まず、東日本大震災の被災地の復旧・復興が、住民の立場に立った形で、1日も早く実現することを祈念致します。
そろそろ次期の最低賃金の検討が始まる時期であり、例年各地の労働組合によって最低賃金引き上げを求める行動が取り組まれます。
最低賃金はかつてはほとんど上がらず、上がっても1円か2円程度でしたが、法改正によって、地域別最低賃金を決定するにあたっては地域における労働者の生計費を考慮し、それにあたっては「労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮する」(最低賃金法第9条3項)ということが定められた結果、地域によっては10円前後引き上げられるところも出てきました。
つまり、生活保護の生計費水準を引き下げることは、最も低処遇の労働者の賃金をも引き下げることになる恐れがあるということです。
そのように、生活保護と労働者の処遇は法律上連動している訳ですが、現在起こっている状況は、労働者の低処遇に合わせて生活保護水準を引き下げようとしている動きであると見なすことができるのではないでしょうか。労働者の生活の苦しさが、生活保護受給者に対する”もらい過ぎ””もらい得”といった印象をもたらす原因となり、実際には苦しい状況にいる者同士が足を引っ張り合う悪循環に陥ってしまっているのではないかと思います。
その結果として労働者が得をすることは全くなく、むしろ低処遇の労働者をますます苦しくする結果にしかならないのですが……
また少し視点が違いますが、生活保護と労働者の関連について言及している竹信三恵子さんの「週刊金曜日」掲載の記事をご紹介したいと思います。
引用部分は青で表記します。
竹信三恵子の経済私考
働き手の首を絞める生活保護たたき
やるべきことは雇用劣化の根本治療
週刊金曜日 2012年6月15日 899号 p31
(前略)
戦後の混乱期の1951年、約204万人に達した生活保護受給者数は、95年の約88万人を底に再び上昇に転じ、2012年2月時点で約210万人と過去最多を記録した。再上昇の起点となった95年は、日本経営者団体連盟が「新時代の『日本的経営』」を発表し、働き手を、従来型の「正社員」と不安定で低賃金の「非正社員」に分ける構想を打ち出した年だ。
この構想に沿う形で派遣労働や有期労働の規制緩和が続き、不況に直撃されやすい非正規の働き手は、いまや4割近くにのぼる。一方、非正規労働者に慣れた企業は、正社員にも同様の使い捨て的な扱いをするようになり、ストレスや過労から働けなくなり窮乏化する例が増えている。つまりは、人件費削減のため雇用を劣化させてきた企業の尻拭いを、生活保護が一手に引き受けた結果、受給者が増えたといってもいい。
日本は実は、生活保護が必要な人が保護を受けている率が主要先進国中最低の生活保護小国だ。「自力でなんとかしろ」が基本なため、仕事を失っても親族を頼るなどして我慢する人が少なくないからだ。騒がれている不正受給額の増加も受給者全体が増えた結果にすぎず、率では横ばいだ。不正受給件数の増加も、行政が受給者の収入調査を強めた結果、子どものアルバイト収入の申告漏れなどのうっかりミスが「不正」として算入されることが増えたからという。
こうして見ると、生活保護の受給者を抑えるには、雇用を安定させるか、高所得者から税を徴収して再配分することで「働けば食べられる」社会を取り戻すしかない。にもかかわらず、今回の労働者派遣法改正では、極端に不安定な「登録型派遣」の原則禁止は削除された。ILO(国際労働機関)は、この点について、「派遣労働者への効果的な保護が欠落している」と問題視し、このほど、すべての派遣労働者に十分な保護を確保するよう日本政府に勧告している。こうした根本的な治療の必要性をごまかし、おまじないで病気の治療をしようとするかのような的外れの手法へ逆戻りさせようとしているのが生活保護バッシングだ。
バッシングに乗る形で、政府は、この秋に策定する「生活支援戦略」の柱として「生活保護制度の見直し」を打ち出し、「就労・自立支援」「生活保護基準の引き下げ」を盛り込む見込みと報じられている。働いても生活が立てられない仕組みが放置されたままで、どう「自立」しろというのか。しかも、そんな劣化した雇用の水準に合わせて生活保護基準も引き下げられていくとしたら、カネはますます働き手に回らなくなり、日本はデフレの泥沼で、もがき続けることになる。
生活保護たたきは、どこかの貧困者の問題ではなく、働き手が自分で自分の首を絞める行為だ。フツーの働き手からの反バッシングの動きを繰り出すべき時がきている。
たけのぶ みえこ・ジャーナリスト、和光大学教授。著書に「ルポ賃金差別」(ちくま新書)など。
雇用が劣化し、貧困層が大幅に拡大しているのに生活保護受給者の増加がこの程度(捕捉率20%前後)で留まっているのは、日本人にはなるべく自力で何とかしよう、人に頼らないようにしようという精神の持ち主が多いことと、生活保護の窓口でなるべく申請をさせない「水際作戦」が行なわれていることによるものでしょう。つまり、日本人の多くは生活が困窮を極めてどうしようもなくなるまで我慢を重ね、我慢も限界に来てようやく生活保護の相談窓口を訪ねても、担当者から「あなたは働けるでしょう」「もっと一生懸命仕事を探してください」などと言われると素直に引き下がってしまう人たちなのでしょう。その結果、最悪の場合は餓死、凍死、病死に至ってしまうのです。しかし行政には、「本人が生活保護申請の意思を示さなかった」という言い逃れが用意されている訳です。
日本人の多くがそうした精神の持ち主で、日本の行政がそうした逃げ道をちゃんと用意しているので、日本の企業は安心して労働者を使い捨てにできるという訳です。
雇い止めや派遣切りをしても騒ぐのは労働組合とつながったほんの一部の人たちだけで、多くの労働者は黙って辞めさせられることを受け入れます。生活に困ってもそう簡単に生活保護の申請をすることはないので、生活困窮者が大量に出ても企業への増税が求められるほど財政が逼迫することはありません。たとえ逼迫したとしても、歴代の日本政府は消費税を上げようとしか考えてきませんでしたし。
2009年後半に雇い止め・派遣切りが一斉に行なわれたときは、さすがに日本人も雇用を劣化させるのは問題ではないかと思うようになりましたが、喉元すぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、労働者派遣法の改正を骨抜きにしても、やっぱり騒ぐのは一部の人たちだけという状況になってしまいました。
かくして、企業は引き続き安心して労働者を使い捨てることができる訳です。彼らの言い分としては、そもそも経営上の必要が生じたら辞めさせることを前提に派遣労働者や非正規労働者を雇っているのだから、その通りにして何を騒ぐことがあるのかというところなのでしょう。
しかし、もういい加減に日本人は”ものわかりのいい日本人”であることを止めなければならない時にきているのではないでしょうか。
日本人の出生率はずっと下がったまま横ばいです。このことは、子どもを生み育てる世代の多くが不安定な労働者で、子どもを持てないどころか結婚もなかなかできない状態にあることと無関係ではないでしょう。このままでは日本は先細っていくばかりです。
労働者が企業の論理や経済の論理に唯々諾々と従って使い捨てられ続けることを止め、労働者の論理、生活者の論理を打ち出して、そちらを選ばなければ日本の未来に希望はないということを主張しなければならないと思います。
そして、そうすることが竹信さんの言うところの「反バッシング」となり得るのではないかと思います。