.9万人、津波による死者が約11.7万人から約22.4万人、火災による死者が約2600人から約2.2万人と幅があるそうです。火災は季節や風速によって変化し、住宅密集地が危険であり、道路幅が狭いと延焼が防げないという問題もあるそうです。

数字よりも具体的なリスクを理解しておくことが大事だと指摘しました。

災害後の被害については、社会システムの問題から起きるものであり、システムを変えれば防ぐことができるはずだと指摘しました。

避難所の写真は、1930年の北伊豆地震、1959年の伊勢湾台風、1995年の阪神・淡路大震災、2018年の西日本豪雨の4つを見るとどれも変わらず、100年もの間避難所の状況は変化していないと指摘しました。

「災害関連死」については、遺族からの申請があり、災害弔慰金の支給審査が行なわれ、認定されなければカウントされないそうです。そのため、カウントされている死者数よりも実際は多いと思われます。

仮設住宅での孤独死は、東日本大震災では発災からの10年間で273人、阪神・淡路大震災では発災からの10年間で233人だったそうです。一方、災害公営住宅での孤独死は、東日本大震災では発災から10年間で396人、阪神・淡路大震災では発災から10年間で341人だったそうです。仮設住宅よりも災害公営住宅の方が孤独死が多く、復興政策のミスマッチを指摘しました。

復興政策の何が問題かというと、温情主義に基づく一方的な安全の適用、開発主義に基づく画一的な空間の計画、エリート主義に基づく当事者不在の前提が挙げられました。

能登半島地震については、「ハザード」については地震、津波、火災、液状化、土砂災害という複合災害であること、「脆弱性」については家屋などの倒壊、過疎・超高齢化、原発とその立地の脆さ、「暴露性」については寒冷地であることが挙げられました。

主要な論点として、原子力に依拠した社会・経済システムとの共存困難性、住宅の倒壊に対する社会保障の正当化可能性、被災の苦難受忍論と自己責任論の棄却妥当性、生活再建に向けた被災者一人ひとりの暮らしの連続性、自然災害リスクに対する居住地選択の当事者主導性が挙げられました。

論点について考えるには、復興の主体は誰か、誰のための復興政策かということが問題になります。

東日本大震災の復興財政は、インフラの整備等に7.6兆円使われたのに対して、被災者直接支援にはごくわずかしか使われなかったそうです。

復興政策においては、災害リスクの膨張の中での防災の主流化、継続する人口減少を見据えた選択と集中、国際的緊張の高まりにもとでの公共の福祉の”高度化”により、人命優先のために一人ひとりの権利が制限され、被災者一人ひとりの声をノイズと見なし、国家・官僚主導で進められてしまっているそうです。

 

ここで質疑応答が行なわれましたが、本筋からは外れますので割愛致します。

 

国家・官僚主導での「復興」に抗う被災者の主体的実践も行なわれているそうです。

その事例がいくつかあげられました。

まず、2016年の熊本地震の際の西原村大切畑の事例です。熊本地震では震度6弱と震度7の地震がたて続きに起こり、本震は夜中の1時だったそうです。大切畑の家屋の被害は、34棟中31棟が全壊だったそうです。ダムが決壊するという情報があり、集落の人々は日頃から決められていた標高の高い集合場所に集まり、安否確認が行なわれたそうです。その際、100人の集落で91人が集合しており、9人足りないことがわかったそうです。そこで、若手住民と消防団で捜索に向かい、倒壊した家の屋根に穴を開けて呼びかけ、9人全員を救出することができたそうです。この救出方法は、2015年に訓練していたそうです。

その後、集落では復旧対策本部が立ち上げられ、記録班、水道班、炊き出し班が設置されたそうです。記録班は毎日何をやったかの記録を取り、写真も撮ったそうです。そして、生活インフラは自力で仮復旧したそうです。水はパイプを取り寄せて地下水を引き、トイレと風呂は全壊した家から使える設備を持って来て設置し、道路のガレキの撤去なども自分たちで行なったそうです。

