第50回中央社会保障学校 シンポジウム | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2023年は、逆転の年です。

ロシアのウクライナ侵攻を言い訳とした軍拡とそれに伴う防衛費倍増を許さず、社会保障の削減や負担増、増税の方針を転換させ、不十分なコロナ対策を見直し、疲弊している医療従事者・介護従事者を支援し、人員増のための施策を行ない、憲法改悪を阻止し、安心して働ける職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。

そして、相次ぐ自然災害の被災者の皆さんにお見舞いを申し上げます。一刻も早く生活が再建されることをお祈り致します。

 

 

9月16、17日、第50回中央社会保障学校にオンライン参加しました。

今回は、2日目に行なわれたシンポジウムについて概要をまとめます。

 

シンポジウムのテーマは「生活保護基準引き下げ違憲訴訟で何が問われているのか」でした。

コーディネーターは岡山訴訟弁護団事務局長の森岡佑貴弁護士、シンポジストは原告の女性、県立広島大学准教授の志賀信夫さん、林道倫精神科神経科病院ソーシャルワーカーの上村真実さんでした。

森岡弁護士は、まず、生活保護基準引き下げ違憲訴訟、いのちのとりで裁判とはどういうものなのかを説明しました。2012年12月、自民党が選挙のマニフェストに掲げた生活保護基準の引き下げを行ないました。背景に生活保護バッシングがあり、厚労省が自民党マニフェストに引っ張られ、史上最悪の670億円もの生活保護費引き下げが強行されました。内訳は、デフレ調整として580億円、歪み調整として90億円の引き下げだったそうです。

生活保護裁判は勝訴するのが難しいと言われていますが、いのちのとりで裁判は21判決中11勝訴で勝ち越しているそうです。「国の言っていることが正しい」としたのが10判決だそうです。岡山訴訟は8月頭に本人尋問と志賀先生の証人尋問が行なわれ、現在は最終準備書面の準備中で、それが終わると判決が出されるそうです。

次に、原告の女性が裁判に参加することになった経緯を語りました。彼女は病気の悪化から、手術の費用のために生活保護を申請したそうです。なかなか普通の生活には戻れず、母の介護をするのが精いっぱいの厳しい生活が続いたそうです。9年後、体がよくなったのでヘルパーの仕事を始めましたが、子どもが学校を選べなかった、大学へ行けなかったのが辛かったそうです。今は70歳を過ぎて生活保護費が下がってきて、年金も入るので生活保護の受給額は減っているそうです。食べるものが食べられない状況で、大腸を手術しているのでタンパク質を摂るのが魚のみで、魚は高いのでちくわで代用したり、安売りのカツオのフレークなどを食べたりしているそうです。着るものはいつ買ったかわからないくらいで、娘が送ってくれる服を着ているそうです。冬は辛く、上に着る物が高いので外へ出られず、燃料も高いと述べました。生活が苦しく、裁判で闘う以外にどうにもできない、それ以外に生きていく道がないと思い、ぜひ原告にしてほしいと頼んだそうです。

森岡弁弁護士は、原告だけでも弁護士だけでも裁判はできず、多くの協力が必要だと述べ、ソーシャルワーカーの上村さんと志賀先生に裁判との関わりを尋ねました。

上村さんは、当事者の方と一緒に陳述書を作成したと述べました。院長が当事者の事例やアンケートをまとめ、ちょっとした生活の中で我慢を強いられている状況が見えてきたそうです。生活の中で大事にしたいものを抑えざるを得ない状況で、幸福追求との引き換えになっていると述べました。当事者にも生活保護へのマイナス感情があり、権利ではなく「国の世話になっている」と考えているので、声を上げにくいのだと指摘しました。林病院には生活保護利用の患者さんが多く、院長が弁護団と関わりがあるので、患者さんの生活支援に関わるソーシャルワーカーとして語れるものがあるとのことで、弁護団に協力することになったそうです。自分が担当している患者さんの生活に事例がないかを振り返り、患者さんに協力してもらって陳述書を作成したと述べました。

