学習会「ヒロシマ・ナガサキ 被爆の実相 ~核兵器の非人道性~」 | 労働組合ってなにするところ?

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2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

8月2日、岡山県労働者学習協会の学習会「ヒロシマ・ナガサキ 被爆の実相 ~核兵器の非人道性~」にオンライン参加しました。講師は長久啓太先生でした。

以下、その概要をまとめます。

 

長久先生が被爆の実相の学習会を行なうようになったきっかけは、2005年の夏に被爆60周年の原水爆禁止世界大会に参加したことだそうです。被爆の爪痕に触れ、自分の知識の薄っぺらさを感じ、被爆者の話を聴いて衝撃が受けたそうです。それ以来、被爆の実相の学習会がライフワークになっているそうです。

はじめに、核兵器禁止条約の前文が紹介されました。そこには、「あらゆる核兵器の使用から生ずる壊滅的で非人道的な結末を深く憂慮し、したがって、いかなる場合にも核兵器が再び使用されないことを保証する唯一の方法として、核兵器を完全に廃絶することが必要であることを認識」とあるそうです。

なぜ被爆の実相を学ぶのかというと、第一に、核兵器廃絶の願いと運動の「起点」であり、核兵器条約をつくり出した力も、核兵器の非人道的の認識が広がったことにあるからだと指摘しました。第二に、被爆から79年となり、日本でも世界でも核兵器が再び使用されるかもしれない危険が強まっており、草の根の運動と「被爆の実相普及」をより意識的に行なう必要があるからだと指摘しました。

被爆の実相を学び伝える視点として、第一に、戦争や核兵器の特徴のひとつは、その「無差別性」、個を消すことにあることをあげました。「何万人が死んだ」、「何千度の熱線が」など、原爆の恐ろしさを”数字”だけで語ることしかできなければ、核兵器との本当の対決にはならないと指摘しました。第二に、そこにいた一人ひとりがどんな死や生を強いられたか、そこにどんな痛みや怨念や苦しみが生まれたか、一人ひとりの人間に何が起きたのか、「個人」の痛みを知り、それを浮き彫りにすることをあげました。そうしてこそ、核兵器の本質にせまることができ、被爆者が強いられた原爆の残虐性・非人道性の共通性も見えてくると指摘しました。

実相を知る方法としては、被爆者の手記、語り、原爆の絵をあげました。そして、その重みを改めて考えたいと述べました。被爆者の多くは、「忘れられるなら忘れたい」と思っており、それを手記に書いたり、若い人の前で証言したり、原爆の絵を描いたりすることは、「あの日」の惨状、自分の体験・感情を思い出すことであり、相当な精神的・肉体的苦痛を伴います。それでもあえて伝えようとするのは、核兵器の被害を二度と繰り返さないためであり、核廃絶・平和への希求、「伝え残したい」という強い気持ちであると述べました。

13歳のときに広島で被爆したサーロー節子さんは、『光に向かって這っていけ』という著書の中で、「人前に立ち、個人的な苦しい体験をあえて記憶の奥底から引きずり出し、繰り返し、繰り返し語ることは、いつの時も辛い。今でも、被爆証言や講演をする前日の夜は、原稿を書きながら涙が止まらなくなる。静かに神に祈り、心を整え、翌日の証言に臨む。私には、被爆を体験した生き残りとして伝える責務がある。 『私がやらなければ誰がやるのだ』と自らの背中を押してきた」と書かれているそうです。

被爆者自身が描いた原爆の絵は、1974年5月にNHK広島放送局へ被爆者から届けられたことがきっかけで集められたそうです。職員は絵を見て衝撃を受け、被爆者の絵を市民から広く募集し、1,000点以上が集まったそうです。その時のことを記録した『劫火を見た 市民の手で原爆の絵を』には、「1枚1枚の絵には、被爆から30年間の苦しみに耐えて来た人びとの心の叫びがこめられているのです」と書かれているそうです。その後も被爆者の絵は集められ、広島平和資料館には約3,600枚の原爆の絵が収蔵されているそうです。