復興まちづくりの推進は、60回以上の話し合いを実施して、小規模住宅改良事業による現地再建を行なったそうです。

次に、2019年の東日本台風の際の宮城県伊具郡丸森町五福谷の事例です。東日本台風では、総雨量が612mm、決壊が18ヶ所で起こったそうです。五福谷地区は最も深刻な物的被害があった地域で、17時に自治会長が川沿い住民に避難を呼びかけ、17時30分には集会所の鍵を開け、18時には集落の一部地域で停電が起こり、18時10分には再度避難を電話で呼びかけ、集会所に全員が集まったそうです。しかし、集会所も浸水の恐れがあり、19時30分には高台に避難したそうです。高台の民家を、あらかじめ避難先にすることを決めてあったため、早い段階で避難を完了することができたそうです。0時には土石流が襲来したそうです。事前避難していたので、人的避難はゼロだったそうです。

なぜ事前避難ができたのかというと、あらかじめ集会所に集まると決めてあり、その集会所は生活の中で身近な場所であったこと、集会所が危険な場合、避難先として高台民家に了解を得ていたことがあげられました。

復興まちづくりの推進でも、再居住は困難であり、なるべく近いところへ10世帯が集団移転したそうですが、移転先は若干浸水したところでしたが、バラバラになるリスクの方が大きいと判断したそうです。水害のリスクと共存することで、集落を維持したということです。

3つめは、2011年の東日本大震災の際の釜石市唐丹町花露辺の事例です。津波が13.2mに達し、従前世帯は71世帯だったものの、家屋被害と人的被害が出てしまったそうです。

14時46分に地震が発生し、集落内の最も高い場所にある漁村センターへ移動したそうです。しかし、漁村センターまでは急な階段や坂道があるので、みんなで手分けして避難誘導を行なったそうです。具体的には、軽トラを活用し、荷台に乗ってもらってピストン輸送を行なったそうです。64戸198人中134人が漁村センターへ避難し、自宅が流された人は漁村センターで寝泊まりし、冷凍食材を共有し、自前の福祉避難所として8軒の空き家を活用したそうです。それらの空き家は、日頃から風を通すなどして維持に協力しており、お互いの信頼関係があったからできたと指摘しました。

生活インフラの自力仮復旧については、トイレは桶を活用して製作し、湯沸かしはわかめをボイルする釜を共有転用し、水道は湧き水を使用して製作し、電源は知人から発電機を借用して発電したそうです。

復興まちづくりの推進については、漁業集落としてのかたちを守るため、漁業に影響する巨大防潮堤の建設は避け、元々の集落の中で住宅を再建したそうです。

 

防災まちづくりの実践については、都市部での事例があげられました。

神戸市垂水区東垂水地区は、阪神・淡路大震災では大きな被害なく、行政から目を向けられなかったそうです。木造密集市街地であり、旧建設基準法でつくられ、建て詰まっており、傾斜、階段、擁壁、行き止まりもあるそうです。道路状況は悪く、車が通れず、行き止まりも多いそうです。火災が起きても消防車が近くに来られない恐れもあるそうです。

そこで、「安全安心まちづくり構想」を住民がつくり、行政へ届けたそうです。まちなか防災空地を、古いアパートをなくしてつくり、半分は菜園にし、消火栓で水やりを行なったそうです。地域の思いを実現するための政策があり、緊急避難サポート事業をつかって段差に梯子を設置したり、ブロック塀にドアをつけたりして、救助へ向かえるようにしたそうです。

地域の「対処療法」をあえて選択したのはなぜかというと、緊急性が高く、即効性が求められ、高齢化が進んでいるからだそうです。

洪水常襲地域である高砂市山ノ端地区では、河川、水路があり、山際の低地であり、話し合いを繰り返して山ノ端地区減災まちづくり協定をつくったそうです。住民が、ローカルハザードマップを自分たちで記入し、避難目安ラインも地域独自でつくったそうです。

2007年の液状化被害を、地域の役割分担で乗り越えた新潟県柏崎市山本団地では、リーダーが地質を学んだ人で、地域の人々の顔がわかる人が協力したそうです。

 

田中先生は、住民の声がノイズ化されているのに対して、復興政策の転換が必要だと指摘しました。

「公共の福祉」が変質し、「みんなのため」が「個人の権利」を制限するようになっていますが、本来は個人と個人の権利が対立する場合に調整するのが「公共の福祉」です。

「公共の福祉」が本来の意味とは違った意味で使用されているのを、本来の意味に戻すべきであり、個人の意思が尊重される公正な市民社会への、今が選択の分かれ道だと指摘しました。