志賀先生は、県立広島大学の前は京都の大学にいて、大阪の弁護団から意見書の作成を依頼されたと述べました。テーマは「貧困とは何か」についてで、これを裁判官にわかってもらえないと、裁判官のイメージで貧困を考えてしまうから、意見書が必要とされたそうです。たとえば、7、8割の人が食べられているが、それでもって生活保護基準引き下げが問題ないと考えられては困るということです。証人尋問にも立ったそうです。ずっと貧困研究を続けてきてので、個人的にはありがたいと述べました。自分の物語と原告の物語が交錯し、頑張らない訳にはいかないと述べました。裁判に臨むスタンスは、デフレ調整など、統計的問題が主戦場になっているが、これを説明してみんなが理解するようにするのは難しく、具体的な現実、生活から出発することとし、そこからいかに制度がおかしいかを話すというものだそうです。

森岡弁護士は、証人尋問に結実したと述べました。国は「お金は余っているでしょう」というスタンスですが、精神疾患にかかっている人にとって、医療扶助ではだ内ものを生活扶助からださなければならないと指摘しました。

志賀先生は、「権利はたたかう者の手にある」と述べました。最初の判決である名古屋地裁判決は、国のしたことに正当性があるとしたそうです。日本福祉大学の山田先生の調査によると、生活保護基準の引き下げによって食事の回数を減らした、食事の質を落とした、入浴回数を減らしたという回答だったそうです。一方、名古屋地裁判決では、1日3回食事をしている人が6割いるからよしとしました。しかし、憲法25条は「すべて国民は」とあるのに、4割の人が3食食べることができなくていいのかと指摘しました。そして、栄養面にも配慮していないと指摘しました。これは「節約」ではなく「抑圧」だと述べました。人は人格、尊厳、体全体で生きているが、名古屋判決は胃袋だけを見ていると述べました。尊厳を無視されているのは差別だと指摘しました。生活保護制度を、差別を含んだものとして容認するのは、制度による暴力だと述べました。

憲法25条には「健康で文化的な」とあるが、これらは両方とも必要であり、優先順位はないと述べました。そして、人は社会の中で生きており、この「社会」とは人間と人間の関係全体をさすと述べました。食事の機能には社会的機能があり、調理して、味付けすること、社会参加を保障することだと指摘しました。着る物も同じであり、社会的に生きるために必要なものがあると述べました。だから、「節制」ではなく「抑圧」だと指摘しました。

「貧困」とは何かは、歴史的の変遷している社会規範だと述べました。

19世紀末から20世紀初頭は、肉体的能率の維持ができないような所得の欠如状態とされていたそうです。イギリスでは資本家がやりたい放題をしていたため、貧困に陥った人々が労働運動を始めましたが、労働運動を抑えるための貧困対策が行なわれたそうです。つまり、食べられないことを貧困と見る、食べることを保障すればよいとする低い水準だと指摘しました。しかし、少なくとも社会運動が勝ち取った成果ではあったと述べました。

20世紀半ばは、人権思想、社会正規と整合性のある貧困観が生じたそうです。貧困の概念の拡大は、貧困率の基礎的な考え方を元にした相対的貧困につながったそうです。つまり、普通の生活ができないことが貧困だとする考え方です。男性が働き、女性が家事をするといった家族スタイルを想定し、それを「普通」とするという、差別を含む考え方だったそうです。

20世紀末以降は、多様化に対応した考え方、より人権を重視する考え方になり、社会的排除も含めて「貧困」とするようになったそうです。肉体的生存のみならず、社会的生存も含めて考えるということです。

そして、名古屋判決や大阪判決は、100年前の貧困観によるものだと指摘しました。

上村さんは、弁護団と話す中で事例となるものを思い出したと述べました。コロナで断酒会などができない中で、久々に当事者と連絡を取り、状況を聞く中で、生活の苦しさを聞き、了承を得て陳述書にしたそうです。社会へ出していくことで、ソーシャルアクションの機会になると述べました。2016年7月頃に出会ったアルコール依存症の男性で、苦しさを紛らわすために飲酒をするようになり、依存症につながったそうです。コントロール障害があり、飲む時間や量をコントロールできないそうです。そのため、仕事や社会的信頼を失いがちだと指摘しました。日本はアルコールに寛容ですが、依存症を意思の問題だと捉えがちだそうです。