8月6日当日に撮られた写真は、中国新聞カメラマンの松重美人さんが撮影した5枚だけしかないそうです。有名なのは、御幸橋付近を撮ったものです。松重さんはあまりの惨状のためにシャッターを切ることをためらい、やっとの思いでシャッターを切り、顔がわかる写真をと思って前に回り込みましたが、どうしてもシャッターが切れなかったそうです。そのため、証言と絵から当時を想像するしかないそうです。

原爆はなぜ、広島と長崎に落とされたのかというと、日本を原爆の投下目標として確定したのは、1944年9月18日に英米間で結ばれた協定でだそうです。そして、1945年4月27日のアメリカの目標検討委員会で17都市が検討対象となったそうです。妥当な広さの都市地域で、日本にとって不利になる最大の心理的効果をあげること、などの要素があったそうです。第2回委員会会議で、投下目標として京都・広島・横浜・小倉が勧告され、その後、横浜が外され、新潟・長崎が加わったそうです。ドイツが1945年5月に降伏し、既に敗戦後に向けた政治的駆け引きが始まっており、アメリカは「原爆投下によって日本の降伏が早まり、多くの兵士の命を救った」という主張を未だにしていますが、実際にはソ連の対日参戦前に原爆を使うことで、ソ連に対するけん制、また、日本の占領にたいしてソ連の影響力を最小限にすることも意図されていたと指摘しました。

 

広島への原爆投下について語られました。

投下の時刻は1945年8月6日8時15分で、人々が動き出す時間に、街の中心部をねらって落とされました。原爆の投下は目標を目視して行なうとされており、広島の目標は「相生橋」だったそうです。

「当日死者」の65%は、子ども、女性、お年寄りという非戦闘員だったそうです。そこにいるのは多くは非戦闘員だとわかっていた投下したのです。爆心地となった中島地区で生き残った人は、地下室にいた1人のみだったそうです。上空は快晴で、真っ青な空へB29が入って来たのを目撃した人たちがいるそうです。

広島に落とされた「リトルボーイ」の構造は、ウラン型の原子爆弾で、ウランをぶつけて核分裂反応を起こさせ、爆発させるものだそうです。

原爆炸裂前の100万分の1秒に、初期放射線が放出され、中性子線があらゆる物質を突き抜け、爆心地にいた人びとは避けようがなくそれを浴び、たとえ爆風や熱線がなかったとしても全員が亡くなっていただろうと推定されるそうです。

次の100万分の1~3秒で、上空に直径2メートルの火球が出現したそうです。それが0.2秒で直径310メートルに膨張し、それから2秒までの間に熱線が放出され、爆心地直下では1千数百度から2千度に到達したと推定されるそうです。

『ヒロシマ・ナガサキ 死と生の証言』には、「前か後か見分けのつかない程焼けた身体」などの焼けどの証言が記録されているそうです。

その後10秒で、衝撃波と爆風が起こったそうです。

衝撃波は、火球の膨張で大気圧が極めて急激に大きくなり、この空気の高圧になった部分が火球から離れて音速を超えるスピードで広がったものだそうです。それにより、爆心地から1キロ地点では鉄筋コンクリート以外の建物は完全に破壊されたそうです。爆風はその後に起こり、中心部から広がって10秒後には4キロ地点に到達した予測され、それによって木片やガラス片が人々に突き刺さったそうです。

この爆風によって、木造建物の多くは倒壊し、人々は倒壊した建物に閉じ込められ、熱線で生じた火事によって焼き殺されたそうです。そして、建物の下敷きになった人を助けられなかった、見捨ててしまったということは、被爆者の「心の傷」として深く刻まれる結果となったそうです。

