学習会「ケアと資本主義」 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

3月21日、学習会「ケアと資本主義」にオンライン参加しました。

講師は岡山県学習協の長久啓太先生でした。

以下、その概要をまとめます。

 

まず、ケアとは何か、ケアの定義から私たちの社会をどうとらえ直すかが今回のテーマであるということが語られました。

今回の講義は、ほぼ岡野八代さんの著書や論文に依拠していると述べました。岡野八代さんは西洋思想、フェミニズム論がご専門で、慣れていない人にとっては難解な文章を書かれるそうで、新書でも難しいそうです。

また、長久先生自身の介護経験も背景にあるそうです。長久さんのパートナーが難病のALSとなり、5年ほど介護をされたそうです。体が動かなくなり、呼吸も困難となり、24時間人工呼吸器が必要となったそうです。パートナー中心の生活となり、介護が途切れれば命に関わるという経験から、実感を持って語れると述べました。

介護生活では、落合恵子さんの著書『母に歌う子守歌~わたしの介護日誌』が支えになったそうです。落合さんは「ひと月でいいから、もう一度介護させてよ」、「母の介護を軸にして息せききって走り回っていた日々をこのうえなくいとおしく、このうえなく懐かしく思うわたしがいる」と書いていらっしゃるそうです。振り返っていい時間だったと思える介護をしたい、そうできたと感じていると述べました。

 

第一章は、ケアとは何かがテーマでした。

ケアには、「世話する」、「関心を向ける」などの意味があるそうです。

人間は根源的にケアされる存在であり、私たち一人ひとりは例外なくケアされて育ってきていると述べました。人間は相互依存的存在であり、ケアは人間社会の根幹ですが、しかし、ケアは重視されてこなかったと指摘しました。

ケアの定義は、ダニエル・ユングスター氏によると、「ケアすることは、わたしたちが直接的に諸個人を助けるためにするすべてのこと」だそうです。つまり、人が人間社会で人として生きるために必要な、他者からの応答全般であると述べました。

ジョアン・C・トロント氏の定義では、「ケアは人類的活動」、「この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動」だそうです。広過ぎて議論にならないという指摘もありますが、しかし、対面的な二者関係を中心にケアが概念化されてしまうと「平等」という視点の妨げになると述べました。

岡野八代さんの定義では、雑誌『世界』2022年1月号によると、「ケアとは(中略)生きるために必要なもの(=ニーズ)」を満たす活動・営み・実践である」、「ケア活動をしている瞬間を超える(中略)営みを含んでいる」、「ケアとは”実践”に他ならない。すなわち、経験を積むなかで~」と書かれているそうです。一人ひとりの違いへの「敏感さ」が求められると述べました。

歴史的にケアがどう扱われてきたかというと、長い歴史の中で、劣ったこと、家庭のこと、私的なことと扱われてきたと述べました。

「自足」、「自立」であることが「一人前の人間」という人間観があり、依存はぜい弱だとされていたことが背景にあるそうです。

そもそも他者中心、一人前の市民にふさわしい活動から排除され、「母性」で片づけられてきたけれど、その「母性」は政治的に押し付けられてきたものだと述べました。

育児、家事、介護などのケアを人間として貶められてきた人たちに手中して行わせてきたことは、ジェンダーとの深い関わりがあると指摘しました。

政治の担い手はケアをしてこなかったので、ケアの担い手は政治から排除されてきたと指摘しました。女性参政権は100年くらいの歴史しかありません。

大事なこと、仕事や活動があるのに、育児や介護に自分が振り回されたと感じてしまう、私たち自身の中にもケアを見下す心性があると指摘しました。

女性の生きにくさ、不自由さ、選択のなさなどを、女性自身が変えていこうとする理論と運動をフェミニズムと呼ぶそうです。つまり、フェミニズムはケアと密接に関わるということです。

1960年代、自分たちのしていることに「言葉を与える」ことが行なわれたそうです。

「なぜ私たちは取るに足らないことと片付けられることをやっているのか」、「私の人生は何だったのか」など、もやもやしていることに言葉を与えるということです。言葉なしには考えることはできず、言葉を得ることで考えることができると述べました。

たとえば、「家事労働」という言葉により、なぜ家事は無償なのかという意識が生まれ、不払い労働ではないかと考えられるようになったと指摘しました。

1970~80年代のフェミニストたちの議論は、2つの方向性があったそうです。男並みに社会進出する道か、社会保障などで家事などの活動へ評価を高める道かの2つだそうです。これがフェミニズム第2波だそうです。

心理学の研究では、「なぜ女性たちは育児をするのか」ということが問われ、母性の美化を批判し、母親業を再定義し、実践としての母親業が研究されたそうです。

1990年代以降は、ケアというのは人間として価値ある実践であるという論が起こり、ニーズを満たされることを待つ他者への応答、ケア実践が生み出すものとして、「ケアの倫理」が提唱されたそうです。