必要なことは、まず、当事者の主体性の保障です。「ここに住むのは私たちであってあなたではない」という言葉があるそうですが、これは障害者運動の「私たち抜きで決めないで」という言葉と同じ意味だそうです。次に、当事者の実践の価値転換、当事者の多様性の読み解き、多様なニーズの把握だと指摘しました。

 

続いて、お二人の方からの特別報告が行なわれました。

お一人目は、石川県社保協の藤牧事務局長で、「能登半島震災 被災県からの報告」というテーマで報告を行ないました。

能登半島地震で最も被害が大きかった奥能登には、石川民医連の輪島診療所と薬局があるそうです。連続する大きな揺れが起こり、15秒間に3回の地震が発生したそうです。津波によって水道管がことごとく損壊し、衛生状況の悪化が健康被害へつながっているそうです。輪島・珠洲は被害家屋の半数以上が全壊または半壊で、コミュニティの断裂も起こっているそうです。

元日の朝刊の一面は、「奥能登4病院統合」だったそうです。

公立4病院は水不足で機能不全となり、県のDMATが能登から金沢以南へ患者を輸送し、病床ひっ迫が起こったそうです。高齢者施設は定員の10%超過で対応しているそうです。

石川民医連は、1月1日16時10分に最大震度7の地震が起こり、18時6分には城北病院に地震対策本部を設置したそうです。

輪島診療所は3日目には通電し、電子カルテも動き、被災者への処方を開始したそうです。奇跡的に損壊はなかったそうです。

自衛隊に掛け合い、介護職員が高齢者の入浴介助を行ない、避難所へ医師が訪問したそうです。

金沢市の城北病院は、ベッドが満床状態でしたが、避難所の感染症発生に対応したそうです。

2月6日から4月26日にかけて、全日本民医連の支援で訪問行動を行ない、困っていることを聴き取ったところ、飲み水の困り事が最も多く、医療、介護、行政への提出書類のことなどの相談があったそうです。

見えてきた課題として、あまりにも復興は遠く、避難所は30年前の阪神・淡路大震災の時と同水準で、トイレがないため、穴を掘って代用したことが挙げられました。

病院や診療所で避難者が集まる企画を行ない、合言葉は「みんなで能登へ戻ろう」だったそうです。医療・介護の整備が必要であり、教訓として生かしたいと述べました。

 

特別報告のお二人目は、自治労連の山本中央執行委員で、「災害復興と自治体労働者」というテーマで報告を行ないました。

山本さんは自治体の保健師で、能登半島地震が発生した1月1日には公務員は役所へ出勤したと述べました。1月2日8時には石川県職員が奥能登へ向かい、保健師2人も同行し、現状把握を行なったそうです。1月10日には、総務省の応急対策職員派遣制度に基づき、全国の自治体からの応援で、災害マネジメントを支援する「総括支援チーム」と、避難所の運営を1対1で丸ごと支援する「対口支援チーム」が派遣されたそうです。

奥能登地域は、地震前と地震5ヶ月後を比較すると、人口が減少し、高齢化率は50%前後になり、3割が75歳以上となっているそうです。

能登6市町への行政運営支援は、4月から長中期支援となっているそうです。

病院医療圏の状況は、1月3日18時の報告では、1月2日に緊急性の高い透析患者1名を金沢市内の病院へ搬送しましたが、緊急性の高い透析患者は100名存在し、3日に金沢市等の医療機関に搬送中とのことでした。

介護保険関連施設は、ほぼ全ての施設が断水、停電したそうです。

1月10日16時には、孤立集落・要支援集落とその住民数が報告されましたが、孤立する地域に住んでいることが悪いかのような報道がされてしまったと指摘しました。

3月末に、自治労連職員が輪島市へ訪問したところ、道路の隆起や家屋の倒壊はそのままだったそうです。住民の足は、発災前からバスは数時間に1本という状況だったそうです。

1.5次避難所は、テント、簡易ベッドがありましたが、みな同じで迷ってしまう状況で、高齢化率は98%、食事はコンビニのおにぎりだったそうです。

石川県被災地の市町村職員は、2005年から2020年にかけて減少した市町村ばかりで、コロナ禍で行政職員には余裕がなければならないことが確認されたばかりなのに、改善されていなかったそうです。