こうの史代氏の『夕凪の街 桜の国』にも、主人公の女性の「心の傷」が描かれています。助けを求める人を見殺しにしてしまったことや、死体を平気でまたいで歩くようになっていたことなどです。これは「感情喪失」という状態で、通常自然に感じる感情を感じていては生き残ることができないので無感動になってしまう状態で、後に思い出して苦痛を感じることになるそうです。自分は幸せになる資格はないと感じ、罪の意識を持ち、なぜ助けなかったのかと死ぬまで思い続けることになります。

爆発後20分、強風にあおられて広島市内は火の海となり、中心部は熱による上昇気流が起こり、火事嵐となったそうです。

爆発後30分~1時間、黒い雨や黒いすすなどの放射性下降物が降ったそうです。当時は原爆や放射線のことなどは知られておらず、多くの人々の入市被爆、内部被曝につながったそうです。

広島では建物疎開のために中学生や女学生が動員されており、作業中に被爆し、殺された額とは約6,000人にのぼるそうです。

峠三吉氏の「原爆詩集」の中に、建物疎開の作業中に被爆した女学生たちのことを詠んだ詩「仮繃帯所にて」があり、そこには「にんげんから遠いものにされはててしまっている」という表現があるそうです。

死体処理に関する証言には、「魚を焼くように次から次へ焼いていた」などがあり、人間を人間として弔うことができない、自分の気持ちがもたないので死体を「個」として認識することができない状態であり、こうしたことも後で思い出して心の傷になると指摘しました。

「当日死者」のうち、家族に看取られながら死ぬことができた人は、わずか4%といわれているそうです。遺族は、家族がどのように死んだかわからず、ずっと苦しみ続けることになると指摘しました。

平和公園内にある原爆供養塔は、引き取り手のいない死者を弔う場であり、推定で7万人以上の遺骨が納められているそうです。

『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』には、「戦争は、広島の”7万柱”のように、死者のことを何千人、何万人とひとくくりにしてしまう。死者ひとりひとりの存在は、何千、何万分も1という乾いた数字となり、分母が大きくなるほど小さくなっていく。それでも、どんな命も失ってしまえば代わりはきかない。だから1つの命は、本来は『1分の1』でしかない」と書かれているそうです。

きのこ雲は、原爆を落とした側の視点であり、その下で何が起こっていたのか、一人ひとりの人間はどうなったかを考える必要があると述べました。原爆は人間を押しつぶす圧倒的な力であり、こんな兵器をつかっていいのかと問いかけました。

被爆の実相普及こそ、核兵器廃絶への道であり、抑止力論を乗り越える最大の力であると述べました。

 

次に、長崎の原爆被害について語られました。

長崎に原爆が投下された時刻は、1945年8月9日11時2分です。

当初は小倉が目標地点でしたが、霞と前日の八幡空襲による噴煙で目標地点が目視できず、第2目標である長崎に向かい、長崎も雲っていて目標の常盤橋は見えず、3キロほど北の三菱長崎兵器製作所が目視されたので、そこへ原爆を投下したそうです。

長崎に落とされた「ファットマン」はプルトニウム型原子爆弾で、長崎市松山町交差点付近の上空500メートルで炸裂したそうです。爆心地が中心部から外れていたので、広島より死者は少なかったですが、爆心地は壊滅的に破壊されたそうです。

『ヒロシマ・ナガサキ 死と生の証言』には、「全てが黒に焼かれ、黒く焦げた皮膚から吹き出した真赤な血潮」、「ほとんど男か女か見分けもつかない」、「小さな子供が血にまみれて転がっていた。戦争に関係のない子供達まで犠牲にするとは…」といった証言が記録されているそうです。倒れた家の下敷きになった人を助けられず、逃げるしかなかった、水を求める人を見捨てて逃げるしかなかったという証言もあったそうです。

城山小学校は爆心地から西へ500メートルの地点にありました。学校は夏休み中でしたが、約1,500人の児童中、1,400人余りが家庭で死亡したそうです。被爆した校舎の一部が「平和祈念館」として保存されているそうです。