ケア実践の特徴として、次の6点があげられました。

(1)ケアは、生存に関わるニーズを自ら満たせない人、誰かに依存せずには生きられない存在のためになされる。

(2)ケアのニーズは、個体的な理由とその人が置かれた状況により、1人ひとり異なる。

(3)ケアを提供する人はしたがって、ケアを必要とする人に特別な注視、関心、配慮を向ける。

(4)ケアする人とされる人との関係は、その個別のケアをめぐってケアする人に特殊な知識や判断力、そして責任を要請する。

(5)ケア関係にある人は、その能力・体力において非対称的な力関係にあり、ケアを受ける人は、ケア提供者の意図やケア実践のそのものを理解しないことさえある。

(6)ケア提供者は、なにがよいケアなのかを実践のなかでつかみ取るしかなく、とはいえ、なにか最善のケアなのかという最終的な回答を得ることは難しい。

以上のような特徴から、ケア提供者はケアを放棄できず、ケアに集中することが求められ、自分自身のケアができなくなると指摘しました。

つまり、家庭内の無償のケアでは、他の誰かに経済的に依存せざるを得ないという「二次的依存」の状態が生じることになると指摘しました。そのため、ケア関係は外部、第三者の支えを必要とすると述べました。

こうした「二次的依存」が、ケア提供者が「自立的できない、か弱い存在」であるかのように扱われてきた原因であり、ケア関係を社会的に閉じられた関係へと見せかけているのが家父長的な家族観であると指摘しました。

 

第2章では、資本主義はケアをどう扱うのかが論じられました。

資本主義は、もうけがあれば後はどうでもいいという思想であり、自然から資源を収奪し、ケアを市場の外部として家庭に押し付けてきたと指摘しました。また、資本主義は働けないものは価値がないものとみなしてきたと指摘しました。

そのため、自然も家庭も持続性が失われつつあると述べました。

ケア実践を市場の外部として扱うということは、経済活動が人間活動の中心だとする思考様式の資本主義社会において、「ケアの価値」を軽視してきたということです。

資本主義の論理と「ケアの倫理」は常に対決するものであり、ケアという営みは資本主義のなかでは評価されず、社会そのものを問い直す必要があると指摘しました。

なぜケア労働の報酬は低いのかというと、家庭の中で女性がやるものとされてきたからだと述べました。

家庭での労働が外部化され、専門化されると社会的価値は変化しますが、しかし、外部化されにくい育児などは評価されにくいと述べました。

ケアの受け手が、ケアに対する対価を支払う能力がない場合もあり、したがって、公的にその価値を評価し、対価を支払わなければならないと指摘しました。

また、ケアの提供者は受け手のダメージを知っているがゆえに、低処遇でも辞められないのだと指摘しました。

ケア労働がなければ労働力の再生産も市場も成り立たなくなりますが、しかし、それが「当たり前」、「不可視化」されていると述べました。

「子育て」の成果を企業は「タダどり」することになり、これは不正義ではないかと問いかけました。

無責任な「特権者」は、自分にはケアが必要ない、自助で十分と思っていますが、逆に十分ケアを受けてきた人であり、そうした権力者によって、女性たちはケアに向かわされていると指摘しました。

 

第三章では、ケアの倫理から社会や政治をとらえ直すことが論じられました。

ケアの人間観は、誰もがケアせれる、ケアする人々であるという人間観だと述べました。

人は一人で生きていくことはできず、「依存=劣る人」という価値観を見直すべきだと指摘しました。人間はそもそも脆弱性と持ち、相互依存している存在だと述べました。

自分とは異なる他者への尊重は、ケアの受け手はケアの提供者の予想もしない変化をするものであり、ケアの両義性として、大切なこととおもいつつも、「副次的」、「余計なもの」と考える傾向への内省があるということが指摘されました。ケアは自己変革を伴った営みであり、それを貶めてきた政治家に対し、価値観の転換を迫るものだと述べました。

また、ケアの与え手と受け手の力は非対称であり、怒りや不条理にかられて暴力に訴えないという倫理が必要だと指摘しました。これは、国際関係や安全保障にも通じると述べました。

ケアの実践は、異なるニーズを持つ他者の声を聴き、憲法13条、24条にある「尊厳」を支える営みであると述べました。

ケアには時間が必要であり、男性は長時間労働、女性は職場と家事でへとへとでは、ケアする権利が奪われていると指摘しました。ケアには余裕が必要であり、労働時間の短縮はケアを中心に置く社会に向けた最大の課題であると指摘しました。1日8時間労働は片働きが前提であり、共働きではもっと労働時間を短くすべきだと述べました。

ケアに満ちた民主主義へ向かうために、ニーズに応答する責任は政治にこそあると指摘しました。社会で声をあげられない人たちの方へ、政治から一歩踏み出す必要があると述べました。

政治もまたケアという営みの一つと考えると、女性たちや社会的に脆弱な人たちの声に耳を傾けないことは間違いだと指摘しました。

ケアに対する責任を平等に配分していくのが新しい民主主義であり、ケアはすべての人に関わる最重要課題であると述べました。

市場での価値がつきにくいケアの価値は公的に決めていくしかなく、ケアを家庭に押し付けてきた政治を見直す必要がある、ケアの視点から政治を見る必要があると述べました。

 

最後に、二つの文章が紹介されました。

一つは、ジョアン・C・トロント氏の『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』からです。

「すべての人にとって、善く生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです。すなわち、必要なときは他者かから、良くケアされ、あるいは自分自身でケアできる生活です。そしてそれは、他の人びと、動物、そして自分の人生に特別な意味を与える制度や理念のために、ケアを提供する余裕がある生活です」

もう一つは、岡野八代氏の『ケアの倫理-フェミニズムの政治思想』からです。

「生産や経済を中心にするのではなく、ケアを中心とする人間観、社会観、世界観へとわたしたちの意識を転換することは、とても時間のかかる大きな変革を必要とするように思われるかもしれない。しかし、その課題の山の前にひるんでいる時間は、地球にも、そしてわたしたちにも、残されていない」

 

以上で報告を終わります。