輪島市の職員の時間外労働は、1日7時間超勤、月100時間超で、コロナ禍の保健師なみになっているそうです。

退職の意向を示す看護師も多く、3月末で4公立病院で60人が退職してしまったそうです。

災害派遣に行った自治体職員の声として、日常業務を全て委託に出し、正職員は何もわからない、避難所が我慢の場になっているといったことが紹介されました。

命を守るには、元の暮らしに戻りたいと願う住民のために自治体職員も声を上げるべきであり、住民本位の災害支援を行なうため、人権が保障される避難所、早急な仮設住宅の建設、職員や予算の拡充を行なうべきだと指摘しました。

 

田中先生からは、現場の大変な状況が報告されたとのコメントがありました。医療の集約化など、平時の効率化を求めると非常時のリスクは増大し、それを変えていく必要があると指摘しました。経済的合理性の重視も同様だと述べました。効率化は事前にトリアージしているようなものであり、トリアージは本当に資源が足りない時に限って発動されるべきものだと指摘しました。コンパクトシティ政策への疑問も指摘し、大都市の論理であるが、都市は農村がなければ成り立たないものであり、地域の価値を知らない人が言っていると述べました。都市の論理だけでこの国を覆っていくことの危うさを指摘しました。

田中先生から特別報告者へ、障害者への対応はどうなっていたのかが質問されました。

藤牧さんは、どの病院からも断られた人は家族の下へ避難して家族が看ていたり、ホテルへ二次避難したりしていたと聞いたと答えました。非常時なのに無理をさせる対応で乗り越えようとしている印象だと述べました。コロナ禍と同様、平時からの余裕が必要だと述べました。

山本さんは、奥能登の4市町は申請があればバスで迎えに行き、金沢へ集めて振り分けをしていたと述べました。途中で倒壊家屋の点検があり、避難した人もいたそうです。1.5次避難所へ行くが、そこでは介護サービスが使えないそうです。大都市では福祉避難所が1つしかなく、公表されていないそうです。公立病院は機能せず、城北病院が支援に行ってくれたから助かったという人がいたと述べました。

 

続いて、質疑応答が行なわれました。

復興予算については、インフラ整備が最も多いと答えました。東日本大震災では防潮堤などに使われ、被災者に届いたのはごくわずかだったそうです。ハード整備をしても戻った人は少なく、仕事の確保ができなければ移転できないと指摘しました。時間をかけて安全な町を整備することと、生業の復興は両立しにくいと指摘しました。

移住案については、それは都市の論理であり、現地の暮らしを知らない人が言っていると指摘しました。暮らしを継続できるようにすることが重要であり、居住地選択は権利であり、被災者の権利が尊重されなければならないと述べました。生活のインフラが必要であり、住まいと暮らしの資源がセットされていてこそ暮らせるので、安易な移住は不可能だと指摘しました。

平時のコミュニティについては、難しく、非常時は助け合いが生まれるが、それは長く持続しないと述べました。それを持続させる仕組みがつくれるとよいと述べました。

資料の共有については、顔が写っている写真以外は共有してよいと答えました。

 

最後に、まとめの発言が行なわれました。

藤牧さんは、「ここに住むのは私たちで、あなたたちじゃない」という言葉があるが、住む人たちが話し合って決めるのが大前提だと述べました。孤立集落を訪問したところ、バスは1日に2、3本で、医療資源もなかったそうです。いろいろな意見があるが、そこで暮らしたいという人が住んでいると指摘しました。8月に水と電気が通ったそうです。仮設住宅に移った人からは便利な方がいいという声もあり、バラバラにされているので誰かが調整すべきだと指摘しました。住み続ける権利が守られるべきだと述べました。

山本さんは、自治体職員は住民の声を吸い上げて活かすのが仕事だと述べました。元のコミュニティに戻るのは無理な人もいるが、戻りたい人は戻れるようにすべきであり、自治体職員にちゃんと聴き取り調査をしてほしいと述べました。

田中先生は、集まって話し合う機会が必要だが、今はバラバラになっていると述べました。中越地震の時は、近所の人を集めて再調整するプロセスがあってよかったそうです。2011年の紀伊半島豪雨の際は、小さな集落がたくさんある中で、比較的病院などがある地域へ一時的に住む対策を行なったそうです。具合が悪い時はそうした地域に行き、体調がよい時は自宅に戻るといったこともできると述べました。

 

以上で報告を終わります。