爆心地から北へ700メートルの地点にあった山里小学校では、運動場にたくさんの子どもたちがいて、在籍児童数1,581人のうち、およそ1,300人が死亡したと推定されているそうです。「運動場いちめんに、人間がまいてあるみたいだった。運動場の土がみえぬくらい倒れていた。大ていは死んでしまって、動かなかった」という証言があるそうです。

長崎医科大学は、爆心地から東へ300~600メートルの地点にあり、日本における西洋医学の中心病院として発展していましたが、原爆によって壊滅し、受講中の学生410人は全員死亡し、臨床キャンパスでも医学生210名中74名が死亡し、教授も、医師も、看護婦も、看護学生も、患者も多くが死亡したそうです。

小路敏彦氏の『長崎医科大学潰滅の日』には、「大学の受けた傷は深く長期にわたった。とくに優秀な教授陣、新進気鋭の若手教官・学生をふくむ大量の人的損失いよる痛手は深刻だった。教育の連鎖が絶たれ、今日にいたってもその爪あとは完全に癒えていない。(略)誰もが医大が潰滅するなどと思ってもみなかった。それが全滅したのであるから、一般市民への救護がいかに遅れて悲惨であったかは想像を絶する」と書かれているそうです。

長崎医科大付属病院で、当時、病棟看護婦長をしていた久松シソノさんは、著書『凛として看護』の中で、薬などがほとんどないために医療らしいことは何もできなかったことから、「傍らに付き添いながらなにもできない無力感、あのむごたらしさ、惨めさ、悔しさは、看護婦として耐えられないことで、思い出すだけで、今も胸がうずくのです」と書いているそうです。

浦上第一病院は浦上地区で唯一全壊をまぬがれた病院で、被爆直後から負傷者たちが病院に押し寄せたそうです。浦上第一病院の秋月辰一郎医師は、爆心地に近い人ほど早く死んでいき、それが波紋のように広がっていくことを「死の同心円」と呼んだそうです。秋月医師は被爆者の症状を記録に残し、この記録を私に書かせたのは人々の叫びであると述べたそうです。秋月医師の被爆体験は、『アンジェラスの鐘』というアニメ映画になっています。

爆心地から東へ500メートルの地点にあった浦上天主堂は、当時東洋一といわれる教会だったそうです。爆心地の浦上地区では信徒約12,000人が暮らしていましたが、そのうち約8,500人が原爆によって亡くなっているそうです。天主堂は、一部の側壁を残してほぼ全壊となったそうです。被爆を象徴する建物として残すべきでしたが、1956年に市長が訪米し、その後態度が一変し、1958年に取り壊されてしまったそうです。戦争遺跡の保存運動が広島ほど広がらなかった弱さもあったそうです。

浦上天主堂が残っていれば、当然世界遺産にもなっていたはずであり、戦争遺跡を残すことの意義は大きいと指摘しました。

 

次に、平和への願いと行動について語られました。

一つは、長崎の原爆資料館に展示されている「悲しき別れ-荼毘」という絵についての話です。この絵は、被爆した2人の少女が振袖姿で荼毘にふされるのを見た松添博さんが、それから29年たった1974年に心から離れないその情景を絵としたそうです。1988年、仕事を引退した松添さんは、自分が絵に描いた少女たちの身元捜しをしようと決意し、その一人の福留美奈子さんの母親が京都府綾部市で健在であることがわかったそうです。松添さんは絵の写真を持って母親である福留志なさんを訪ね、志なさんは娘さんの死の様子を知らなかったので、絵を見て涙を流したそうです。1995年、綾部中学校の生徒たちが、毎年中学校に折り鶴を届けてくれる福留志なさんが、長崎に娘のためのお地蔵さんを建てたい」という思いを持っていることを知り、募金活動を始め、大人たちも巻き込んで予想を大きくこえて募金が集まり、「ふりそでの少女像」がつくられたそうです。この像は1996年に完成し、長崎原爆資料館の屋上庭園のなかに設置されたそうです。