Bさんは高校を退学し、職を転々とし、離婚も経験したそうです。苦しさを紛らわせるために飲酒を始め、害が体に出るようになってしまったそうです。飲酒運転や事故で仕事を失い、受診につながったそうです。「また飲めるようになっているのではないか」と思いがちで、入退院を繰り、治療の継続と生活の立て直しのため、生活保護を利用することになったそうです。飲まない生活にシフトチェンジし、断酒会に参加するようになったそうです。

断酒会は20名くらいの集まりで、2時間くらいかけて自分の飲酒体験などを話すもので、人とのつながりの中で飲まない生活を目指すそうです。精神科治療の大事な視点として、社会資源の利用で生活を支え、人同士をつないで関係性を再構築するということがあるそうです。生活保護からは移送費が出るそうです。断酒会の会費は生活扶助から捻出しており、Bさんは100円ずつ積み立てているそうです。かつては社会から孤立していましたが、今では自分でも誰かの役に立てると思えるようになり、健康で文化的な生活を目指せるようになったそうです。生活の苦しさは、仲間うちでの飲食に参加できない、日常生活の中で経費を削る選択、食事の内容や入浴の回数を減らさざるをえず、社会参加の足かせになっていると述べました。

陳述書で訴えたことは、他者貢献をBさん自身も望んでおり、その一方で日常生活の抑圧を迫られているということであり、生活保護の引き下げは健康で文化的な生活できない理由となっている懸念があると述べました。

森岡弁護士は、食べたいものはあるが、病気での制限がある中で食事の面で制限があると述べ、原告の女性にその点について話すことを要請しました。

原告の女性は、着る物については考えないと述べました。暖房費と冷房費が一番大変で、命に関わることなので仕方ないと述べました。食べる物を節約しないと冷房費は出ないと指摘しました。冬はお風呂のお湯を湯たんぽに使用するなど、工夫もできますが、夏は工夫のしようがないと述べました。

次に、森岡弁護士は社会的排除について話すことを要請しました。

原告の女性は、友達に会うにも着る服がなくて行かないと述べました。娘も離れて住んでおり、交通費が出せないので会いに行けないと述べました。新型コロナの給付で1回は会いに行けたが、お祝いを持って行くこともできないのが辛いと述べました。

森岡弁護士は、原告の生活の問題点について志賀先生に説明を求めました。

志賀先生は、8月2日の尋問で具体的な生活実態について取り上げられたと述べました。「社会的に生きる」か、「動物的に生きる」かを制度が迫っていると指摘しました。食事を削ってでも大切にしたいものもあると述べました。ある人から希望を剥奪することも、人を死に追いやることになりかねないと指摘しました。どちらかを選んだとしても選んだ方も維持できず、トレードオフに見えるがそれすらも成立しておらず、これは健康で文化的とは言えないと指摘しました。

則武弁護士が、「憲法25条は日本では維持されていると言えますか」と質問し、相手側が「関係ない」と主張しましたねじ込み、志賀先生は「日本では守られているとは言えない」と答え、人権の剥奪は人を死においやると訴えたそうです。

上村さんは、陳述書をつくる過程でつながりが広くなり、裁判の傍聴にも行ったと述べました。自分だけでやるのはしり込みするが、後輩や事務職員で何かできないかと考える人たちがいて、有志の会をつくったそうです。院長も入って、ビラをつくって配ったり、プラカードをつくってアピールしたり、職員へ広げる活動を始めたと述べました。裁判の傍聴については、民医連新聞に掲載されたそうです。自分がやらなければと思っていたが、仲間がいろいろやってくれて心強いと述べました。民医連70周年の全国リレー配信でも発信し、いろいろな人が関わってくれたと述べました。7月の社保委員会の全体学習会で志賀先生の講演を行ない、60人が参加し、「貧困とは何か」をテーマに学習したそうです。ちょっとしたことの積み重ねで、誰かだけががんばるのではなく、同じ思いの人が集まってできることを積み重ねて運動になっていると述べました。