もう一つは、高校生1万人署名かつどうです。1998年、インドとパキスタンの核実験に危機感を募らせた長崎は、国連へ訪問団を派遣する活動をはじめ、その中に大人たちにまじって高校生2人が選ばれたそうです。その後、毎年訪問団が国連を訪れるようになり、第2回目からは高校生だけにしぼり、「長崎高校生平和大使」として一般公募する形となったそうです。2000年、第3回の「高校生平和大使」に選ばれた石司真由美さんは、「大使2人だけが取り組むのではなく、もっとみんなを巻き込んで、長崎らしい活動がしたい」と考えたそうです。帰国後、石司さんは高校生平和大使に応募した長崎の高校生たちに連絡を取り、高校生による核兵器廃絶の署名を国連に届ける活動の賛同者を探し、自分の学校の友人や幼馴染みにも声をかけ、第1回目の会議には十数名の高校生が集まったそうです。さまざまな議論を通じて、「県内の高校や街頭での活動で、署名を一万人分集め、高校生平和大使に託し、国連へ届けてもらう」ことを決めたそうです。活動をはじめると、たくさんの紆余曲折も経験し、学校内での署名活動に学校側の理解が得られなかったり、街頭では「原爆を体験していないおまえたちに何がわかるか」と言われ、泣く人もいたそうです。しかし、高校生同士の本音の議論をし、それぞれの平和への思いを交流しながら、困難を乗り越え、2001年には3万筆近い署名を集め、以後も毎年のように「高校生一万人署名活動」は続いているそうです。長崎新聞新書の『高校生一万人署名活動』には、「私たちの力はとても小さい。なかなか届くものではない。それどころか、私たちの声はかき消されてしまいそうになる。しかし、微力ではあるにせよ、無力ではない。ここナガサキから少しずつ、一歩ずつ。ナガサキが教えてくれた平和の、生命の尊さを署名に込めて、核兵器廃絶の声を上げ続けていきたい」という石司真由美さんの言葉が書かれているそうです。

被爆者の山口仙二さんは、著書『灼かれてもなお』の中で、「核兵器はこの世に存在してはならなかった。なくすためには実践しかないのです。政治家、官僚、市民それぞれの立場で何ができるか考えてください。国の安全保障を検討する立場の人は、核抑止力論に頼らない方法を、外交を担当する人は争いのない世界実現に知恵を絞ってほしいと思います。長崎では高校生など若い人が署名活動を広げています。市民は声を出してください。それが世論となり、少しずつ政治を変え、世界にも広がる。解決できない問題などないはずです。1人ひとりが真の平和を信じ、行動してください。それが自分の命を救い、子供や孫を思いやることです。私も訴え続けます。生命ある限り-」と書かれているそうです。

横山嘉範氏は『原爆を子どもにどう語るか』の中で、「被爆者でなければ『被爆の実相と被爆者の実情』を伝えることができないのかといえば、そうではない。…『人間の心』をもって、『事実を正しくみつめる』人であれば、だれでも『証言』をすることができる」と書かれているそうです。

サーロー節子さんは、ICANのノーベル賞授賞式の演説で、「私は13歳の少女だったときに、くすぶる瓦礫の中に捕らえられながら、押し続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さんと、これを聴いている世界中のすべての皆さんに対して、広島の廃墟の中で私が聞いた言葉をくり返したいと思います。『諦めるな。押し続けろ。光が見えるだろう? そこに向かってはって行け』」と述べたそうです。

今、核兵器禁止条約には70カ国が批准しています。核兵器禁止条約が世界の規範となるように、核兵器廃絶に向けて頑張っていきましょうと呼びかけました。

 

以上で報告を終わります。