森岡弁護士は、原告と弁護士がミニマムだが、それだけで勝てるものではなく、輪が広がっているところだと述べ、その中心にあるのが原告の熱い思いだと述べました。

原告の女性は、裁判に関わろうと思ったのは生活保護バッシングのひどさがあったからだと述べました。命に関わることなのに、平気でバッシングが行なわれ、なぜこんなにいじめられなければならないのかという思いだそうです。こうした世の中を変えたいと述べました。

森岡弁護士は、生活保護はナショナルミニマムと言われ、いろいろな制度に関わり、守っていかなければならないと述べました。そして、11の地裁で否定されるような生活保護基準改定がされてしまう問題について、志賀先生に解説を求めました。

志賀先生は、最初の救貧法がそもそもバッシングを盛り込んだ制度であり、それが今も続いていると述べました。ベーシックサービスという、ベーシックなものに生活保護受給者だけでなく全ての人々がアクセスできるようにし、高額な商品ではなくしていくという考え方があるそうです。医療、介護、教育、住宅などを定額、あるいは無償化することにより、脱商品化するということです。こうした考えは労働運動にも影響力があり、全てのものが商品化されると多くのお金が必要になり、嫌な仕事でもやらざるを得ないが、脱商品化が進めば資本に対する交渉力が高まると述べました。しかし、それを実現するのは研究者だけではないと指摘しました。社会保障の違いは社会運動の強さの違いであり、研究者と市民が連帯して、社会運動に政治を従属させなければならないと述べました。選挙だけではなく、デモでも制度は変わると述べました。議会は連帯を恐れているから分断しようとするのであり、連帯すれば変えられると指摘しました。「予算配分によって我々の生活が左右されてはならない」ということは、財源確保の話になると複雑になるので、財源、制度の話から入るのではなく、生活の話から入るのが筋だということだと述べました。しかし、今はそれが全て逆転しており、だから、私たちは生活の話から入り、要求していくべきだと指摘しました。個人的には、原告が自分の生活を語ってくれたように、研究者も日常の生活を語らなければならないと思うと述べました。出発点は自分の生活であり、実家は生活が厳しく、父親が自死したそうです。力が強かった父をあそこまで追い込んだのは社会的暴力だと指摘しました。奨学金について、「借りたものは返せ」と言われるが、教育無償の国はたくさんあり、生まれる国が違ったら借りる必要はなかったものだと述べました。生活の話から始め、必要なものを要求すれば、実現している国はたくさんあると指摘しました。なぜこの世界はこうなっているのか、研究者に説明させるべきで、研究者を使い、政治家を使うべきだと指摘しました。誰も死ななくていい社会を、みなさんが生きているうちに実現させたい、それを一緒にできたらいいと述べました。

 

質疑応答では、生活保護は現金給付だが、現物給付にしてはどうかという質問がされました。

その質問に対して、現物給付は全ての人に実現さえるべきで、現金給付をなくしてはならないが、お金を出さなくては実現しない分野を減らしていくべきで、最終的に全てが脱商品化されれば、助け合いの中で生きていけるようになると答えました。

 

記念講演の講師の則武弁護士からまとめの発言が行なわれました。

志賀先生の話に感銘を受けたと述べました。生活保護裁判、年金裁判を闘っているが、どうすれば朝日訴訟のような運動ができるのか悩んでおり、生活から始めるということに感銘を受けたと述べました。朝日訴訟では、朝日さんが生活について語り、多くの人がそれを知って、それでいいのかと思ったそうです。多くの人に原告の生活を伝え、共感を持ってもらうことが必要だと述べました。Bさんにとっては断酒会が生きがいになっているが、それを奪うような今の制度の実態が問われていると指摘しました。問題に関わる中で、自発的に行動を起こしている人がいることに希望があると述べました。朝日訴訟を改めて学ぼうと、岡山県で社会保障学校が開かれたと述べました。60年前と同じく、社会保障については財源の議論をするが、ミサイルはどんどん買って財源の議論は後回しだと指摘しました。歴史に学んで、60年前に突破したことに確信を持とうと呼びかけました。

 

以上で報告を終わります。